6月28日
ひさしぶりに更新しました。
筆が遅くて申し訳ない限りです……。
場所、校舎の屋上。
日付、6月28日。
天気、快晴。雲一つなし文句なし。っていうか、むしろ天気が良すぎて眩しい。
時刻、正午二十分過ぎ、つまり12時25分。四限終了まで後5分。
補足、その終了までカウントダウンの授業は近現代史学。
正直、俺にはどうでもいい科目だ。眠いし、近現代史なんか、教えられるまでもなく肌で嫌と言うほど感じている。どれくらい感じているかというと、ノート取らずに授業爆睡、その上ノー勉で挑んでも、定期考査でゆうに八割五分はかっさらえるくらい。
それをわざわざ受講だと…?
ダルくてやってられるかってんだ。ダルいを通り越してもはやどうでもいい。なんで必修科目になってんのかな……
そういう奴はクラスにごろごろいる。だが……まあ、保健室と偽って授業を抜け出すのは俺くらいだろうと睨んでいる。うーん……そろそろ別の言い訳を考えないと……
そう思っていると、遠くの方でチャイムが鳴った。俺は目を閉じて耳をそばだてる。予測通りに足音がやってくる。
「みーつけた」
目を閉じても眩しかった視界が、影で覆われたところで俺は目を開けた。…っと、おいおい……。
「またサボってたの?それとも本当に調子悪いの?」
「んー?あー、サボりだサボり、サボタージュ。だって、あんな授業、アホくさくて受けてられねえだろ?」
「でも、形だけでも授業は出なくちゃダメじゃない?」
「お前は真面目だなぁ……」
「タクが不真面目なのかもよ……」
俺の顔を影で隠すように立っているのは、俺こと、横路タクトの幼なじみにしてクラスメイトの船上エミ。容姿は中の上、本人曰く成績もそんなもん。運動は水泳と球技を除けばそこそこ。性格は悪くもないがよくもない。長いものを持たせると嬉々として振り回すので気が気ではない。掃除のホウキさえ、幼なじみの俺としては持たせたくないくらいの気分だ。若干後ろ向きで辛辣な思考だが、それを除けば割といい娘だろう、とは思う。
ただ、船上、お前はある意味いい奴だが、気づくべきところには気付け。
「単位取れなくなっちゃうよ?」
「ん……そりゃ困るな…親父に殺される」
「…ノート貸そうか?」
「ははっ、大丈夫だよ。教室にCCDカメラとボイスレコーダー仕込んであっからさ」
「うわー。出たよ文明の利器フル活用」
これだから理系の男はどうしようもない、と船上は苦笑いをする。そういう船上だって理系だというのに。
「何なら今から二年五組ライブ映像見せてもいいんだぜ?」
「やめてよー」
ポケットから小型のタッチパネルを取り出した俺に、船上は更に苦笑いを返してきた。苦笑いはこっちだ。
「タク、お昼食べないの?」
「ん?あー、昼飯か。購買行かねーと。って…もうパン売り切れてっかな?」
「さあ?あたしはあんまり使わないから…」
「…そうか。じゃ……ダメ元で行ってみるか」
「行ってらっしゃーい」
あくまでどこまでも無邪気な返答だった。気付いてねえか……うーん……気が引けるな、こりゃ。いっそ、しらを切って黙っていようか。
「ん?行かないの?」
「え?ああ…行くけど……なあ、船上、」
「ん?」
「……パンツ丸見え」
「ぅひゃぁえっ!?」
結局、言ってしまった。
そうなのである。こいつが最初に俺の顔を覗き込んだところで、その短いスカートの奥が丸見えになってしまっていたのであった。目のやりどころに困るったらありゃしない…ふぅん、白、か……。
「いーから隠せ。ったく……いくら俺が幼なじみでも気を使え…イダッ!?」
右肩に鋭い一撃。上を見れば船上が顔を真っ赤にしてなんかもう涙目になりながら俺に蹴りを炸裂させていた。
「バカ!変態!もっと早く言えむしろ黙ってろ!!このド変態!!」
「蹴飛ばすんじゃねえよ!…痛っ…お前の蹴りは男子から食らうのと同レベルでいてえんだっつの!」
この空手有段者!あと、蹴り入れると余計に見えることに気づけ!
ひとしきり蹴りの大サービスを浴びせたところで、船上は去っていった。大方、他の女子と弁当でも食ってんだろ。俺は、痛む体を引き上げて、教室へ向かった。
「よお、横路。お前何やったわけ?」
「ん?」
教室へ降りたところで、親友にして悪友の一人、中都方ヒロキに捕まった。一瞬ぴんとこなかった俺は、ヒロキの顔を見返し、そのにやつき加減に理解した。
「ぁんだよ、船上がなんか言ったのか?」
「半泣きで『死ねあの変態バカタクト首吊ってマジ死ねばいい目玉抉られて死ねばいい内臓破裂させて死ねばいい』って言ってたぞ……よっぽどのことやっちまったんだなぁ、お前」
うわ、怖い。後で甘いもんでも持って、全力かつ本気の謝罪に行くしかねえか……。
「ま、生きろよ。ところでさ、横路、お前今日の放課後空いてるか?」
「お?ああ、一応空いてっけど……なんで?」
「いや、実は妹が誕生日近くてさ。なんか買ってやろうかと思ったけど、この辺でそういう可愛いもん売ってる店がわかんねえから」
「ああ……お前結構シスコンだよな」
「るせーな、一人っ子にはわかんねぇよ」
そういって中都方は笑った。よほど妹が可愛いらしい。まあ、わからなくはないが。
「オレ、まだこの街一人であんま歩いたことねえんだよ。だから、な!頼む!」
「こっちはいいけどよ、妹へのプレゼントなら、女子も誘った方がよくねえか?」
「女子って誰だよ」
「俺らで誘える女子っつったら、やっぱ船上とか、船上とよく一緒にいる松部とか」
まあ……今船上を誘うなら松部がいなければついてはこないだろう。そうだそのときに甘いものでも奢ろう。そうしよう。
「……なあ、お前と船上ってどうなってんだ?」
急に中都方から問いかけられる。どうなってるって……
「ただの幼なじみだよ。幼稚園の頃から連んでりゃ、お互い遠慮もなくなるって」
その証拠に、あいつは今も俺をタクと呼ぶし、俺も中学まではあいつをミィ(エミのミから取ったんだと思う)と呼んでいた。休日もお互い暇なら近所のカフェや互いの家で勉強したり、としているくらい。でそんな間柄なのでよく勘違いされるのだが、けして恋人ではない。むしろ、あいつが段位を取ってからは、遠慮ない蹴りが飛んでくるので正直近寄るのさえ怖い始末。
「って、前も言わなかったか?」
「聞いた」
中都方はそう一言言ってそっぽを向いたのだった。
船上は案の定、松部ユリナと昼飯を食っていた。この二人、共通点は少ないのだが、どうしてなかなか一緒にいることが多い。一体どこで気があっているのやら。
「船上、」
「死ね変態」
「悪かったよ。そうじゃなくて、ちょっと聞いてくれよ」
「なによ。今度は脱げとでも言うつもり?」
「ミーちゃん、横路くんに何かされたの?」
「ん?ユーナは気にしなくていいよ。こっちの話」
「そうそう、松部は気にすんなよ…で、誰がお前にそんなこと頼むか…って、そうじゃなくて、お前今日の放課後都合どう?あ、これは松部も」
「放課後?」
「私も?」
急な誘いに眉をひそめる女子二人。肝心の依頼人は教室の外からこちらの様子をうかがっている。こっちに来てくれないものだろうか。これだと俺が女子二人を一人でナンパしているみたいになっちまう。
「どうだろう?」
「いいけど、遅くなるんじゃないかなぁ」
「え?」
「今日、上から授業視察があるって先生方おっしゃってなかった?」
「あっちゃー……また授業長引くのかよ、冗談じゃねえ……おーい、中都方!ちょっと来い予定変更だ!」
大声で教室の外の中都方を呼び、四人で打ち合わせ。船上と松部は中都方の存在に少し驚いたようだ。
中都方が二人に事情を説明すると、二人は意外と快く了承した。ただし、船上たっての希望で、俺はあいつとの間に必ず松部と中都方を挟むか、最低五メートル離れたところを歩くかすることに。五メートルも離れていたら一緒に遊んでいると言うよりはむしろ、ストーカーに見えて危険だからせめてその半分の距離にしてくれ、という俺の願いは却下された。
大体の行動のメドが立ったところで、行き先だ。女子二人は既にその話で盛り上がっている。
「この辺だとどこがいいかなぁ」
「やっぱ、メモリアル街がいいんじゃない?女の子向けのお店も多いし、ジャンルも多いし、よく行くからあたしたちもその方が動きやすいし。ナカツーの妹さん、何歳?」
「え?ああ、小六だけど……」
「じゃあ、メモリアル街で大丈夫じゃないかな。ミーちゃんはどう?」
「うん、いいと思う。ついでに、みんなでクレープ食べようよ。おいしいお店ができたんだって!」
「あ、賛成!」
「じゃあ、そういうことで……」
と、俺と中都方が引き上げようとしたところで、不快なサイレン音が鳴り響いた。
そのサイレン音に、教室の女子が船上含め何人か立ち上がり、スカート丈を規定まで伸ばしたり、指定のリボンに付け替えたり、目立つメイクをしている奴はそれを落としたりし始めた。男子は男子でネクタイを上まで締めたり、ロールアップしていたズボンの裾をおろしたり、シャツをズボンにしまったりし始めた。
「あーあ……とうとう来たよ」
船上が指定のリボンをきっちりと上まで止め、サマーベストを頭からかぶりながら言った。
「横路、オレらもやっぱ参加か?」
指定外のセーターを脱ぎながら中都方が問う。
「まあ……情報収集部隊として、かな」
「了解」
俺もポケットからきれいに折り畳んだネクタイを取り出して上まで締めながら外を見た。
学校までの一本道。その遙か向こうに黒塗りの車が三台見える。
――そう、俺達をこんな状況に追い込んだ、所謂『政府要人』のお出ましだ。……俺はどうやら、昼飯は食えそうにないらしい。
五限の授業は嫌な緊張感に満ちていた。
静かになっているのは何も居眠りのためではない。この緊張感の中、誰も口を開けないだけなのだ。第一、そんなことしようものなら後が怖い。さすがに俺も、その恐怖に打ち勝つのは少々骨が折れるため、仕方なくノートと教科書を広げ、ただひたすら、機械のように板書を書き写す。鼻の上に乗せられた伊達メガネが邪魔でしょうがないが、訳あってかけているのだから我慢するより他にはない。
板書の勢いが一旦落ち着いたところで、俺は筆箱から鏡のように表面を磨き上げた金定規(十五センチ)を取り出し、うまく角度を調節して教室の後ろを盗み見る。そこにはブランドものと思しき背広に身を包んだ、大人の姿。一般的には『授業視察団』、俺達生徒は勝手に『バカ中枢』と呼んでいる。どうも、授業視察→授業聞く→政治に関わる大人になっても高校生の授業を聞く政府要人→脳味噌足りてない中枢部→バカ中枢、らしい。正直経緯が長くてわかりにくい。だが、まあ、もっともな気もするので、何も言わないが。
定規越しの景色に映る視察団の人数を数える。一…二…三……六人、か?いや、廊下に一人立ってる。って事は、少なくとも七人、各々にSPが三人ずつ付いていると仮定すると今回の視察団は全員で二十人超か……最近多いな。俺は内心で呟いた。
金定規を床に落として拾い上げる。視界の隅で中都方が動いたのを見てから、俺はボールペンの背で幾度か机を叩いた。周りには、不自然に気取られぬように…………決められた通りに机を叩き終えて、俺はボールペンを手の中で一回転させた。返事を待つ。しばらくして、中都方のいる方からこれまた同じく金定規を落とす音。同時に俺はノートの一番後ろのページを開いた。耳をすませると、かすかにボールペンの背をノックする音。カチ、カチと言う音に基づいて、俺はノートにLとSを書いていく。……もうわかっただろ?これは、モールス信号をヒントに俺たちが独自に書き起こした暗号だ。これなら、授業中でもそんなに怪しまれずに相手と情報の交換ができるってわけだ。暫くして、更新終了の合図にあいつが机に突っ伏してすぐに顔を起こす。よし、えっと……?LとSを元に暗号を書き換えて、読んでみる。
『にんずうふえた?へんかのきざし?』
さすがにそうとるか……。そうかもしれない。俺は、返信として机を打った。
『まだふめい けつだん、ろくげんのこうえんかいにもちこし』
『らじゃ』
今度は短い返事が帰って来る。交信はこれにて終了。再び気怠い授業へと、俺は意識を引きずり込んだ。黒板にはわずかの間に化学式が四つほど増えている。仕事柄とはいえ黒板にあの勢いで文字を書きなぐれる先生に驚きだ。
再び板書が落ち着いて、教科書の解説に入ったところで、俺は昼休みに船上に見せた小型モニターをポケットから取り出し、教科書の下に滑り込ませた。パネルを少しいじくり、先ほど近現代史学の授業の録画に使ったカメラの角度を少し調節する。校庭側の窓の窓枠に仕込んであるそれは、角度によって教室の後ろも映せるようにしてあるのだ。必要があったため、そうした。というか、授業の録画の方が実は後付けの目的なのだが……。
(いたいた……)
教室後方の視察団をモニターに映したところで、再び板書に取り掛かる。うわ、イオン反応式まで増えてやがる。細々とした式の列をひたすら写し、ノートを完成させる。もう一度モニターを確認すると、視察団はいつの間にか隣の教室に移動したようで、一人もいなくなっていた。肩の荷が下りたような気がして、俺は椅子の上で小さく伸びをした。
板書を書き写しながら腕時計を見る。時刻は午後一時五十分ちょうど。あと二十分で授業が終わる。心なしゆったりとした口調になった化学の先生の授業を受けながら、俺はカメラの電源を落とした。
史上最悪の講演会だった。
それが、六限の俺の感想。
五メートル先を歩く船上と松部と中都方を見ながら、話し相手のいない俺はぼんやりと思っていた。視察団が学校を離れた瞬間、俺達にようやく日常が帰ってきた。きっちりと着こなしていた制服は一瞬で崩れ、緊張の糸が切れたように学校中にお喋りが戻ってきた。
で、講演会はと言うと。
はっきり言って嘘八百に等しかった。等しいなんてもんじゃない。嘘八百そのものだった。
俺達が、地上の街に戻れる日が近い。そう、視察団の代表者は笑顔で話した。
自分達大人が犯した過ちは非常に大きい。そのせいで君達には長い間、多くの不便を強いてしまった。青春時代が台無しになってしまったと感じている人も多いだろう。しかし、その日々ももうすぐ終わりを告げる。ご家族とも再会できるし、十二年前、あの事故が起きる以前とまったく変わらない生活ができるだろう。もう、正体不明の化学物質による健康被害や風評被害に怯えたり悲しんだりする必要は一切ないし、研究所近くに住んでいる人は、その土地に住んでいるからというだけで差別をされる必要はなくなる。なにもかもが元通りになる、と。俺に言わせれば、まったく、何の根拠があってそんなことを言うのかわかったもんじゃなかった。……ああ、実は俺、とある事情である組織に所属していてだな、
「タクトー、このお店」
「んあ?おう、行く行く」
思考は一旦中断。前の三人がファンシーな店に入ったのに追いつくような形で俺もその店に足を踏み入れた。うわ、なんか、俺と中都方の存在だけ変に浮くような店じゃねえか……ピンクのクマに、パステルカラーのアイテムがずらりと並んだ棚の間をすり抜けながら、俺の視線は不自然に宙を泳ぎ始める。気にしているのかないのか、女子二人はどんどん店の奥に入って行く。なんとなくの気まずさに中都方の顔を見れば、あいつも目が宙を泳いでいた。やれやれ……
「おい、中都方。お前の妹の誕生日プレゼントなんだからお前が選ばなきゃしょうがねえだろ?」
「お、おう……そういや、横路。お前、今日の講演会、どう思うよ」
「どう……って。相変わらず嘘八百だと思うがな。ただ、地上でも同じ話してるらしいから……地上にいる人間がどれだけそれを信じたかが怖いところだと思うぜ。信者が多けりゃ、ちゃちい宗教だって政局動かしたりするからな……」
「やっぱりそう思ったか。さすがは横路だな。……今日の講演会、録音してあるか?」
「ああ、ばっちり。あとでデータ飛ばすよ」
「おう、」
「ナカツー!妹さんの好み教えて!」
「あ、おう」
船上からの呼び出しに、中都方が店の奥の方へと入って行く。特に用の無かった俺も中都方についていく。ちょうどそこはお菓子をモチーフにしたアクセサリーやふわふわと可愛らしいぬいぐるみが置かれているコーナーらしい。
「この辺がいいんじゃないかなって……どうかな?」
松部が一つお菓子を摘み上げて微笑んだ。「うーん……」と言ったきり中都方は暫くフリーズしていたが、しばらくして「これなんか、あいつ好きかもしれない」と淡いピンクのウサギを持ち上げた。
「あ、かわいい」
「横路、どうだ?」
「お前にゃ似合わねーよ」
「それ、いいんじゃない?……うん……」
「ユーナ?顔色良くないよ?大丈夫?」
「大丈夫……でも、お店の外行ってるね。外の空気吸って休んでくる」
「一人で平気?」
「あー…俺、ついてくよ」
「オッケー。じゃ、タクに任せた」
「一人で大丈夫…」と口ごもる松部から荷物を引き取り、押し出すようにして店の外へ出た。入り口脇のベンチに腰を下ろし、夏特有の空気に体を晒す。ちょうどベンチが日陰のせいか、吹いてくる風は意外と気持ちよかった。
「ごめんね……」
「いや、問題ねえよ」
背もたれに寄りかかりながら松部が小声で謝った。
以前聞いた話だと、彼女は小さい頃から喘息持ちで病弱体質、少し前までは入退院を繰り返したこともあったくらいだそうだ。年の割に小柄なのもそのせいだ、と本人は言っていた。年を重ねて体力もついてきたせいか、最近は極端に体調を崩すようなことは少なくなり、喘息もよくなってきたと言っていたのだが……
「あーあ…良くなってきたと思ってたのになー……」
「何が?」
「んー……色々。結構さ、体弱い方だって話したでしょ?喘息だけじゃなくて、いろいろ抱えてたから…。まだ、食事の度に普通じゃちょっと考えられない量の薬飲んだりしてるの」
「そうか……大変だな。俺は随分昔から薬とか全く縁ねえからわかんねえけど……」
「いいなぁ……横路くんは本当に健康体って感じだもんねぇ」
松部はそう言って苦笑した。まあ、それもそうか……俺だって好きでこんな健康体でいるわけではないが、ありがたいことにおかげで病院は外科以外無縁、薬は粉薬止まりだ。それが彼女には彼女なりに羨ましいのだろう。
「…ねえ」
「ん?」
「……横路くんの家は、事件の後、この街ができてからすぐにこっちに横路くんを疎開させた?」
「え?ああ、うん、だいぶ初期。その前は、俺、あんま影響のないって言われてた地域に爺ちゃんちがあったから、そこに行こうかって言われてた」
そもそも俺の家はそういう家だった。変なことを言ってしまえば、反政府運動大好き一家、最早一種のレジスタンス。だから早々に俺はこっちに疎開させられたのである。もっとも、それさえ「まだ比較的」安全だから、という理由だったのだが。
「松部は?」
「私は結構後だったでしょ」
「ああ…そういえばそっか」
「お父さんがすっごく反対したの。どんなにお母さんが説明してもだめ。最終的に、法律で私の意志が適用されるまで動かなかったよ」
「そうか……お前も、じゃあ、知ってるんだな。色々」
「うん。考えすぎかもしれないけど、体調もそのせいかも知れない。色々気をつけてたんだけど…ほら、うちの地区、そもそも研究所近かったから」
その話を聞きながら、俺は静かに思案する。……そもそも汚染排水なんかをそのまま流していた可能性も捨てきれないわけだ。だとすれば、近隣地区は元々相当に汚染されていた可能性がある、か……安全神話が絶対だった昔から、周りに気をつけたりする人間がいたとは思えないからな。
「いつまでこうしてなくちゃいけないのかなぁ……」
「…………」
ため息混じりに彼女が背もたれから身を起こしたところで、中都方と船上が店から出てきた。中都方はその図体に似合わず、手には何やら可愛らしい袋を持っている。
「ユーナ!大丈夫?」
「う、もう良くなったよ」
「よかった……無理しちゃだめだよ?」
「うん、ありがとうー」
「中都方、買いたいもんは変えたか?」
「おう。良かったよ、船上のセンスが良くて」
嬉しそうな中都方。やれやれ……こいつの妹煩悩っぷりにはほとほと呆れる。
「ね、クレープ食べにいこうよ!おいしくて新しいお店ができたから!」
スカートを翻して船上が高らかに言った。あいつにしてみればそれが本来の目的のようなものになりつつあるようだった。まあ……昔っからそうだし。半ばわかっちゃいたんだが。
仕方なく、彼女の要望通り、俺達は駅前のクレープ屋へと足を延ばし、俺が船上にクレープをおごって昼間の謝罪とする流れになったのだった。
俺が生活している学生寮は、最寄りの駅前から少し離れて、裏道との境が少し怪しい通りにある。
危険ではないが、暗い。更にこの近辺に住んでいるのは野郎ばっかしなもんだから、余計に暗い。カーテン越しの光に色味がない。
……白いカーテンばっかだからな。
女子寮方面に行くとかなり色とりどりになるらしいが、夕暮れ時にそんなところを歩いて補導されてもな……というわけで、俺はそっちへ行ったことがないのである。
「はいはい、ただいまー…っと」
昼間の熱気と湿度が籠もったままの室内を横切り、エアコンをつける。
俺の学校、これでも八畳の居住空間+風呂トイレ台所と空調完備の、手狭だがそこそこ暮らしやすい寮である。しかも建具付き。まったく、国のどこにこんな金があったのか知りたいくらいだ。
「あちー……」
エアコンの回る音を聞きながらフローリングの床をゴロゴロ転がる。そこそこに冷たくて心地いい。
風呂でも入るか。
帰りがけに買った炭酸飲料を冷蔵庫に入れて、俺は風呂場へ足を向けた。
その途中考える。
街を丸ごと一つ地下に作るなどということをしていて、国はどこから維持費を捻出いるのだろう。地上の政府が何をしているかは詳しく知らないが、再び安全神話をぶち立てているということくらいか……。
もしも初めから早々の破棄、廃墟化を厭わない設計として、維持費や設備費を抑えているのなら、ガタがくるのは十年の節目のこのあたりだろうと俺はふんでいる。
……まあ、一応は安全なこの空間にいるわけだから、そんな憶測ですべて疑っても仕方ない、か。
最後に頭から冷や水をかぶって体を冷やし、風呂場を後にした。さーて、夕飯だ。
料理?そこそこできるようにはなった。お袋に頼んでレシピを送ってもらい、いくつかマスターした料理くらいならある。おかげで、家庭科の調理の成績はそこそこだ。
そういうわけで、今日のメニューはポークピカタとサラダと白米。……そろそろ魚食うか。
明日の夕食のメニューに瞬間心が飛んだところで、パソコンにメール受信のマーク。俺は適当におかずを茶碗に入れて丼めいたものを作ると、モニターの前に腰を据えた。
キーボードを叩くとそのメールが《声無き無垢な抵抗団(サイレント・アンド・イノセントレジスタンス)》、通称Silent and Inocent Resistance の頭文字から《SIR》という組織からだった。実はこれ、俺が参加している組織である。
ざっと概要を説明しようか。
そもそも俺が住むこの街、新都市街市は、12年前の「文部科学省直属・化学技術振興・重化学工業技術研究所爆発事故」がきっかけで作られた街である。
その当時五歳だった俺は、よく覚えていないが、日本史上、世界的に見ても悲惨な事故だったらしい。郊外の高台にあった研究所だったのだが、その高台の高度を半分に下げるクレーターを作るほど激しく爆発した。その直接的被害だけでも、死者は六千人近くを数える。幸か不幸か、その高台が激しく過疎化の進んだ地区にあったことと、昼間で人が都市部に働きに行ってしまっていたことが重なり、人命の奪われるような被害は事故の割に少なく済んだと言われている。
悲惨だったのは、当時そこで新たな物質の開発が盛んに行われていたということだ。
当初、政府の公式の発表には、化学物質が人体に与える影響は全く無い、というものだった。
だが、その一年後に事態は急変した。
原因不明の突然死を筆頭に、動脈硬化、心筋梗塞、脳卒中による死者が爆発的に増加。若い世代にも高血圧、心臓発作、脳卒中が頻発、発症したら最後誰一人回復しなかった。
政府の公式見解は、事故の関与なし。まったく認めようとしなかった。
それでも、あまりに相次ぐその変死が2500人を越えたところでようやく、その当時開発研究されていた物質の関与があるらしい、と渋々ながら認めた。
こうなった以上、国民の反発は避けられない。そう思ったのか、政府はその近辺の学生住民や就学児童など、一般的に外部からの影響を受けやすい年代の避難を実行。避難先は地下に作られた子供だけの都市だった。
その当時研究成果としてある程度の功績を挙げ、一応の安全性を確認されている技術がふんだんに使われ、ほぼ、外で生活しているのと変わらない世界が誕生した。唯一の違いは雨が降らないことだろうか。それが、六年前の話だ。その後、当時義務化されていなかった子供の避難を巡って離婚する世帯が相次いだため、政府はある一定以下の年齢の子供の避難を義務化する法令を出した。それが五年前のことである。
しかし、対策をしたからそれでいい。
その考えを元にしているのか、その後一切被害に関する情報も、化学物質に関する情報も、事故に少しでも関連する情報の一切が公開されなくなったらしい。
らしい、と言うのは、俺達学生の街にはそのような情報でさえ、政府管理のフィルターのもと、入ってこなくなったためである。そういう情報をネットで得ようとすればアクセスエラー、メールもものによっては受信できない。俺も、家族からのメールが時たま止められた。
その事実を知った俺達は、わずかでも何かしようと《SIR》を組織した。
活動内容は主に、情報開示の要求と政府の責任追及。年齢層は幅広く、この街で育った社会人、二十六歳前後を筆頭に最年少は十歳。この間八歳の子から入団申請があったときは度肝を抜かれたが。
俺達は国内でもトップレベルの情報統制下にある。だから、情報収集の手段はほぼ法外の違法手段。その気になれば、大学生が組んだプログラムで、政府関係省庁のパソコンをハッキングした事だってある。さすがに常套手段ではないが、最終手段ではない。そこそこの頻度で使われている手段である。
そうした情報を元に、政府を相手に裁判を起こすことが最終目標だ。大人からの出資と自分たちで行った募金を資本に裁判を起こす。
これまでに二度行ったが、結果は敗訴。十分な対策を施しているにも関わらず、まだ要求する子供のわがままと一蹴されたのだった。
しかも、政府にその活動が発覚する発端となり、当然、監視を避けられるはずがなく、《SIR》の活動は完全に水面化した。しかし、その発覚は同時に世間にも知られることになり、実はかなり危ない経路で全国からの寄付が集まるようになった。
現在は情報収集の段階。近いうちに小規模で集会を行うことにしている。この街の学生と事実を共有するためだ。
もちろん、この活動に対立する人間も少なからずいる。だが、それでも、自分の身が守れるなら、俺は弾劾も厭わない覚悟だ。そんなことをしていたら、いつの間にか俺は幹部の一人にまで上り詰めていた。
先ほどのメールは幹部会の知らせだった。二日後、時間は真夜中。場所は、工事のための資材置き場……の地下。おそらく倉庫のために使っていたスペースだ。
「よし……」
すべてを確認した俺は、パソコンを閉じた。
エアコンの効きすぎだろうか。部屋はなぜか、夕方とは打って変わってひんやりと寒かった。