7月14日
夏休みまで一週間くらい。
暑さはますます増すばかりで、湿度の高さまでもが乗りかかって、とてもじゃないが正装なんてしていられない。ネクタイが無い分、少しだけ風を取り入れやすくなった格好で、俺は通学路を小走りに急いでいた。
……おかげで余計に暑い。
端的に言えば遅刻しかけ、現在進行形。なんというか、微妙に寝坊したのだ。こう、一限をサボるにはちょっと早い。だけど朝のショートホームルームには間に合わなさそう、っていう……
……目が覚めて8時30分ならあきらめたんだがなぁ……。8時だとギリギリ間に合うかどうかなんだよなぁ……。
5分で家を出られる自分を恨めしく思った。
本鈴を間近に聞きながら、俺は校門をくぐったのだった。授業には間に合いそうだった。
「珍しいな、横路。お前が遅刻するなんてさ」
「渡登か……いや、ちょっと寝坊してさ……」
「眠そうだもんな」
「ああ……」
昨晩まで徹夜、しかも泊まり込みでSIRの情報編集を手伝っていた。終わって俺が帰宅したのは午前六時。一時間だけ仮眠をとろうと思ったらびっくり、時計は8時を指していた。
ただ、おかげさまでSIRの情報公開には予定通りに間に合いそうだった。
「ちょっと一仕事、な」
「あれか?えっと、なんだっけ、え…えす…」
「SIRな。そ。SIRの仕事」
「それでかな。中都方もまだ来てねえんだよ」
「え?いや…昨日はあいつは関係無かったけど……」
「そうなのか?まあ、何であれ来てないんだよな」
「ふうん……まあ、じゃあ、後で連絡取ってみるよ」
まさか、消されたなんてことはないだろうけど……
っていうか、あいつ最近、忙しいとかどうとか理由付けて集会さえ来てないし。
「よっす。…世界の終わりみたいな陰鬱な顔しちゃって、どーせまたエスなんとかの話してたんでしょ?」
「津岡か……えらい言いようだが、なんか恨みでもあんのか?」
「あれってさー、なんかカルトっぽくない?まさにあっちこそ一面しか見てないような感じだし!私に言わせれば、そもそも信憑性あんの?って感じよ」
「そうか?今の報道機関の方がよっぽど一面的だと思うが」
「でもいろんな意見載せてるじゃん。何より政府の公認ってところがいいよね」
「……」
「ま、どうなろうと私には関係ないけどねー」
なんというか、実はそこの幹部とはとても口が裂けても言えなかった。言ったら言ったで軽蔑と嘲笑の目線を向けられること間違いなし。
……もっとも、この学校には俺が拡散させることになっているから、いずれバレるのだが。
「なんていうかさ、そこまで深刻なのかなぁ。大したことないと思うんだけど」
「そうか?
「だって目に見えた障害とかおこってないしさ、事故関連で亡くなった人の話なんかぜんぜん聞かないしさ」
「隠蔽されてるだけだろ」
俺の反論に都岡は鼻を鳴らして応えた。
「そうやっていろいろ疑うのやめたら?なんかすっごい感じ悪いし」
「うるせえ、保身だ」
「頭カタいねー」
「言ってろよ」
「ま、まあまあ……どっちの言い分も一理あるんじゃね?メディア・リテラシーじゃないけど、確かにすべての情報を鵜呑みにするのは危険だし、だからと言って全部疑うのもよくないぜ」
「ま、そういうことだな」
「うまくまとめちゃって……」
苦々しげな津岡の呟き。彼女は彼女で頭の固いところがあるのは百も承知だ。俺があえて説き伏せようとしなかった理由はそこにある。
まあ、正午になると同時に情報の一斉公開が始まる。若者中心に不気味なくらい横幅の広い情報網を持つSIRが一度動き出したら最後、けして小さくない波が動き出すことは確かだ。加えて、地上本部にも情報の拡散を要請、若年層のみに止まらない情報の拡散を狙う。
「…………」
正直怖い。
動きだそうとしているこの奔流の中心になるのだ。
一度動き出せば、雪の斜面を転がり続ける雪玉のように、ただひたすら大きくなっていくばかりで、止まることなく加速していくだろう。
いずれ辿り着くのは、引き返すことも止まることも許されない、言い訳も言い逃れも一切通用しない、ただの修羅場。
だとすれば。
「戻りたい、なんて泣き言は……今だけだな」
きっとこの先は、泣き言だって許されない。
7月14日。正午近く。
晴天。
四時限目は途中退席。
屋根という屋根から人を嘲笑うように陽炎が揺らめく様を、俺は屋上の貯水タンクの上から見ていた。
昼寝に来ていたわけではない。
それは、日陰に置かれた2台のラップトップコンピューターが物語っていた。
先程、一台の方にSIRから拡散ツールと拡散するデータファイルが送られてきた。中身を確認した俺は、次の作業に取りかかる。
ここから先ははっきり言って違法行為だ。自宅のマシンではなく、SIRから支給されたマシンを使い、終了後はSIR本部に返還、そこから更にパソコン業者に引き渡して廃棄する。IPアドレスでアシがつく前に、だ。だから学校で行う。
ついでに、この学校のネット環境事情を利用する。
この学校は、授業中のインターネット利用による内職を防ぐため、学校管理のインターネットサーバーを授業時間中はロックしている。それまではアクセスできない。
昼休みになると、学校側がそのアクセス制限を取り払う。当然だが、ネットに接続しようとする生徒のアクセスが集中する。そこを狙って、学校のサーバーから外部ネットにアクセスするサーバーの途中に、スキャンロボを取り付けるつもりだ。
まず片方のパソコンを使ってスキャンロボを回線上に送り込み、定位置にセット。そこを通過したIPアドレスをスキャン、サーバーに問い合わせ、メールアドレスとして蓄積する。同時にデータはもう一台のパソコンに転送。そこで公開するデータファイルを添付して、送り返す。そんな算段だ。
役目を終えたスキャンロボは取り外しと同時に蓄積したデータ諸共破壊。というのも、この学校、無駄にシステム管理が厳しい。
この間サーバーをハッキングして集めたデータによれば、アクセスが殺到するのが四限終了直後から10分間、学校側の防犯管理システムが本格的に動き出すのがアクセス解禁から5分後、ここまではそんなに苦ではないのだが、違法行為は発見・解析から通報まで1分のシステムだった。
となると、アクセスのもっとも殺到する解禁から4分というのは、かなり綱渡りの時間帯、ということになる。だが、解禁から0〜4分で回収できるIPアドレスと、4〜5分で回収できるIPアドレスの数が同じとなれば、どうにかして目をかいくぐるしかないだろう。
一応、ダミー機能はかぶせてあるけど、気休めにもならないかも……。
腕時計の時間を確認して、俺は日陰のラップトップコンピューターの真横に飛び降りた。
キーンコーンカーンコーン……
妙に遠くでチャイムが聞こえる気がした。
「戦闘開始……っ!」
躊躇わないように、そして、できる限り早く打ち込めるように、ここ数日練習し続けたキーボードタッチ。俺の指は一分弱ですべてのキーの入力を終えた。
やがて、もう一台のパソコンの画面に凄まじい数のアドレスが表示され始めた。
「……ふぅ」
ここから3分は放置できる。だが、画面から目は離せない。擬似的にインターネット回線内部を視覚化した画面には、四角いコピーロボットと、赤く点滅しながら凄まじい勢いで流れていく丸い点が映っている。この赤い丸が、各個人のIPアドレス、もとい、メールアドレスだ。
じっと画面に目を凝らす。
「お…早速来たか……」
時間にして3分半、画面の隅の方の回路上に、黄色い点滅が見え隠れし始めた。
システム周回ロボのお出ましである。
……まあ、こっちが用意してる罠も少なくないから、多少は抵抗できんだろ。
もう一台を確認すると、予定を若干下回る数のアドレス回収がされていた。まだ……まだだ……
回路上を流れる赤い丸の数が更に増える。そして、アドレスが次々表示されていく。ここから、アクセス殺到の怒濤の一分間が始まる。日によってその度合いが違うことから、俺は、コピーロボットの処理能力を超えないことを祈りながら、画面を眺めていた。
「チッ……やっぱり思ったよりペースが早ぇ……」
周回ロボは異常がなければ次々と見回りを終えて、あっという間に俺のいる地点までたどり着いてしまう。
「しゃーねーか……トラップ発動…っと」
画面中からコードを選び出し、パタパタとキーボードで入力する。
すると、回線の途中に等間隔で複数の罰印が現れた。その手前に来ると、IPアドレスをしめす赤い丸が停止する。――今仕掛けたのは回線遮断用の障壁だ。少し技術があれば、壊すも仕掛けるも自由、というレベルのもの。しかし、数を大量に仕掛けたとなれば、話は変わってくる。ロボットは回線上をトレースするようにしか動けない。なら、分岐した後の回路上に障壁を設ければ、回線上をウロウロして足止めされるはず……!
「え?」
新たに障壁を仕掛けようとしてコードを打ち込み、俺の指が止まる。
『This command was blocked.Check or inform the error to the server…』
ブロックされた?
「なん……っ、やられた!」
見落としていた。
そーだよ、障壁取り除くのが一台のロボットのみに任されてるワケねーじゃねえか……。
っていうか、この障壁、既に認識されてシステムそのものに弾かれてやんの……構造が簡単すぎたかぁ……
……などと、脈絡のないことを考えている間にも、俺の築いた障壁は、端から端から、破壊専門のプログラムに取り込まれ、除去されていく。コピー&ペーストで手当たり次第に障壁を築いても、足止めが長引くほど持たない。
アドレスはまだ、予定数回収できていない。この予定数というのは、コンピューターの弾き出したもっとも拡散速度・効率の良い数。少なすぎるとうまく行かない。なにより、状況が手遅れまで進行してしまいかねない。
あと……50…っ!
「もってくれ……頼む、間に合えよ……!」
先ほどとは違うタイプの解体しにくい障壁のコードを打ち込み、立て続けにコピー&ペーストを繰り返しつつ、もう一台にも指示を出して、メール送信の段取りを整える。
これで必要数がそろった瞬間に、一気に拡散する!
あと…28っ!
「ああぁ…くんなっての!」
更に周回ロボが近づく。
俺は死ぬ気でキーボードを叩きながら、回路上にダミーウイルスを撒く。
ウイルスと認識はされるが、こいつらは実際何もできない。ただ、ウイルスとして認識されるだけ。それでも、周回ロボの足止めくらいには……
「あああ!もうっ!なんてこった!」
……ならなかった。全く別種のロボットが突如現れ、ウイルスを破壊していく。マクロファージかこいつら!
……役割としては同じか。
「ああぁぁぁ……!」 焦りが手元を狂わせる。打ち込み慣れているはずの簡単なコードが打ち込めない。
気づけば、周回ロボットは目の前に迫っていた。
いや…だけど、まだ少し余裕はある。
「っ……!」
頬を汗が伝っていくのがわかる。目も眩むような日差しも今は目に入らない。目眩のような揺れを感じて、思わず俺は歯を食いしばった。
「いけえぇえ…っ」
こちらで築いた最後の障壁が突破される。もう一つだけ、かなり複雑な障壁を仕掛けはしたが、長くはもたねーだろうな……そいつを突破されたらオシマイだ。後はここまで一直線。
ふと隣のモニターを見れば、回収すべきアドレスは残り3つ。
……いけるか…っ
見ているうちに、残り2つ。
あっという間に後1つ。
だが、ロボを操る画面には、「警告」の赤い二文字が点滅していた。メール転送は後でもできる。だが、なんとしても捕まる前にロボの破壊だけは……。
「ううぅ……っ!」
周回ロボが近づく。最後の1件の転送はまだ終わらない。
「早く早く早く……!」
手動でエフェクトリセットコードを叩き込みながら、どうにか周回ロボからの解析用アクセスをかわし続ける。それでも相手は機械。徐々に徐々に、解析完了領域を示すバーが長くなっていく。
「ちっくしょおおおお!」
ようやくすべてのアドレスを吸収し終えた。それを見るなり即座に破壊コードを入力する。
コピーロボの破壊と、解析完了表示が出るのはどちらが早かったか……
息を切らして天を仰いだ俺を、作られた夏の日差しが容赦なく焦がす。
どっちなんだろう。
もしも完全に解析されてしまっていたら、すぐさま報告が飛び、計画はすべておじゃんだ。相手のサーバーに殴り込みをかけて、結果がどうだったのかを確認することは出来なくもなかったが、相手は完全なる機械。方や人力。反撃されたらかなうはずがない。そんなリスクを犯してまで確認する気にはならなかった。
……ってことは、万が一にも捕まる前にカタを付けた方がいいって事だよな。
「さて……もう一仕事…………」
熱くなった体を起こして残っているパソコンに向かう。
すべて必要数のアドレスを吸収したパソコンの動きは鈍かった。だが、結果は上々。どうにか必要な仕事はできそうだ。
先ほど手に入れたアドレスと、今日も学校を休んでいる松部となぜか来ていない中都方のアドレスを新たに加え、拡散するファイルを添付する。
IPアドレスを使って強引に元をたどり、個人のサーバーからちょいと「頂戴」してきた個人のメールアドレス。送信元をわからなくして、宛先にそのアドレスをすべてコピーする。
タイトルは、「true」。
本文には一言だけ、「拡散希望」としてある。まあ、不審メール以外の何物でもないのだが……
「…………」
これを転送したら、何かがきっと大きく動き出す。中身が信じられるか否かはさておき、パニックにも似た動きが広がることは確かだ。今までのような、ちょっとした騒ぎ、程度の規模ではなくなるだろう。
俺や岬原はいくら何でも大げさすぎやしないかと思ったけど、久野さんは最悪の場合、自衛隊や警察の特殊部隊との武力衝突になるのではないかと、言っていた。反対派の中にも過激派がいることは確かだったし、これからこちらにつく人間に過激な人間がいないとも言えない。
それでも。
黙ってたらきっと何も変わらない。
「……だよな」
小さな溜息を漏らし、俺は送信ボタンをクリックした。先ほどまでフル稼働していたパソコンのすべてのデータを消去している間、残りのその一台がメールを送信し続ける。
俺の作業が終わる頃、添付ファイルとともに、すべてのメールが送信された。
「…………」
送信元となったパソコンのデータも完全に消去し、俺の本日の仕事はここまで。
残りの休み時間は10分弱。
昼飯用に買ってきたオニギリは、いつもと同じはずなのに、なんだか味気なかった。
「もしもし」
『もしもし……横路か?』
「おう。どうした」
『少し、会えねえ?』
「いいけど……場所は?」
『……新市総合病院』
「わかった」
夕方。俺はチャリをとばして中都方に指定された場所へと向かっていた。
病院の駐輪所に自転車を止め、正面玄関に回り込む。大柄でわかりやすい中都方の姿がそこにはあった。
「おい」
「ん……おお。悪いな、わざわざ」
「いいけど」
「すまん……こっちだ」
そう言うとアイツは、病院の中に入っていった。俺は慌ててその姿を追いかける。
受付を素通りし、エレベーターに乗り、15階で降りた。その間、中都方は一言も口を開かない。ただぼんやりと前を見ているだけだった。
総合病院にしたって幅の広い廊下を通り抜け、中都方が俺を案内したのは一つの病室だった。
「静かにな。ようやく眠れたみたいなんだ」
音もなく引き戸が開かれる。個別病棟。一つのベッド。そこに、中学生くらいの少女が一人、横たわっていた。
その枕元に、以前、俺や松部や船上が同行して買った、キーホルダーがぶら下げてあった。
ってことは、えっと…名前は確か……
「中都方ヒカル。妹だ」
「やっぱりそうか」
「やっぱりって?」
「いや、キーホルダーがあったからさ」
「そっか。そういやお前もいたな」
「忘れんなよ」
「悪い。ほら、あのときお前、5メートルくらい後ろ歩いてただろ?船上のスカートの中かなんか覗いちまったから、その罰で。視界に入らなくてよ。店の中でも結構別行動だったし。忘れてた」
「視界に入らないってのはひでえ話だ……って、何で知ってんの?」
「何をだ?」
「船上の件」
「大方そんなとこだろうと思ってな」
「お前のその観察眼、うぜえことこの上ねえんだよ……」
「悪い悪い」
中都方は、いや、ヒロキはそう言って妹に近づいた。ベッドフレームに手をかけ、眠っているその横顔をじっと見つめる。
折角眠ったところだったのだろう、頭を撫でようとしたようだが起こしたら悪いとでも思ったのか、その手を引っ込めてしまった。
「誕生日プレゼント、喜んでくれたよ。みんなで選んだんだって言ったら、嬉しそうだった」「そっか、良かったな」
「……その翌日、容態が悪化してな。そのときは起きあがれたのに、そこで急変して以来起きあがれなくなっちまってさ」
「…………」
「……医者曰く、タンパク質が変質して、筋肉が半分くらい溶けたような状態らしいんだ」
「つまり、筋肉が衰えてるってことか?」
「いや、リアルに溶けてる。CT画像見せてもらったんだけどさ、あっちこっち、ただの空白が生じてるんだ。筋肉も何もない、無の空間がな」
「…………」
「もし万が一、血管が溶けたら大量出血だし、心臓の筋肉が溶ければ救いようがない。今だって内出血は酷いし、筋繊維そのものが溶けるから、鎮痛剤無しじゃやっていけない。病名もなければ治療法もない。辛うじて放射線治療が有効だって言われても、副作用からは逃れられない。かといって、いつどこがどうなるかわからない以上、具体的に余命が示せるわけでもない。医者も匙を投げるしかないだろうよ。ヒカルは、そういう状態なのさ」
「……事故のせいか?」
「まあな。医者はそうだろうって言ってた。こんな不可解な症例なら、それしか考えられないってよ」
それだけ言うと、ヒロキは再び黙ってしまった。
しかし、何でこんなことをわざわざ俺に…?
「今日、情報公開決行日だったんだろ?お勤めご苦労さん」
「あぁ。どうだ?届いてたか?」
「おう。ばっちりだ」
瞬間、彼はニヤリと笑みを浮かべた。しかし、すぐに真面目な顔つきに戻る。
「けどさ。十年たった今も、いや、今だからこそこうやって苦しんでる人間がいるのを、どれだけの人間が信じると思う?医者でさえもたぶん事故による後遺症だと思う、なんて曖昧なこと言うような時代だぜ」
「それは……」
「なにも変わらないとは言わない。たぶん、人の認識は変わると思う。けど、今回のことは、きっと、なにも変わらない。むしろ、今までなかった物に過剰反応して、危険なことになる。そんな気がしてならねーんだよ」
「だけど、だからってなにもしなかったから、なにもしてこなかったから……だからなにも変わらなかったんじゃないのか?それなら、いくら危険でも行動を起こさなかったら……」
俺の声は情けないほどに震えていた。恐怖でも武者震いでもない、今の俺にはわからない、震えだった。消え入りそうで、か細い声を、俺は腹から力を振り絞ってなんとかいつも通りに聞こえるように振る舞った。
「行動しなかったら…それこそ、危険なんじゃないのか……?」
「わかってる。俺は、最初はそう思ってたんだ。今更なにをしたって現状は変わらない。素人で一般人の俺が足掻いても、現状打破なんて望めない。だから、諦めるしかないって」
ヒロキが初めて俺の方を見た。愁いを帯び、悲しみをはらんだその瞳が、迷いを隠せずに立ち尽くす俺の姿をしっかりととらえる。
こちらを振り向きもしていなかったので、俺は、ヒロキがてっきり泣いているのだとばかり思っていた。だが、彼の顔には涙もなければ、それをぬぐい去った跡もない。ただ、決意だけを秘めた色が、浮かんでいるだけだった。
「けど、なにもしないより、きっと何かした方がいいんだよな」
「……あぁ、勿論だ」
何となく発言の意図がつかめないまま、俺は肯いた。
「横路、お前がSIRの幹部ってことを見込んで、お前に頼みがあるんだ」
「?」
「SIRがもし、実力行使に出るようなことがあったら、そのときは俺に前線をやらせてほしいんだ」
「は?」
「危険なことでも、過酷なことでも、汚れ役でも構わない。――俺、頭悪いからさ。そういう力仕事的な事しかできないんだと思うんだ。けど、それでもできるなら、やらせてほしい」
「……わかっ、た。けど、命を懸けるようなことは、さすがに頼めない」
正直、そうでなくても前線なんか頼めない。そう言いたかった。こいつが関わってることは、きっとこいつどころか、俺が想像しているよりも大きく膨らむ。その絶対値なんて測れるようなもんじゃない。
「それでも、よければ」
「ありがたい。なんか、俺でも人の役に立てるんだな」
「何言ってんだよ」
「いや……なんとなく、さ」
「死亡フラグ立ててんじゃねーよ」
「え、これフラグなの!?」
「フラグだろ?」
「まじかよ〜!」
会話のせいで何となく場の雰囲気が和む。先ほどの流れからは余りに不自然きわまりなかったが、それはそれで仕方がない。きっと、こんな余裕があるのは今だけなんだろう。
おどけた中にそんな冷めた何かを感じて、俺は笑いながらそっと奥歯を噛みしめた。
「今日はありがとな」
「いいよ。またなんかあったら呼べよな」
「さんきゅ」
そんな軽い会話を交わして病院を後にする。
自転車に跨がって、ペダルを踏み込み、夕日の残滓が消えそうな濃紺の空の下を走る。頬に当たる風が熱いのにどこか不気味に清々しくて、俺は一層速度を上げた。
そして。
「――――!!!!」
頭上から突如降ってきた女性が地面に叩きつけられ、無惨に散るのを目の前で目撃した。




