戦うペンギン
久しぶりにレインコートに袖を通す。
杖を突き、同時に傘をさすのは足元が危ないので、雨の日はどうしてもレインコートということになる。
したがって、今日の様にどうしても出掛けなければならない用事があるとき以外は、雨の日の外出が億劫になってしまい、レインコートの出番もなくなるのだ。
レインコートの下は、比較的マシな背広を着た。年金生活者になって、背広もネクタイも着る機会がなくなてしまったが、無意識にネクタイを結ぶことが出来たのが、少し驚きで、少し嬉しい。
鍵、財布、老人用パス、そういった物を服の上から所定のポケットに収まっているかどうか触れて確かめながら、ソフト帽を目深にかぶった。
「いってきます」
無人の我が家に声をかける。「いってらっしゃい」の声が聞こえなくなってもうニ年になるが、今でもそれが悲しくてしかたない。
音もなく雨が降っていた。風に漂うような霧雨だった。
若い頃、私は海の上にいた。私がいた海域は一年中うすら寒いところで、こんな霧雨の日が多かった。レインコートを着て、寒さに震えながら当直に立っていたことを思い出す。
路面電車の駅まで歩く。石畳の路面は濡れると滑りやすい。転んで誰かに助け起こされるなどという無様な目に遭いたくないので、慎重に歩を進めた。
嵐の夜、つるつる滑る甲板を、私は珈琲を片手に歩けたのだが、もはやそれは、遥か昔の事だ。
博物館や図書館や野外音楽堂がある広い公園の最寄りの駅で路面電車を降りた。雨は相変わらず無音のまま振り続けていて、私から容赦なく熱を奪っていった。
かじかむ手に息を吹きかけ、終戦五十周年のイベント会場に向かう。珍しい兵器の展示場は野外音楽堂のところで開催されており、私はそこに急いでいた。
気持ちばかりが急いて、足がそれに追いついていかない。だが、会場に近づくにつれ、薄れかけていた様々な記憶がどっと私の頭の中で目覚めてゆく。
むせ返るようなオイルの匂い。
立ち込める硝煙。
エンジンの叫び。
七十五ミリ砲の咆哮。
熟練のタイピストのタイプ音を思わせる二十ミリ機関砲の銃声。
夜の海で見上げた星空。
私とともに絶望的な戦いに赴いたオンボロな勇者たち。
気が付くと、私はとある展示物の前に立っていた。
「おとうさん、これ、戦車なの?お船なの?」
少年が、私の横で自分の父親に質問していた。彼の指差す先には、
『上半分は戦車、下半分は船』
という、実に珍奇な兵器が、霧雨の中にその姿をさらしていたのだった。
「なんだろうね。ヘンテコな戦車だね」
少年の父親は、展示物の説明書を少年に読んで聞かせていた。
「これはね、戦争で負けそうだった独国が、本土決戦用に温存していた戦車をお船に改造して、海上補給線の破壊に使おうとしたんだって。もう、新しいお船を作る工場も、資材も、何もなかったんだね」
少年は、ふーんと父親の説明を興味無さげに聞いていたが、新しく戦闘機をみつけてそこに走ってゆく。
私は一人、この珍奇な戦車とも船ともつかない兵器の前に取り残された。鹵獲され、どこかの倉庫に放り込んであった船体だろう。錆に埋もれた船体にうっすらと『P-43』という船体番号が見えた。
私が乗船したのは『P-07』。最も初期に進水した十隻のうちの一隻であった。『幸運の7番』それが、我々の愛称だった。
そう、私はこれに会いに来たのだった。海と陸のあいのこ。終戦間際に咲いた戦争の仇花。『戦うペンギン』に……。