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幸運のまじない

 この三日間で、P作戦の第一次作戦群の一斑から三班までが出撃した。隠密行動であるので、真夜中の出港だ。

 軍楽隊の見送りもなく、花束もない。安全や生還を祈る見送りの家族の姿もない。

 基地の幹部や、艤装を変えるために徹夜で働き続けた技官たちだけが、小声で激励し、挙手の礼で見送るだけのひっそりとした出陣だった。

 P-07とP-08にも出撃命令が出ていて、明日出撃ということになっている。彼らと同じように、真夜中に、ひっそりと海に出るのだ。

 

 幸運亭の人たちは、我々が何という兵器に搭乗しているかを知らないが、いつ出撃するかは当日知らされる。それで、夕食には急遽ディナーを用意してくれた。

「はじめから分かっていたら、ちゃんとしたものを用意するのに」

 と、女将のクラーラ・バルシュミーデさんはこぼしていたが、我々にとってどんなご馳走より、彼女が作る家庭料理の方が何倍もありがたい。これから一ヶ月以上、陸地を離れるのだから。

 普段は、奇妙な緊張感を保って黙り込みがちP-07の乗組員だが、陽気なP-08の連中に引きずられて、いつもより饒舌だ。

 今日のために着飾ったクラーラの娘のテレーゼが同席しているのもあるだろう。

 彼女は美人ではないが、笑うとその場が華やぐような雰囲気があり、それは例えるなら、薔薇が手入れされた美しさが感動を覚えるのに対し、名も知らぬ野の花がはっと胸を衝くほど美しく感じることがあるのに似ている。

 ロストックに来て、一ヶ月あまり。訓練とテストの日々だった。それが、今夜終わる。数時間後には、我々は海上にいるのだ。

 乗組員たちは皆若いが、ずぶの新兵はいない。最低一年以上は戦場に身を置いたことがあるベテランばかりだ。だから、弾丸は自分を避けて飛ばないことを理解しているし、実際の戦場は英雄譚に出てくる戦場とは違うことを知っている。

 その証拠に、普段はがぶ飲みするワインも、ちびちびと味わうだけだし、バカ騒ぎもしない。躾けに厳しい女将のクラーラが同席しているということもあるが。

「アルフレード、いよいよだな」

 グラスを掲げて、P-08艇長エーリッヒ・バウマン大尉が私に話しかける。何度も訓練をともに重なることで、私とバウマン大尉はファーストネームで呼び合う程度には親しくなっていた。

「海上に出れば、我々ほど強力な火力を持ち、かつ我々ほど高速で機動する機体は無い。きっと結果は出せるよエーリッヒ」

 私もグラスを掲げ、そう答える。

「海軍に」

 バウマン大尉がグラスの白ワインを干す。

「戦車乗りたちにも」

 私も白ワインを干した。

 私の前に、笊が出された。そこには、雑多なものが入っている。

「もう一度、ここに帰ってくるための『おまじない』です。私物を一つ、お預かりします」

 テレーゼだった。私はあまり彼女と話をしたことが無かったので、声を聞いたのは初めてのような気がした。

 まるで、鈴が転がるような、可愛らしい声だった。

「では、ボクはこのピンバッジを」

 バウマン大尉は、エーデルワイスの花をモチーフにした金属製のバッジを笊に入れた。彼の地元の合唱団のメンバーの証だそうだ。

 私はバッグの中を漁ったが、必需品以外なかった。テレーゼはニコニコと笑って私に笊を差し出してくる。

 ポケットを探ったが、そこには手帳と小さな古い聖書しかない。私が海に出るとき、信心深い私の母親が私に持たせたものだ。

 私は、その聖書を笊の中に入れた。

 神なんかいない。私は、それを思い知らされた。だから、私にとって聖書は不要の物だった。

「古い聖書ですね」

 テレーゼが言う。

「私のひい爺さんが持っていたものでね。なんとなくポケットに入れたままだったんだ」

 なんだか落ち着かない気分だった。何の邪気もないテレーゼの青い瞳に見られると、自分が薄汚れた存在に思えて、いたたまれない。

「なんだなんだ、『親父さん』の更にひい爺さんか。ジークフリードの軍勢に加わっていたんじゃあるまいな?」

 バウマンの軽口に救われた。

 

 穏やかに行儀よく宴は続き、出撃の時間は来た。

 『幸運亭』の庭にトラックが止まった音がして、若者たちは一瞬で兵士の顔になった。各々が、ペンギンに持ち込む最低限の手荷物が納められたダッフルバッグを肩に、庭に出る。

 私とバウマン大尉も革の書類カバンとスーツケースを持って庭に出る。一足先に出たP-07とP-08の乗組員が整列して待っている。

 見送りに出てきた『幸運亭』の人々と、三本脚の犬リンツに向かって、

「幸運亭の方々に対し、敬礼」

 と、私は号令をかけ、兵士たちはそれに従った。

「では、いってきます」

 一同を代表して、私が挨拶する。

 兵士たちは、トラックに乗り込み、身を乗り出して『幸運亭』と三人と一匹に手を振る。我々に懐いていたアヒムが、手を振りながら走って追いかけてきた。そして叫ぶ。

「頑張ってね! きっと帰ってきてね!」

 トラックは進み、アヒムの姿は小さくなり、見えなくなった。

 イワシの加工工場に偽装した基地が近づいてきた。

 いよいよ、私たちは戦いの海に出るのだ。

 

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