第七話 良い魔道具を求めて魔道都市を目指す二人の日の話
朝の光が、薄い布越しに部屋へ差し込んでいた。
窓の隙間から入り込むやわらかな明るさが、床板の上を静かに這っている。通りからは、荷車の軋む音と、店先で水を撒く音がかすかに届いてきた。旅人の宿としては悪くない部屋だ。狭すぎず、広すぎず、夜を越すには十分で、朝の光もきちんと入る。
リテュシアは先に目を覚ましていた。
寝台の上で体を起こし、窓の外を一度見る。天気は悪くない。風も穏やかだ。狩りに出るにはちょうどいい。
それから、隣へ視線を向ける。
シロウはまだ眠っていた。
外套を半ば抱き込むようにして、少し背を丸め、深く息をしている。高すぎる体格のせいで寝台はいつも窮屈そうだが、それでも眠ってしまえば関係ないらしい。長い腕は体の前で折り畳まれ、閉じた瞼の下に余計な力は入っていない。牙も爪もある。体つきもどう見ても悪魔だ。だが、眠っている時だけは、その異形さの奥にある年齢がそのまま顔へ出る。
少年だった。
巨大で、強くて、危ういくせに、眠っている顔だけは驚くほど無防備だ。
リテュシアはしばらく、そのまま見ていた。
以前なら、こんなふうに落ち着いて眺めることはなかったはずだ。必要以上に近づくことも、無防備な瞬間を長く見ることも避けていただろう。だが今は、そうしない。距離の測り方が、少しずつ変わっているのを自分でも感じる。
ふと、シロウの眉がわずかに動いた。
起きるかと思ったが、またすぐに緩む。どうやらまだ夢の中らしい。
「……遅いですね」
小さく言ってみても、反応はない。
リテュシアは寝台から下り、身支度を整えた。水で顔を洗い、髪を整え、昨日干しておいた外套を手に取る。荷を確認し、今日持っていくものと置いていくものを分ける。ひと通り終えても、シロウはまだ起きない。
最近、少し慣れてきたのかもしれない。
最初の頃は、夜中の物音ひとつで目を開けていた。町の外ではなおさらで、風の音にも、獣の遠吠えにも、すぐに体を強張らせていた。それが今では、同じ宿の部屋で何度も夜を越し、起きて隣にリテュシアがいることを知っているせいか、時折こうして寝坊するようになった。
良いことかどうかは分からない。
ただ、見ている方としては少し面白い。
「シロウ」
声をかける。
返事はない。
「起きなさい」
今度は少しだけ強める。
すると、ようやく瞼が重そうに持ち上がった。
「……あ」
焦点の合わない顔のまま、シロウは一度だけ瞬きをした。
「おはようございます……」
寝起きのせいで声に力がない。
「遅いです」
「すみません……」
体を起こす動作も遅い。寝台の端に長い脚を下ろし、まだ少し眠そうな顔で頭を掻く。爪は引っ込んでいる。そこだけは寝起きでも忘れないらしい。
「今日は街を移ります」
リテュシアが言うと、シロウはようやく完全に目を覚ました。
「はい」
「その前に少し買い足します。準備を」
「分かりました」
そう言って慌てて立ち上がる様子が、ほんの少しだけ可笑しい。
宿を出たあとは、いつものように必要なものを見て回った。
この一月ほどで、二人は町をいくつか移りながら狩りを続けていた。人気のない深い森を選び、魔物を探し、仕留め、魔石を持ち帰る。毎回大きな獲物が取れるわけではないが、何度も繰り返せばそれなりの金になる。宿代を払い、食事を取り、次の町へ移るくらいの余裕は生まれていた。
その中で、シロウも少しずつ慣れてきていた。
飛ぶことに関しては、相変わらず高いところを嫌がる。空へ上がる前の顔は今もだいたい曇るし、風が強ければ露骨に嫌そうな声を出す。だが、もう山越えの頃ほどは酷くない。必要な高さまではきちんと上がり、必要な距離を運びきる。怖がりながらやる、という器用なことを覚えた。
狩りも同じだ。
最初の頃より、明らかに森の歩き方はましになった。枝を踏む回数も減った。物音に反応して止まることも覚えた。リテュシアの指示の意味を理解し、自分なりに周囲を見るようにもなった。
だが、すべてが上手くなったわけではない。
「シロウ」
森へ入ってすぐ、リテュシアは足を止めた。
「何ですか」
「それは鹿です」
シロウが見ていた先には、木々の間からこちらを窺う小さな影があった。褐色の毛並みをした、ただの鹿だ。
「魔物じゃないんですか」
「違います」
「でも角あるし」
「鹿にもあります」
「そうでした」
素直に引き下がる。
魔物と野生動物の違いが、まだいまいち分からないらしい。そこは仕方がない。見た目が似ているものも多いし、気配の質を読むには経験がいる。そこに関しては、今でもリテュシアの方がはるかに上手かった。
気配を探る。風向きを読む。足跡や折れた枝を見る。森の中では、その積み重ねで獲物を見つける。シロウは一度見つけてしまえば強い。だが見つけるまでの段階では、まだまだ子どもだ。
その日の森も深かった。木々の葉が陽を遮り、土は湿っている。苔の匂いが濃く、少し離れたところで水が流れる音もした。
リテュシアが前を歩き、シロウが半歩遅れてついてくる。
その時だった。
視界の下で、細いものが音もなく動いた。
蛇。
ただの森蛇だ。色も地味で、毒のある種ではない。
リテュシアが認識した瞬間、横から影が落ちる。
「危ない」
シロウの声と同時に、体がふわりと浮いた。
「っ」
片手で抱き上げられていた。
しかも高い。必要以上に高い。リテュシアの足が地面から完全に離れ、視界が一気に上がる。
シロウはそのまま数歩下がり、蛇との距離を取った。顔は真剣そのものだ。完全に警戒している。
「シロウ」
「近づかないでください」
「ただの蛇です」
「でも毒があったら」
「ありません」
「でも分からないじゃないですか」
本気で言っている。
リテュシアは片手で持ち上げられたまま、蛇が草むらの中へ消えていくのを見送った。
「もう行きました」
「……本当に危なくないですか」
「危なくありません」
ようやくシロウの腕が少しだけ緩む。慎重に地面へ下ろされる。まるで割れ物でも扱うような手つきだった。
リテュシアは外套の乱れを直しながら、思わず口元に苦笑を滲ませた。
「そこまで警戒する必要はありません」
「でも」
シロウはまだ蛇の消えた方を見ている。
「噛まれたら危ないですよね」
「毒もない蛇に噛まれても死にません」
「痛いのは嫌です」
その言い方に、リテュシアは少しだけ息を漏らした。
臆病だ。間違いなく。犬に吠えられただけでも怖がるような少年だというのは、今も何も変わっていない。
だが、その臆病さのまま、自分を守ろうとして動く。
そこに迷いがない。
それが少し、頼もしかった。
しかもその行動に、見返りはない。契約もない。ただの善意だ。そしておそらく、自分でもよく分からないまま育ち始めている好意も混じっている。
そう考えた瞬間、リテュシアは自分の思考に少しだけ眉をひそめた。
可愛い、などと思うのは違うだろう。
だが、そう感じてしまったのも事実だった。
その日は結局、小型の魔物を二体、中型を一体狩った。見つけるのはリテュシア、仕留めるのはシロウ。今ではその役割分担が自然にできている。気配を辿るのも、待つのも、間合いを詰めるのも、前よりずっと滑らかだった。
そして、そうした日々を一月ほど続けた。
町を移り、森を変え、また別の町へ行く。魔石を換金し、宿代と食費を払い、必要な物を足す。飛べるシロウがいるおかげで移動そのものはかなり楽だった。街道を延々と歩く必要がない。人目のない場所まで離れれば、彼は文句を言いながらもきちんと飛ぶ。怖いのは変わらないらしいが、もはや飛べないとは言わなくなっていた。
強いのも変わらない。
武器は結局必要なかった。シロウに合う武器など見つからなかったし、見つかったところで彼の拳や爪の方がよほど危険だった。魔物相手なら素手で十分どころか、過剰なくらいだ。
そのおかげで、金はそれなりに貯まった。
ただ、問題が一つ残っていた。
リテュシア用の魔道具である。
ある町の魔道具屋で、二人はまた棚を眺めていた。火の魔道具。照明。簡易加熱。小さな防護用。値札を見るたび、リテュシアは無意識に指先へ力を入れる。
一般的なものでも、金貨数枚。
少しいい品になると、すぐに十枚を超える。
高い。
いや、高いだけならまだいい。問題は、何を買うべきか決めきれないことだった。
「これとか」
シロウが慎重に指したのは、手のひらほどの大きさの火の魔道具だった。握って使う形で、扱いやすそうではある。
リテュシアはそれを見たあと、首を横に振る。
「悪くありませんが、出力が足りません」
「じゃあ、こっちは」
「重いです」
「こっち」
「高すぎます」
シロウは素直に引き下がる。
店を出たあと、宿へ戻る道すがら、彼は首を傾げた。
「気に入ったの、なかったですか」
「ありませんでした」
リテュシアは短く答えた。
「中途半端なものを買っても意味がありません」
護身用として持つなら、確実に使えるものがいい。出力、扱いやすさ、耐久性。妥協すべきではない。魔道具が壊れれば、その時の自分は結局何もできないままになる。
「でも、あった方がいいんですよね」
「それはそうです」
シロウは少し考えてから言った。
「ぼくは、リテュシアさんが気に入ったのでいいです」
「わたしのためのものですから、当然です」
「はい」
そこで会話は途切れた。
夕方の町は少し騒がしい。買い物帰りの人々、呼び込みの声、路地から漂う夕食の匂い。そんな中を歩きながら、リテュシアは心の中で、以前聞いた話を思い出していた。
魔道都市。
魔道具の本場。多くの工房と店があり、種類も数も別格だという。競争がある分、品物によっては少し割安になるとも聞く。
そこへ行けば、選べる。
だが、迷いがあった。
魔道具が必要なのは自分だけだ。シロウには必要ない。彼は悪魔であり、魔道具などなくても力を持っている。魔道都市へ向かう利は、ほとんどリテュシアにしかない。
それに、距離もある。
行けば時間がかかる。寄り道になる。わざわざそこまでして、自分のためだけに。
宿へ戻ってからも、リテュシアはそのことを考えていた。
シロウは机の上に今日の金を広げ、袋へ戻しながら言う。
「今のままでも、しばらくは大丈夫ですよね」
「ええ」
「じゃあ、急がなくても」
「急いではいません」
リテュシアは外套を脱ぎながら答える。
「ただ、どうするべきか考えているだけです」
シロウはしばらく黙っていたが、やがて何か決めたように口を開いた。
「魔道都市、行きませんか」
リテュシアは振り返る。
「それは、わたしにしかメリットがありません」
「ありますよ」
「何がです」
そう聞くと、シロウは少しだけ視線を泳がせた。
「リテュシアさんが強くなったら、安心できます」
まっすぐな答えだった。
「あと」
そこで少し言いよどむ。耳までとはいかないが、首筋が少しだけ赤くなったように見えた。
「かっこいいと思います」
部屋が静かになる。
窓の外から聞こえていた通りの音が、急に遠くなった気がした。
リテュシアは何も言えなかった。
それは打算ではない。取引でもない。自分を便利な道具として強くしておきたい、というだけでもない。そこにあるのは純粋な感情だけだ。
強くなった自分が見たい。
安心したい。
かっこいいと思う。
あまりにもまっすぐで、言われた側の方が反応に困る。
シロウはそれをどう受け取られたか不安になったのか、慌てて続けた。
「その、変な意味じゃなくて」
「変な意味とは」
「分かりませんけど」
ますます困った顔になる。
「でも、似合うと思います」
そこまで言ってから、自分の言葉の逃げ場のなさに気づいたらしい。完全に黙った。
リテュシアはしばらくシロウを見ていた。
本当に、お人好しだ。
そして。
少しだけ、可愛い。
そこまで思ってから、ようやく口を開く。
「行きましょう」
シロウが顔を上げる。
「本当ですか」
「ええ」
それ以上の理由は言わない。言えば余計なことまで口にしそうだった。
「魔道都市へ向かいます」
シロウの表情が、分かりやすく明るくなる。
「分かりました」
その返事の素直さに、リテュシアは内心でまた小さく息をついた。
翌朝、二人は早くから支度を整えた。
荷をまとめ、宿を引き払い、通りへ出る。空はよく晴れていた。旅立ちには悪くない。
町の外れまで歩く間、シロウはどこか機嫌がよさそうだった。表に出すほどではないが、足取りに少しだけ軽さがある。
「何か、いいことでもありましたか」
リテュシアが何気なく聞くと、シロウは少しだけ驚いた顔になった。
「顔に出てましたか」
「少し」
シロウは照れたように笑う。
「リテュシアさんが、ちゃんと考えて決めてくれたのがうれしいだけです」
リテュシアはそれに答えず、前を向いたまま歩いた。
町を抜け、人目のない場所まで来ると、シロウは荷を持ち直して背中の皮膜を広げた。もうその動きもだいぶ自然だ。相変わらず、高く飛ぶ前には少しだけ嫌そうな顔をするが、それでも飛ぶ。
「今日は高く飛びません」
先に言い訳のように言う。
「風が強いと嫌なので」
「知っています」
「でも頑張ります」
「それも知っています」
シロウは少しむっとしたような顔をしたが、すぐに諦めたらしく黙った。
リテュシアを抱き上げ、地面を蹴る。
体が浮き、風が頬を打つ。下で町が小さくなり、道が伸びていく。次の目的地は、魔道都市。
まだ距離はある。だが進めない場所ではない。
シロウの腕の中で、リテュシアは目を細めた。
利用と信頼。その形はまだ変わっていない。変えるつもりもない。
それでも、隣にいるこの少年の存在が、最初の頃とは少し違って見える。
飛ぶことを嫌がりながら、それでも飛ぶ。臆病なくせに、自分を守ろうとする。見返りもなく、代償も求めず、ただ善意だけで頑張る。
お人好しの悪魔。
その横顔を見上げながら、リテュシアはそっと視線を前へ戻した。
空の先には、まだ見ぬ魔道都市がある。
そこに自分の欲しい魔道具があるかは分からない。
けれど、向かう理由はもうできていた。
二人は風を切って、次の土地へ進んでいく。
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