カエルは崖を登った
四月半ばとはいえ、北海とバレンツ海の境目にあるフェロー諸島は寒い。
平均気温はだいたい七度Cから三度Cあたり。これでも、海流の関係で、同じ緯度にしては暖かい方だ。
夜の海を走る。
目的地は、以前工作員を送り込んだ英国本土北端のラス岬。前回同様、カエルが機銃手控席に、バルチュ伍長と一緒に座っていた。
これは、軍事行動ではない。諜報活動に類するもので、我々は軍人の扱いを受けない。
もとより、ペンギン部隊は表向き存在しない部隊であるので、こうした秘密裏の作戦にはうってつけなのではあるが、
「こんな事は、軍人のすべきことじゃないっす」
と、砲手のクラッセン軍曹は不満を隠さない。スラム街育ちのクラッセン軍曹は、初めて人間扱いしてくれた陸軍に思い入れがあるので、彼の不満のわからないではないのだ。
カエルは、ペンギン内部の薄明かりの中、MP40/l短機関銃の作動点検をしており、予備のマガジンを軍用ベストのポケットにつっこみ、漁師のセーター姿の上に装着していた。
工作員というよりは、レジスタンスかパルチザンみたいな恰好だった。
「暴発なんか、かんべんっすよ。跳弾が中で跳ねまわって、ひどい事になるっす」
不満も露わに、クラッセン軍曹が嫌味を言う。
「きをつけるよ」
カエルは気にした風もなく、淡々とそれに応えた。クラッセン軍曹は舌打ちして、軍帽を顔の上にのせ、背もたれに寄りかかってふて寝してしまった。
英国本土には、いくつもの米軍駐屯地が作られ、そのうちの何か所かは、明らかに偽装された基地だという。
その偽装された基地に限って、なぜか欧州の大反攻作戦の一部が漏えいしており、カエルはその情報の信ぴょう性を疑っていたのだった。
これはつまり、本土に潜入させていた工作員が、敵側に寝返った事を示していて、その真偽を確かめるため、姉妹の工作員を送り込んだのだと、カエルは私に告白した。
スパイを監視するスパイというわけだ。
その二人から、暗号で緊急脱出要請があり、以降ふっつりと連絡が途切れたそうだ。
カエルは、二つの状況を考えていると言っていた。
一つは姉妹が連絡すら取れない状態に追い込まれている状況。
もう一つは、英国情報部による罠。
いずれにせよ、独国情報部には包囲網や罠を食い破る火力がない。偽装漁船では、哨戒艇が出てきた時にあっという間に撃沈されてしまう。
そこで、ペンギンなのだ。五十ノットもの速力もあり、哨戒艇をものともしない頑丈な装甲と、百五ミリKwK L/28戦車砲、連装二十ミリFlak C/30機関砲がある。
「ドンパチがあると考えているのか?」
という私の質問に、カエルはこう答えたのだった。
「多分。彼女らが緊急連絡など、よほどのことなのだ」
フェロー諸島を出て四時間、我々はラス岬の断崖の岩場にP-07を隠した。小柄で、極端に喫水が浅いペンギンだからこそ出来る芸当だ。
ロッククライミングの経験はないが、船員ゆえにロープさばきが出来る私が、岩をよじ登ってゆくカエルのザイルを確保する役目を担う。
カエルの登る速度に合わせて、ザイルを送り出し、万が一カエルが滑落したら、ザイルがこれ以上流れ出ないように、体を張って止める役目だ。
「スパイに憧れてましたけど、俺は無理ですね。高所恐怖症ですから」
装填手のバウムガルテン一等兵が、登ってゆくカエルを見送りながら言う。
「それじゃ、船員にもなれんな、クルト。新兵はマストに昇らされるんだぞ」
「うへぇ。無理、無理」
カエルは、崖を昇り切った。トランシーバーから、彼の声が聞こえる。
HF/DFに探知されない周波数の無線で、有効距離は三キロメートル以内と小さい。
「やれやれ、無事に登りきったよ。年はとりたくないものだね。さて、諸君らは丸一日、ここで待機願いたい。丸一日たっても私から連絡がない場合は、フグロイ島に帰投していい。接近してくる漁船で、私からの合図がない場合は、速やかに撃沈しろ」
私は、ザイルの片付けをバウムガルテン一等兵に任せ、
「合図は、どんなものだ?」
と、尋ねた。カエルは「すぐにわかるよ」とだけ言って通信を切った。




