第四話 山越えの夜と不器用なエルフ
エルディア山脈は、街から見上げた時よりさらに高く、さらに遠かった。
山の裾に入った時点で、空気の匂いが変わる。土と草の匂いに、乾いた石の気配が混ざっていた。見上げれば、灰色の岩肌と深い森が幾重にも重なり、その向こうへ続く尾根は雲に溶けている。
街道を行けば三日はかかる。
昨日の宿で、リテュシアはそう計算していた。だからこそ正面から街道を使うわけにはいかない。乗合馬車に紛れ込めれば楽だったが、フードを深く被せた程度で誤魔化せる相手ではない。シロウの体格は人の群れに入ればすぐに浮く。馬車に乗れば乗ったで、近くで見られる時間が長すぎた。
だから空を使う。
使えるものは使う。それだけの話だ。
「行きます」
山道から少し外れた、人の目の届きにくい林の中でリテュシアが告げると、シロウは荷を下ろしながら、いかにも気が重そうな顔をした。
「本当に飛ぶんですね……」
「ここまで来て歩くつもりだったのですか」
「少しは……」
「少し歩いたところで、山は越えられません」
リテュシアははっきり言った。
シロウは反論できず、背中の皮膜を意識するように少し肩を動かした。ここ数日で飛ぶこと自体は覚え始めている。だが覚え始めているだけで、好きになったわけではないらしい。高いところが怖いという感覚は、今日もまだしっかり残っていた。
「最初は高く上がりすぎなくて結構です」
そう言ってから、リテュシアは少し間を置いた。
「ですが、できるだけ距離は稼いでください」
「それは頑張ります」
頑張る、という言い方が十五歳らしいと思ったが、口には出さない。
シロウは荷物を背負い直し、それからリテュシアを抱き上げた。最初の頃より手つきはだいぶ安定している。だが安定しているだけで、慣れて余裕が出たわけではない。腕に力はあっても、顔は最初からずっと緊張していた。
「落としませんよね」
「落としません」
「言い切りましたね」
「言い切らないと飛べないです」
切実な声だった。
次の瞬間、皮膜が大きく開き、二人の体が地面から離れる。
山の風は平地とは違った。木々の上を越えた途端に、下から吹き上げる気流が体を持ち上げ、次の瞬間には横からの風が強く押してくる。シロウは羽ばたきながら、小さくうめいた。
「なんかもう、風が嫌です」
「山ですから」
「山ってこうなんですね……」
呑気なのか余裕がないのか判断に迷う声だったが、飛ぶこと自体はやめない。必死ではあるものの、前へ進んでいく。下を見れば、山道を進む小さな人影や荷馬車が蟻のように見えた。
少しずつ高度を上げていく。
最初は木々の梢をかすめる高さ。次に崖の縁を越える高さ。やがて眼下の斜面が遠ざかり、空の割合が増えた。
「もう少し高く」
リテュシアが言う。
「はい……」
返事はしたが、声が明らかに固い。
それでもシロウは羽ばたいた。風を受け、持ち上がり、さらに上へ行く。だが、ある高さを越えたあたりで急に空気の質が変わった。冷たく、鋭く、流れが読みにくい。横から巻き込むような風が強くなり、体が大きく揺れる。
「わっ」
シロウの腕に一気に力が入った。
進行方向がぶれる。尾が大きくしなる。羽ばたきのたびに皮膜が風に煽られ、体が押し返される。
「無理です」
歯を食いしばった声で、シロウが言う。
「まだです」
「いや、ほんとに無理です」
また風が来た。
今度は下から持ち上げられた直後に横へ流される。飛ぶというより翻弄されているに近い。シロウは何とか体勢を戻したが、額には汗が滲んでいた。
「これ以上は危ないです」
強がりではなく本心から出た声だった。怖いだけでなく、ちゃんと危険を感じ取っている。
リテュシアは周囲を見た。十分とは言えなくとも、距離はかなり稼げている。街道を歩いていれば、今もまだ山の入口付近を這っている頃だろう。
「下がってください」
そう言うと、シロウは露骨にほっとした。
「はい」
高度を落とす。風は少しずつ弱まり、羽ばたきも安定していく。山の中腹からやや上、岩場と低木の多い場所まで来たところで、二人は広めの平地を見つけた。風を遮る大きな岩もある。夜を明かすには悪くない。
地面に降り立った瞬間、シロウは深く息を吐き出した。
「怖かった……」
「よくやりました」
リテュシアは素直に言った。
シロウは少し驚いたように目を上げる。
「本当ですか」
「本当です。ここまで来られれば十分です」
平地から見下ろせば、遠くに街道が細く伸びている。その上を進む小さな列は、もうかなり下の方だった。これだけで一日以上は縮まっている。
リテュシアがそう判断すると、シロウは疲れの中にも少しだけ嬉しそうな顔をした。
「それならよかったです」
空は、もう薄く色を変え始めていた。山の向こうへ日が傾いていく。これ以上進めば、暗くなる前に足場を確保できなくなる。夜の山で無理をする利はない。
「今夜はここです」
荷を下ろしながらリテュシアが言うと、シロウは頷き、すぐに周囲へ目を配り始めた。怖がりではあるが、言われたことにはきちんと従う。そういうところは本当に扱いやすい。
風を避けられる位置に荷を寄せ、寝る場所を整え、水袋の残量を確認する。日が落ちれば一気に冷えるだろう。温かいものは欲しかった。
「炉を組みます」
リテュシアは近くの石を拾い始めた。
「温かい湯を飲むだけでも違います」
「分かります」
シロウも石を集めようとしたが、リテュシアは首を振った。
「石はわたくしが見ます。あなたは薪を」
「はい」
シロウは素直に離れ、近くの枯れ枝や折れた木を拾いに行く。その間にリテュシアは石を並べていく。風を防ぎ、鍋を掛けやすくし、崩れにくい形にする。頭では分かっている。分かっているのだが、手がどうにも鈍かった。
一度並べる。しっくり来ない。崩す。組み直す。やはり違う。
石と石の間が空きすぎる。角度が悪い。高さが揃わない。自分でも分かるほど、手際が悪かった。
「……」
無言のままやり直す。
リテュシアは眉を寄せた。
できるはずだった。
森で暮らしていた頃なら、これくらいは考えるまでもなく組めた。焚き火の位置を決め、風を見て、石を並べるくらいのことは、幼い頃には普通にやっていた。
だが今、手が止まる。
「どうしました」
薪を抱えたシロウが戻ってきて、控えめに聞いた。
「……できません」
リテュシアは不機嫌そうに答えた。
「前はできていたのですが」
「前って、どのくらい前ですか」
「奴隷になる前です」
そう言ってから、少しだけ考える。
「だいたい二十年前でしょうか」
シロウは薪を抱えたまま、数秒黙った。
「それは、忘れても仕方ないんじゃ」
「仕方ないでは済みません」
リテュシアは石を置き直す。
「できたことができないのは不愉快です」
声に少し棘が混じる。自分でも分かっていた。シロウが悪いわけではない。ただ、自分に腹が立っているだけだ。
「ぼく、やってみてもいいですか」
遠慮がちに差し出されたその言葉に、リテュシアは一度シロウを見た。大きな体。長い腕。鋭い爪。見た目だけなら細かい作業とは最も縁遠い。
だが今さら見た目で判断しても仕方がない。目の前の少年は、見た目ほど単純ではないのだから。
「お願いします」
リテュシアが一歩退くと、シロウは石の前にしゃがみ込んだ。膝を折って縮こまるようにしても大きい。だが手元を見る目は妙に真剣だった。
石を持ち上げ、角を見て、並べる。土の傾きを気にし、安定する位置を探る。
途中で、指先の爪が石に当たって少し邪魔そうにした。
「爪、邪魔だなあ……」
その瞬間、爪がするりと引っ込んだ。
「え」
シロウが固まる。
自分の指を見つめ、軽く開閉する。意識すると爪が出る。力を抜くとまた引っ込む。
「出し入れできる」
思わず呟いた声に、リテュシアも目を留める。
「便利ですね」
「まるでネコみたいです」
言いながら、シロウは少しだけ目を輝かせた。十五歳らしい反応だった。
それから急に真面目な顔になり、自分の口元や背中を意識する。
「牙とか、翼とか、尾もできるのかな」
試してみるが、牙はそのまま、皮膜もそのまま、尾も何も変わらない。
「爪だけみたいです」
「それでも十分でしょう」
「そうですね」
爪が引っ込んだことで、手元の動きはずっとやりやすくなったらしい。石を置く指先に迷いがなくなる。少し高さを変え、風を受けにくい形へ修正し、鍋を掛けるための間も作る。
やがて、きちんとした炉が形になった。
リテュシアはそれを見て、小さく息をつく。
「上手です」
「本当ですか」
「ええ。わたしより」
その言い方に、シロウは少し困ったように笑った。
「ぼく、こういうの嫌いじゃないんです」
「野営がですか」
「いえ、手を動かすのが」
薪を脇に置きながら、シロウは答えた。
「料理が趣味なんです」
リテュシアは、そこで少しだけ目を見開いた。
「料理」
「はい」
「あなたが」
「そんなに意外ですか」
「かなり」
見た目からして、包丁どころかまな板ごと叩き割りそうな腕をしている。だが本人は特に気にした様子もなく、炉へ薪を差し込み、火打ち石を手に取った。
「火は、わたしが」
リテュシアはそう言って前へ出た。実際に手を動かすのが二十年ぶりなら、それを取り戻しておく必要はある。
火種を作る。布を寄せ、乾いた草を当て、火打ち石を打つ。
火花は散る。だがうまく草へ移らない。
もう一度。やはりだめだ。
リテュシアは少しだけ唇を引き結ぶ。
「……」
「代わりますか」
シロウが気を遣って言った。
「指示します。あなたがやってください」
そう言うと、シロウはすぐに頷いた。
「はい」
リテュシアが手順を口にする。草の寄せ方、布の位置、火花を落とす角度、息を吹きかける強さ。シロウはそれをそのままなぞるようにやった。
火花が落ちる。
草が赤くなり、細い煙が立つ。
「そこで、ゆっくり」
「はい」
シロウが息を吹きかけると、火が走った。
ぱち、と乾いた音がして、小さな炎が生まれる。薪へ移し、炉の中で安定させる。鍋を掛けるころには、十分な火になっていた。
「器用ですね……」
思わず漏れた言葉に、シロウは少し照れた顔をした。
「料理は失敗すると食べるものなくなるので」
「ずいぶん現実的ですね」
「家でたまにやってただけですけど」
そう言いながら、水を鍋へ注ぐ。動きが自然だ。本当に慣れているのだろう。
湯が温まるまでの間、二人は外套にくるまって岩陰に腰を下ろした。日が完全に沈むと、空気は一気に冷え込んだ。山の夜は早い。火の明かりがなければ、周囲はすぐに闇へ沈んでいく。
「危なくないんですか」
シロウが声を潜めて聞く。
「何がです」
「野生動物とか、魔物とか」
リテュシアは耳を軽く動かした。風の音。火の音。遠くの枝が揺れる音。近くに何かが近づく気配はない。
「大丈夫です」
「本当に」
「この長い耳は伊達じゃありません」
淡々と言うと、シロウは少しだけ安心したようだった。
「すごいですね、エルフって」
その無邪気な感想に、リテュシアは内心だけで肩をすくめた。
実際には、この場にシロウがいるからだ。野生動物も魔物も、目に見えなくても本能で分かるのだろう。この異形の悪魔に近づくのは危険だと。それが分かるからこそ、寄ってこない。
湯が温まり、木の器に注いで飲む。
温かい。
それだけで指先の感覚が戻る。山の夜において、湯は思った以上に価値があった。
「おいしい」
シロウがほっとした声を漏らす。
「ただのお湯です」
「温かいのでおいしいです」
その答えが妙に子どもっぽくて、リテュシアは少しだけ口元を緩めかけた。だがすぐに風が強まり、外套の合わせ目から冷気が入り込んでくる。
時間が経つほど、気温は下がっていった。
火のそばにいても、背中側が冷える。手先も足先も冷たくなっていく。リテュシアは外套を更に引き寄せたが、それでも寒い。
「寒い……」
小さく漏らすと、隣のシロウが振り向いた。
「大丈夫ですか」
「寒いだけです」
「ぼくは、そこまでじゃないですけど」
そう言われて改めて見ると、シロウは平気そうだった。いや、まったく寒くないわけではないのだろうが、リテュシアほど堪えてはいない。むしろ体からほんのり熱が立っているようにすら感じる。
そこでふと、リテュシアは思い出した。
炎を纏い、王国を焼き尽くした暴虐の悪魔。
炎の悪魔。暴虐の悪魔。
その力を倒して奪ったのが、目の前のシロウだ。
「シロウ」
「はい」
「もう少し熱くなれますか」
シロウはきょとんとした。
「熱く」
「体温です」
「ああ……やってみます」
素直に応じる。少しだけ肩に力を入れたかと思うと、彼の体温がじわりと上がった。
「すごい」
リテュシアは思わず呟く。
本当に温かい。いや、かなり温かい。火のそばに寄るのとは違う、芯からにじむ熱だ。
だがその熱を感じた途端、リテュシアは不満そうに眉を寄せた。
「一人だけ温まるなんて」
「え」
シロウが目を丸くする。
「不公平です」
「誤解です」
慌てた声が返る。
「寒いなって思ったら勝手にそうなっただけで、ぼくが意識して一人だけ温まってたわけじゃ」
「では共有してください」
言うなり、リテュシアはシロウの外套の中へ潜り込んだ。
「えっ」
シロウの体が跳ねる。
だが山の夜に遠慮をしている余裕はない。外套の中は思った以上に暖かかった。シロウの体そのものが熱源になっている。腕や胸の近くほど熱が強い。
「暖かいです」
リテュシアは満足げに言った。
「ぬくぬくです」
自分の外套は重なるだけで邪魔だった。脱いで脇へ置くと、更にシロウの熱が直接伝わってくる。
途端に、シロウの体温がまた上がった。
「もう上げなくて大丈夫です」
「はい、いえ、勝手に」
声がひどく上ずっている。
「勝手にです」
「勝手にですか」
「はい……」
リテュシアはその様子に、少しだけ面白くなった。
顔を見なくても分かる。間違いなく赤くなっている。外套の中で体が固くなり、呼吸までぎこちない。昨夜、部屋で服を脱いだ時と同じ反応だった。
「落ち着いてください」
「無理です」
「寒いのですから仕方ないでしょう」
「それはそうなんですけど」
「では、我慢してください」
そう言ってリテュシアは目を閉じた。
暖かい。実に暖かい。火の熱と違って消えないのがいい。シロウ自身が熱を出している限り、このまま寒さを凌げる。
しばらくして、シロウの呼吸も少しずつ落ち着いてきた。完全に落ち着いたわけではないが、疲れの方が勝ち始めたのだろう。今日一日、飛んで、荷を運び、火まで起こした。十五歳の少年にしては十分すぎるほど働いている。
夜の間、風は何度か強くなったが、岩陰と炉のおかげで致命的にはならなかった。火を絶やさぬように見ながら、二人は浅く眠りを繰り返す。
朝、空が白み始めたころ、リテュシアは先に目を覚ました。
風は昨夜より明らかに弱い。
空気は冷たいままだが、切り裂くような鋭さはない。岩陰から外をうかがうと、空はよく晴れていた。尾根の向こうまで見渡せる。
「シロウ」
声を掛けると、外套の中でシロウがもぞりと動いた。
「……はい」
「起きてください」
「起きてます……」
起きている声ではなかったが、少しすると本当に体を起こした。寝起きでぼんやりしているせいか、昨夜の近さを思い出していないらしい。少ししてから急に顔が固まり、無言で視線を逸らした。
リテュシアは何も言わず、水を渡す。
「今日は風が弱いです。進めます」
そう言うと、シロウは水を飲みながら前を見た。
山はまだ続いている。
ここは中腹より上ではあるが、越えたわけではない。尾根の向こうにさらに峰が重なっているのが見える。昨日の夜の位置から朝になっただけで山越えが終わるはずもない。
だが、もう出口は遠くない。少なくともそう感じられる場所までは来ていた。
「もう少し飛べますか」
リテュシアが聞くと、シロウは空を見て、それから自分の背を触った。
「怖いですけど」
「知っています」
「でも昨日よりは、ましそうです」
「ええ」
朝の支度を済ませる。湯はもう作れないが、残っていた携行食を口にし、水で流し込む。炉の火をきちんと消し、痕跡を崩し、荷をまとめる。
シロウは立ち上がり、少しだけ屈伸をした。肩を回し、皮膜を広げる。昨日より動きが滑らかだ。飛ぶことに慣れた、というより、怖がる暇が減ってきたのかもしれない。
再びリテュシアを抱え、羽ばたく。
朝の空気を切って、二人は山の斜面を越えていく。
昨日ほど高くはない。それでも必要な分だけ高度を取り、風を避けながら進む。途中で少し歩き、また飛び、尾根を越え、さらに奥へ進む。
やがて、ある瞬間に景色が変わった。
目の前に開けた空間。その向こうに広がる、王国側とは違う地形。山の向こうへなだらかに続く土地。その先には、新しい道と、点在する集落らしき影。
「見えます」
シロウが言った。
「はい」
リテュシアも答える。
エルディア山脈の向こう側。
まだ街へ着いたわけではない。だが、越えた。確かに越えた。
二人は山の反対側の斜面へ降り立つ。
足の下の土を踏みしめた瞬間、リテュシアは短く息を吐いた。王国の内側を抜けたのだという実感が、ようやく少しだけ湧く。
シロウはまだ状況を整理しきれていない顔で周囲を見回していたが、やがてリテュシアへ向き直った。
「越えました……?」
「越えました」
そう告げると、シロウは目を丸くして、それから心底ほっとした顔で笑った。
「よかった……」
頼りなくて、臆病で、すぐ赤くなる。だが確かにここまで連れてきた。
リテュシアはその笑みを見ながら、荷を持ち直す。
「まだ安心はできません」
「はい」
「ですが、一歩進みました」
「はい」
返事は素直だった。
山の向こうから吹いてくる風は、王国側のそれより少し柔らかく感じた。気のせいかもしれない。だが今は、それで十分だった。
リテュシアは前を向く。
「行きます」
シロウも頷き、すぐ後ろに続いた。
山越えは終わった。
だが、二人の逃避行はまだ始まったばかりだった。
次話は本日18時ごろに投稿予定です。
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