第五話 エルディア協商連合にたどり着いた二人の日の話
山を越えた先の道は、王国側のそれよりも乾いていた。
朝の光を受けた土の色が少し白い。踏みしめるたびに細かな砂が靴の裏で鳴り、吹き下ろしてくる風にも、湿った森の匂いではなく、乾いた石と草の匂いが混じっている。遠くには低い建物がいくつも並び、その向こうで細い煙が幾筋も立ち上っていた。
エルディア協商連合側の町だった。
リテュシアは立ち止まり、ローブの影から町を眺めた。山脈を越えたというだけで、空気が少し違う。人の気配の重なり方も、道の整え方も、荷車の形も、王国の町とはどこか違って見える。
隣で、シロウが同じように町を見ていた。
深く被ったローブの奥から、低い声が小さく漏れる。
「入るんですよね」
「ここまで来て入らない理由はありません」
リテュシアがそう返すと、シロウは少しだけ肩を落とした。安心したのか、不安になったのかは分からない。多分その両方だろう。
「大丈夫でしょうか」
「何がです」
「ぼくです」
ひどく真面目な言い方だった。
リテュシアは一度だけシロウの方を見る。大きい。ローブを被せても大きい。人より頭一つどころか二つ近く高い。肩幅もありすぎる。窮屈な服の上からでも分かるほど腕が太く、歩けば裾の内側で尾がわずかに動いて布を揺らす。町に入れば目立つ。だが王国側ほどではないだろうとも思っていた。
「王国よりはましです」
「まし」
「ええ。ですから黙って歩いてください」
「分かりました」
素直に頷くところは本当に扱いやすい。
町へ向かって歩き出す。
近づくにつれ、往来の音がはっきりしてくる。荷車の車輪の音。声を張る商人。金属が触れ合う高い音。何かを煮る匂い。干した革の匂い。王国の町にも人の喧騒はあったが、こちらは混ざり方が違う。もっと雑多で、もっと気軽で、何より人間以外の気配が自然に紛れていた。
門の前では数人の兵が通行人を見ていたが、王国のような張り詰めた選別の目ではない。旅人も商人も、荷を抱えた女も、気の強そうな男も、皆そのまま通っていく。中には人間とは耳の形が違う者も、肌の色が妙に濃い者も、首や頬に鱗めいたものが見える者もいた。
シロウが、ほんの少しだけ顔を上げる。
「なんか」
続く言葉を選ぶように間を置いてから、小さく言った。
「王国と違いますね」
「違います」
リテュシアはそれだけ答えた。
王国では、エルフである自分は狙われる側だった。見られ、値踏みされ、金になるかどうかで視線の熱が変わる。その視線は慣れている。だがここでは、視線の質が少し違った。美しいものは見られる。珍しいものも見られる。だが即座に所有や支配へ結びつくような濁りが、王国より薄い。
もちろん、それで油断するほど甘くはない。
町に入り、まず宿を探す。山を越えたばかりの今、無駄に歩き回る理由はない。表通りから一本外れたところに、旅人向けらしい中規模の宿が見つかった。看板は古いが手入れされていて、入口も掃除が行き届いている。
部屋を取るやり取りはリテュシアがした。シロウはその横で一言も発さず、ただ黙って立っている。立っているだけで威圧感はあるのに、本人は必死で気配を消そうとしているから妙なものだった。
部屋へ上がると、木の床が軽く鳴った。窓が一つ。机と椅子。寝台。広くはないが、二人が身を休めるには十分だ。
扉が閉まると、シロウはようやく深く息を吐いた。
「緊張しました……」
「見れば分かります」
「尾、出てませんでしたか」
「ぎりぎり大丈夫です」
「ぎりぎり」
「ええ」
リテュシアは椅子へ腰を下ろし、荷を机へ置いた。窓の外ではまだ昼のざわめきが続いている。ここまで来た以上、まず決めるべきことは決まっていた。
「ここでしばらく情報を集めます」
そう言うと、シロウはすぐに姿勢を正した。
「何のですか」
「悪魔の楽園がどこにあるのか」
それが一つ。
シロウは素直に頷く。疑っていない顔だった。
「あと、王国の動きです」
「王国」
「ええ。わたくしたちが無事に逃げおおせたのか、まだ探されているのか、それによって動き方が変わります」
「そうですよね」
そこでリテュシアは机の上に小さな布包みを置いた。中にはまだ売っていない装飾品が残っている。生贄として飾り立てられるために身につけていたものの一部だ。王国で選ばれ、王国の金で整えられた飾り。それを今は自分の生活資金にする。皮肉だとは思うが、使えるものを使うことにためらいはない。
「それと、稼ぎ方も考えます」
シロウが布包みを見る。
「まだお金になるもの、ありますよね」
「あります」
リテュシアは包みを開き、指輪と耳飾りを一つずつ確認した。光を受けて、小さく鈍く光る。
「ですが、売れば減るだけです」
包みを閉じる。
「これを切り崩しているだけでは先細りになります」
シロウは少し考え込んでから、慎重に聞いてきた。
「ぼくにできること、ありますか」
その言い方は本当に飾りがない。大きな体をしているのに、こういう時だけ妙に小さく見えるのだから不思議だった。
「あります」
リテュシアは即答した。
「魔物を狩ります」
「狩る」
「ええ」
椅子にもたれながら、リテュシアは続ける。
「肉や素材も売れますが、一番いいのは魔石です」
「魔石」
「魔道具の燃料になります」
シロウは少し首を傾げた。
「燃料、ですか」
「そうです。ですから高い」
そこでシロウの目がわずかに動いた。興味を持った顔だ。知らないことを知ろうとする時の顔は年相応だった。
「肉や素材は、解体屋に持ち込めば買い取ってくれます。ただし時間がかかりますし、運ぶ手間もあります。ですが魔石だけなら、抉り取って軽く洗えば魔石屋でそのまま買い取ってくれる」
「魔石屋っていうお店があるんですね」
「あります。専門ですから」
シロウは何度か頷き、それから少し身を乗り出した。
「どのくらいになるんですか」
「質次第です」
リテュシアは自分の手を開いて見せた。
「だいたい、わたくしの手のひら程度の大きさで、最高級品なら金貨数枚」
「金貨」
「最低でも銀貨十枚ほどにはなります」
シロウが目を丸くする。
「すごいですね」
「宿屋に一泊、銀貨一枚から三枚ほどです」
そう言うと、シロウは本当に計算し始めたらしかった。顔に出ている。
「じゃあ、いい魔石ならかなり」
「ええ」
「稼げますね」
「そうです。ですから、まず狙うのは魔石です」
シロウはしばらく考え込み、やがてぽつりと聞いた。
「でも、なんでそんなに高いんですか」
当然の疑問だった。
リテュシアは椅子の背から身を起こした。
「魔道具の燃料だからです」
「魔道具って、前に言ってた」
「ヒトが魔法を使うための道具です」
シロウはそこで少しだけ眉を寄せた。魔法という言葉に、彼の中の何かが反応したのだろう。
「ヒトは魔法を直接使えません」
リテュシアはゆっくり言う。
「魔力は持っていても、それだけでは何も起こせない。魔道具が必要です」
「魔力はあるんですね」
「あります。ですが加工できない」
机の上の水差しを見ながら、リテュシアは指先で軽く机を叩いた。
「魔道具が、魔力を必要な形に変えます」
「必要な形」
「火なら火です」
シロウの目が少しだけ細くなる。分かりかけている顔だった。
「火の魔道具なら、魔力を火に変えて出す」
「なるほど」
「水なら水の魔道具。光なら照明の魔道具」
一つ一つ区切るように言うと、シロウはゆっくり頷いた。
「用途ごとに分かれてるんですね」
「ええ」
そこで彼は、少し迷ったような顔をしたあとで口を開いた。
「じゃあ」
「何ですか」
「一本で、いろんな魔法が出る道具とかは」
リテュシアは少し黙った。
「……一本?」
「えっと、こう」
シロウは手で細長いものを持つ仕草をした。
「持って振ったり向けたりしたら、火とか水とか、いろいろ出せるような」
リテュシアは首を横に振る。
「ありません」
即答だった。
「そのような都合の良いものは存在しません」
「あ、やっぱり」
「火は火、水は水です。一つで複数は扱えません」
シロウは小さく「そうなんだ……」と呟いた。
王国でも、エルフの集落でも、そんな発想を聞いたことはない。外から来た者の言葉なのだろうとリテュシアは思ったが、それ以上は掘らない。必要なのはここでの常識だけだ。
「それに」
リテュシアは続ける。
「出力は魔石と魔道具で決まります」
「出力」
「弱い魔石に照明の魔道具を組めば、安定した光になります」
そこで窓辺に置かれた小さな照明具へ目を向ける。宿の備え付けのものだ。
「ですが、強い魔石に低性能な火の魔道具を組めば、出力が大きすぎて制御できません」
シロウが真面目な顔になる。
「どうなるんですか」
「壊れます」
「壊れる」
「最悪、破裂します」
少しの沈黙。
シロウは嫌そうな顔をした。
「危ないですね……」
「高い魔石には高い魔道具が必要です」
「なるほど」
「高性能な魔道具は、出力の調整ができます。ですから高価です」
シロウは机に肘をつきそうになって、慌ててやめた。窮屈な服の袖がぎし、と鳴る。
「じゃあ、魔石って」
「ええ」
「燃料で、しかも強さそのものなんですね」
「そういうことです」
リテュシアが答えたところで、シロウはふと自分の胸元を見た。ローブの上から、無意識に体の中央あたりを触る。
「ぼくにも魔石ってあるんですか」
低い声なのに、その問いには妙に素直な響きがあった。
リテュシアは少しだけ考える。
「ある可能性は高いです」
「高い」
「かつて討伐された悪魔にはありました。あなたは悪魔です」
シロウは胸から手を離し、ひどく微妙な顔をした。
「なんか嫌です……」
「嫌でもあるならあります」
「胸の中に石って、変な感じです」
「あなたの体の方がよほど変です」
そう言うと、シロウは少しだけ口を閉じた。反論できないらしい。
「じゃあ」
今度はさらに慎重に聞いてくる。
「リテュシアさんには」
「ありません」
「ないんですか」
「基本的に、魔石があるのは魔物や悪魔です」
リテュシアは指で机を軽くなぞった。
「ヒトにはないとされています」
「ヒトって」
「人間、エルフ、ドワーフ、リザードマン、そのあたりです」
シロウの目がまた少し動いた。知らない種族名に反応したのだろう。
「ただし」
リテュシアは続ける。
「何をヒトとするかは国によって違います」
「違うんですか」
「王国では人間のみです」
シロウが嫌そうに眉を寄せる。
「それは、なんか」
「そういう国です」
そこでリテュシアは少し口元を引き締めた。
「協商連合では、魔石がない種族をヒトとする考え方が強いです」
「じゃあ、エルフも」
「ヒトです」
シロウは少しだけ安堵した顔になった。
リテュシアはそれを見ながら、続けるべきか一瞬だけ考えたが、結局口にした。
「ただ、魔石がないヒトが魔力を持つことは、昔から疑問視されています」
「どういうことですか」
「魔力があるなら、どこかに核があるのではないか、という話です」
シロウは真面目に聞いている。
「昔、魔道都市で」
リテュシアは言った。
「生きた人間を解剖して確かめようとした魔導師がいました」
シロウの顔が固まる。
「え」
「もちろん周辺国家から激しく非難されて、その後は禁止されています」
数秒の沈黙のあと、シロウは心底嫌そうな声を出した。
「それ、最悪です」
「ええ」
「信じられない」
「わたくしもそう思います」
シロウは机に置いた手をぎゅっと握った。爪は引っ込んでいるが、その指の動きに感情が出ている。
「じゃあ、リテュシアさんも魔力はあるけど」
「使えません」
質問の途中で答える。
「魔道具がありませんから」
「でも、魔力は高いんですよね」
「高い方です」
「なのに」
「ヒトはそういうものです」
シロウはそこで考え込んだ。
考え込む時、彼はすぐ目線を下へ落とす。十五歳らしい仕草だった。大きすぎる体と、そういう素直な癖が何度見ても噛み合わない。
やがて彼は顔を上げた。
「買いましょう」
リテュシアは一瞬、何のことか分からなかった。
「何をです」
「魔道具です」
シロウは真剣な顔で言う。
「リテュシアさん用に」
リテュシアは少しだけ目を細めた。
「高価ですよ」
「分かってます」
「分かっていません」
「分かってます」
妙なところで押しが強い。
「魔石を売ればいいんですよね」
「それでも簡単ではありません」
「でも」
シロウは少し言い淀んでから、はっきり続けた。
「あった方が安全です」
リテュシアは黙って彼を見る。
シロウは視線を逸らさなかった。
「ぼくがいない時とか」
その言葉が、妙に自然だった。
「リテュシアさんが危ないのは嫌です」
リテュシアは何も返さない。
悪魔なのに。
本当に、そう思う。
目の前にいるのは暴虐の悪魔を倒し、その力を奪った存在だ。魔道具などなくても、剣も槍も必要なく、大抵のものを力で捻じ伏せられる。にもかかわらず、この少年は自分ではなくリテュシアの方を気にする。
合理ではない。
明らかに非合理だ。
だが、使える。
その非合理さは、利用する側から見ればとても扱いやすい。
「あなたは本当に……」
リテュシアは小さく息をついた。
「お人好しですね」
シロウが一瞬、目を瞬かせる。
「え」
「悪魔とは思えません」
そう言うと、シロウは少しだけ困ったような顔をした。
「悪魔になりたくてなったわけじゃないですし」
「そうでしょうね」
返してから、リテュシアは椅子の背に身を預けた。
「ですが、悪くありません」
「じゃあ」
「その提案は受けます」
シロウの顔がわずかに明るくなった。
「本当ですか」
「魔道具があれば、確かに自衛の手段は増えます」
情ではない。合理だ。
そう割り切っているつもりだったが、シロウの安堵した顔を見ると、ほんの少しだけ調子が狂う。
「ただし」
リテュシアは釘を刺す。
「先に稼ぎます。買うにしても、物と値を見てからです」
「はい」
「その場の勢いで買うものではありません」
「分かりました」
そこからしばらく、二人は町へ出た。
表通りを歩き、市場の声を聞き、魔石屋の看板を探す。石を象った印のついた店が何軒かあり、入口には小さなランプのような照明魔道具が下がっていた。昼間でも淡く光っている。
シロウがそれを見て、小さく呟く。
「ほんとに光ってる……」
「見れば分かります」
「いや、でも実際見ると違います」
そう言いながら、彼は周囲の店にも目を向けていた。鍛冶屋。布屋。薬屋。小さな食堂。通りには耳の長い種族もいれば、肌の固そうな種族もいる。人間だけではない。だからこそ、ローブを被った大きな男がいても、王国ほどには浮かない。
それでも、シロウはぴたりとリテュシアの後ろについていた。
「離れないでください」
「離れてません」
「ならいいです」
昼を過ぎるころ、二人は軽い食事を取りながら、聞き込みを始めた。
旅人の噂話。山向こうから来た荷の話。王国側の検問が厳しくなっているという話。迷宮の近くで妙な動きがあるらしいという曖昧な話。どれも確かなものではないが、王国が何もしていないわけではなさそうだった。
リテュシアは頷きながら話を聞き、必要なところだけ覚える。
その一方で、聞く内容を少しずつずらしていく。
「この辺りで人の寄りつかない土地は」
「未開拓地はどちらに」
「魔物が多いのは」
「水場は」
表向きは危険地帯の確認だ。だが実際には、リテュシアは人の目を避けて生きられる場所を探っていた。悪魔の楽園などというものは知らない。だが、悪魔がいても人が近づかない場所ならあるかもしれない。あるなら、そこが使える。
シロウはその横で、ただ感心したように聞いていた。
「リテュシアさん、すごいですね」
「何がです」
「聞き方です。全然不自然じゃないです」
「当然です」
「そういうの、どこで覚えたんですか」
その問いに、リテュシアは少しだけ目を伏せる。
「本です」
「本」
「同じものを何度も読みましたから」
シロウはそれ以上深くは聞かなかった。聞かない方がいいと判断したのかもしれない。
夕方、部屋へ戻る頃には、空は少し赤みを帯びていた。窓の外の通りも昼ほどの喧騒ではなくなっている。
荷を下ろし、リテュシアは椅子に座った。
「まずは稼ぎます」
そう言うと、シロウは真っ直ぐ頷いた。
「はい」
「魔石を狙います。肉や素材は余裕がある時だけです」
「分かりました」
「魔石屋の位置も確認しました。明日以降、すぐ持ち込めます」
シロウはローブの合わせ目を直しながら、少しだけ不安そうに聞いてきた。
「魔物って、どのくらい出るんですか」
「場所によります」
「強いですか」
「場所によります」
「怖いです」
「知っています」
その返しに、シロウはほんの少しだけ口を尖らせた。十五歳らしい反応だった。
「でも」
シロウは続ける。
「頑張ります」
リテュシアはその顔を見た。
善良で、臆病で、いちいち素直で、そして圧倒的に強い。使うならこれほど都合のいい相手もいない。
「ええ」
リテュシアは静かに答える。
「期待しています」
そう言うと、シロウは少しだけ嬉しそうに笑った。
その笑みに何も返さず、リテュシアは窓の外へ目を向ける。
エルディア協商連合。王国より自由で、王国より雑多で、王国より少しだけ息がしやすい場所。だが、ここも終着点ではない。
まずは稼ぐ。
王国の動きを探る。
未開拓地の情報も集める。
その上で、次の場所を決める。
隣では、シロウが明日の準備を確認していた。水袋、外套、窮屈そうな服、ローブ。ぎこちない手つきで荷を整えながら、それでも真面目な顔をしている。
リテュシアはその姿を横目で見た。
悪魔とは思えません。
先ほど自分で口にした言葉を思い出し、ほんの少しだけ内心で呆れる。
それでも、今はそのお人好しな悪魔が必要だった。
夜の帳が少しずつ町へ下りていく。
新しい土地での最初の夜は、まだ不安定だった。
けれど、明日からの動きはもう決まっている。
二人はこの町で、稼ぎ、生き残り、次の場所へ進む。
そのための一歩が、ようやく始まろうとしていた。
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