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悪魔の花嫁 エルフの花婿 〜悪魔のぼくと美人なエルフのお姉さん〜  作者: よるねこ


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第三話 生きるために二人で進む事を決めた日の話


 朝の光はまだ柔らかかったが、宿の窓から差し込むそれは、迷宮の青白い魔石の光とはまるで違って見えた。


 木枠の隙間から入り込む細い光が、机の端と床板の継ぎ目を淡く照らしている。外では荷車の車輪が石畳を鳴らし、遠くで店を開ける音がした。人の街の朝だ。夜が明ければ人が動き、店が開き、金が回る。誰もが当たり前のように自分の一日を始める。


 その音を聞きながら、リテュシアは寝台の端に腰を掛けていた。


 向かいでは、サクマシロウがまだ半ば眠そうな顔でローブの裾をいじっている。大きすぎる体を小さく見せようとしているのか、膝を寄せ、肩まで縮めている姿は滑稽だった。これほど大柄で異形の男が、誰かに見つからないよう息を潜めている。その事実だけで少し可笑しい。だが、笑う理由にはならない。


「今日は早めに出ます」


 リテュシアが言うと、シロウは慌てて顔を上げた。


「はい」


 返事だけは素直だ。


 昨日のうちに宿は取った。食事も済ませた。体を休めることもできた。だが、のんびりしている余裕はない。


 リテュシアは窓の外へ目を向ける。


「わたしが逃亡したと分かれば、王国は必ず連れ戻しに来ます」


 シロウは瞬きをした。


「そこまで、ですか」


「そこまでです」


 答えながら、リテュシアは淡々と荷物を整える。新しく買った服は動きやすいが、生贄の衣装ほど目を引かないだけで、女一人で長く旅をするにはまだ不足が多い。短剣、外套、水袋。昨日のうちに最低限は揃えたが、それでも王国の内側にいる限り安全とは言い難かった。


「わたしは生贄です。王国が暴虐の悪魔へ差し出したものです。それが消えたとなれば、面目の問題にもなります」


 シロウの顔が曇る。


「でも、リテュシアさんは悪くないのに」


「悪いかどうかは関係ありません」


 静かに言い切ると、シロウはそれ以上続けられず、膝の上で長い指を組んだ。爪が布に引っかからないよう気をつけているらしい仕草が妙に細かい。


「それに、わたしはエルフです」


 リテュシアは立ち上がり、窓辺まで歩いた。


「一人でいれば、それだけで狙われます。王国の兵だけではありません。奴隷狩りも、物盗りも、もっと手近な欲に動く者もいます」


 そこでシロウはわずかに息を呑んだ。


 昨夜、同じ部屋で過ごした時のことを思い出したのかもしれない。あの時の彼は顔を真っ赤にして後ろを向き、耳まで赤くしたまま必死に倫理を説いていた。彼らしい反応といえばそれまでだが、その青さは利用しやすくもあり、少しばかり眩しくもある。


「少なくとも、王国の勢力圏からは出ます」


 リテュシアは言った。


「目指すのはエルディア協商連合です。エルディア山脈を越えた先にあります」


「エルディア」


「犯罪奴隷以外の奴隷は禁止されています。王国より、ずっと自由です」


 シロウはその言葉に少しだけ安堵したようだった。


「じゃあ、そこまで行ければ」


「多少はましになります」


 多少、だ。安心できるとは言っていない。だが今はそれで十分だった。


 宿を出る頃には、朝の光も街の喧騒もはっきりしてきていた。シロウはローブのフードを深く被り、昨日と同じように肩を丸めて歩く。二メートルを超える異形の巨体がそれをやるせいで、隠れているというより余計に目立ちそうなものだが、まだ人の少ない時間帯なのが救いだった。


 街を抜け、街道から少し外れた場所まで来ると、ようやくシロウは小さく息をついた。


「ここなら、大丈夫ですか」


「街からは少し離れています。飛ぶならここです」


「飛ぶんですね……」


 声がもう弱い。


 昨日、飛ぶこと自体はできた。だが、できることと慣れていることは別だ。シロウは明らかに後者ではなかった。背の皮膜を意識するように少し動かし、それだけで嫌そうな顔をする。


「もう少し高く飛んでください」


 リテュシアが言うと、シロウはすぐに首を横に振った。


「無理です」


「見られます」


「無理です」


 声に切実さが混じる。


「高く飛ぶの、怖いです」


「低ければ見つかりやすくなります」


「それでも無理です。まだ飛ぶの二回目です」


 真顔で言い切ったあと、彼は小さく付け足した。


「安全第一です」


 リテュシアはしばらく黙って彼を見た。


 この男は本当に、自分がどれほどの力を持っているか分かっていないのだろう。分かっていても、体より心が追いついていない。羽ばたけば木々など簡単に越えられるのに、本人の中では初めて空へ上がる恐怖の方が勝っている。


「見られて兵を呼ばれるのと、高い場所が怖いのと、どちらがましですか」


 問うと、シロウは本気で考え込んだ。


「どっちも嫌です」


「選んでください」


「ひどいです」


「現実です」


 リテュシアが表情も変えずに返すと、シロウは肩を落とした。


「じゃあ……ちょっとだけ、高くします」


「ちょっとでは足りません」


「ちょっとよりは高くします」


 それがこの少年なりの譲歩なのだろう。


 リテュシアはそこで押し切るのをやめた。無理に上げさせて落とされる方が面倒だ。結局、彼は高所が怖いくせに飛べてしまう。その矛盾に付き合うしかない。


「では、行きます」


「はい……」


 彼はそう答えたが、その声にはまるで覇気がない。


 昨日と同じように、シロウはリテュシアを抱き上げた。持ち上げる腕はしっかりしている。筋肉の付き方も力のこもり方も、人を持つには十分どころか過剰ですらあった。だが彼の顔は相変わらず余裕がない。自分の腕の中にいるのが生贄として育てられたエルフの女であることより、とにかく落とさないことに意識の大半を使っているのが分かる。


 羽ばたき一つで、地面が遠ざかる。


 風が頬を打った。朝の空気はまだ冷たい。下では木々の梢が揺れ、街道の先に小さく人や馬車が見える。シロウは下を見た瞬間に体を強張らせた。


「やっぱり怖いです」


「前を見てください」


「前も怖いです」


「後ろでもよろしいですが」


「今それ言いますか」


 必死さのあまり、返事だけは早い。


 それでも昨日よりはましだった。羽ばたきに無駄が少なくなり、上下に揺れる幅もいくらか落ち着いている。高くは飛ばないが、低すぎて木にぶつかるほどでもない。ぎりぎり実用に足る飛び方だ。


 しばらく無言で進んだあと、リテュシアは何気なく口を開いた。


「あなたは、悪魔になる前は何をしていたのですか」


「ぼくですか」


 シロウは飛ぶのに必死なまま、それでも律儀に答える。


「高校生です。学生で、学校に通ってました」


 リテュシアは目を細めた。


 学生。


 働いていた男ではないとは思っていた。昨夜の反応で、少なくとも女に慣れた大人ではないことは分かっている。だが、それでもせいぜい成人前後だろうと勝手に考えていた。


「おいくつなんです?」


 訊くと、シロウは少し首を傾げたようだった。隠す理由が分からないのだろう。


「十五歳です」


 風の音の中、その言葉だけが妙にはっきり聞こえた。


 リテュシアは一瞬、何も返せなかった。


 十五。


 若い、ではない。幼い。


 今までの正座して嘆く姿も、真っ赤になって後ろを向く様子も、人を値段で量ることへの嫌悪も、すべてが一気に腑に落ちる。見た目だけ見れば、どう考えても大人の男を越えた異形の怪物だ。だが中身は、まだ十五の少年でしかない。


「リテュシアさん?」


 返事がないことを不審に思ったのか、シロウが不安そうに声を掛けてくる。


「いえ」


 リテュシアは短く答えた。


「想像より若かっただけです」


「よく言われます」


「その体で言われても説得力がありません」


「今のぼくに言われても困ります」


 それはそうだった。


 少しだけ空気が和らいだところで、今度はシロウが恐る恐る訊ねてきた。


「リテュシアさんは、おいくつなんですか」


 風の流れが変わったわけでもないのに、空気だけがひやりとした。


 リテュシアは黙る。


 シロウは数秒待って、すぐに何かまずいことを聞いたと悟ったらしい。抱える腕に微妙な緊張が走る。


「えっと」


「女性に年齢を聞くのは失礼なんですよ」


 静かに言うと、シロウは本当にびくりとした。


「す、すみません」


 素直に謝る。


 謝られると、それ以上追い打ちをかける意味もない。リテュシアは前を向いたまま黙った。シロウもそれ以上何も言わず、しばらくは風の音だけが続く。


 昼を越え、陽が傾き始める頃には、遠くの景色が少しずつ変わってきた。街と街を結ぶ道の先、地平の向こうに連なる山の影が見え始めている。


 シロウの飛び方も、疲れのせいで少し荒くなっていた。羽ばたくたびに呼吸が重くなり、ローブの奥で喉が上下する。


「少し休みますか」


 リテュシアが言うと、シロウは意地のように首を横に振った。


「大丈夫です。まだいけます」


 十五歳らしいところだ、とリテュシアは思った。


 疲れていても、言われたことをやり遂げようとする。怖がりで、びくびくしているくせに、妙なところで頑固だ。利用する側から見れば都合がいい。だが、壊れやすそうでもある。


 夕暮れが近づき、空が薄く赤く染まる頃、別の街が見えてきた。城壁は昨日の街よりやや低いが、周囲の畑や荷車の出入りを見る限り、それなりに人の多い土地らしい。


「今日はあそこへ入ります」


 リテュシアが言うと、シロウは目に見えて安堵した。


「助かります……」


 声がすでに疲れ切っている。


 街から少し離れた林へ降りた時には、昨日と同じくシロウは膝に手をついて深く息をしていた。背中の皮膜もしなだれ、尾の動きも鈍い。


「よく持ちました」


 珍しくそう言うと、シロウは少し驚いたように顔を上げた。


「ほんとですか」


「落とさなかったので」


「基準低くないですか」


「高くすると飛べなくなるでしょう」


 返すと、シロウは苦笑した。十五歳の少年らしい、少し照れた笑い方だった。異形の顔にはあまり似合わないが、だからこそ妙に印象に残る。


 林の中で一息ついたあと、二人は街へ向かった。昨日よりも日が落ちるのが遅かったせいで、宿探しにはまだ少し余裕があった。だが運が悪かったのか、安い宿はどこも空いていない。商人の一団でも入っているのか、人の多い時期なのか、理由は分からないが事実として埋まっていた。


 三軒目でようやく取れた宿は、少し高級な造りだった。入口の扉も磨かれ、受付の後ろの壁には飾り皿まで掛かっている。リテュシアはほんの少し迷ったが、野宿するよりはましだと判断する。


 部屋へ通されると、昨日より広い部屋だった。寝台も一つだが、質は良い。窓辺の布も厚く、机も椅子も傷が少ない。


「高そうです」


 シロウが小声で言う。


「高いです」


「大丈夫なんですか」


「大丈夫でなくても泊まります」


 そう言ってリテュシアは荷を下ろした。部屋食を頼むと、シロウは目に見えてほっとしたようだった。食堂へ降りなくて済むことがよほどありがたいらしい。


 やがて運ばれてきた食事は、昨日より少しだけ上等だった。鶏肉の香草焼き、野菜の煮込み、白いパン、豆の温かいスープ。香りが立ちのぼると、シロウの表情が少し緩む。


「今日は部屋だから楽ですね」


「あなたは人目を気にしすぎです」


「気にしますよ」


 即答だった。


「ぼく、犬に吠えられるのでも怖いのに、人にじろじろ見られるのはもっと怖いです」


 その例えがあまりにも情けなくて、リテュシアはパンを切る手を止めかけた。


「犬ですか」


「大きい犬です」


「変わりません」


「変わります。大きい方が怖いです」


 真剣に言うので、それ以上は何も言わなかった。


 食事をしながら、リテュシアは頭の中で距離を確かめる。


「明日一日、このペースで進めればエルディア山脈に辿り着きます」


 シロウはスープの器を持ったまま顔を上げた。


「ほんとですか」


「山を越えれば、エルディア協商連合です」


 その言葉に、シロウの肩の力が少し抜ける。


「リテュシアさん、詳しいですね」


「本を読んでいましたから」


「本」


「暇でしたので」


 それだけ言ってから、リテュシアは豆のスープを口へ運ぶ。熱はちょうどよかった。


「生贄として育てられたなら、いろいろさせられてたんじゃないですか」


 シロウの問いに、リテュシアは首を横へ振る。


「掃除も洗濯も、裁縫や刺繍も、わたしにはほとんどさせてもらえませんでした」


「どうして」


「肌荒れや怪我を嫌がられたからです」


 シロウが一瞬、言葉を失う。


 食器の触れ合う小さな音だけが部屋に響いた。


「じゃあ、ずっと」


「ずっと暇でした」


 リテュシアはあっさり答えた。


「本は高価ですから、それほど数はありません。ですので同じ本を何度も何度も読みました」


「覚えるくらいに」


「ほとんど覚えています」


 地図、地誌、英雄譚、商人の記録、王国の歴史。断片的でも、何度も読めば頭に残る。自由はなくとも、閉じ込められた部屋の中には文字だけがあった。


「森で放浪していた頃より、衣食住だけならずっと良い暮らしでした」


 リテュシアは言った。


「ただ、自由はありませんでしたが」


 シロウはしばらく黙っていた。十五歳の少年には、その言葉の重さを完全には量れないのかもしれない。それでも彼なりに考えたのだろう。やがて、小さく呟く。


「それ、嫌です」


「嫌でしょうね」


「だって、どれだけ綺麗な服があっても、どれだけごはんが食べられても、自由がないのは」


 そこで言葉を探し、結局素朴な結論に辿り着く。


「嫌です」


 同じ言葉を繰り返しただけなのに、不思議と嘘がなかった。


 リテュシアは彼を見る。


 この少年は、本当に真っ直ぐだ。自分の価値も立場も理解し切れていないくせに、他人の不自由には素直に眉をひそめる。


「ちなみに」


 少し気まぐれで、リテュシアは続けた。


「わたしの値は、体重と同じ黄金ぐらいです」


 シロウの手が止まった。


「え」


「わたしぐらい美しい処女なエルフなら、それでも安いぐらいです」


 シロウはしばらくぽかんとしていたが、やがて深く眉を寄せた。


「人に値段つけるの、おかしいです」


「そういう世界です」


 リテュシアが言うと、シロウは納得できない顔のまま、器の中を見つめた。


「おかしいです」


 もう一度言う。


 その頑なさに、リテュシアは内心で少しだけ面白くなる。商品として値を付けられることに慣れた自分と、それを生理的に拒む十五歳の少年。その温度差は、会話を重くしすぎずに確かに残った。


 夜は静かに更けていった。


 昨日ほどではないにせよ、同じ寝台に二人で横になることにシロウはまだ少し緊張しているらしい。だが昨夜のように後ろを向いて耳まで赤くすることはなかった。その代わり、距離だけはきっちり空けようとしている。巨体のくせに律儀だ。


「明日は朝から準備です」


 灯りを落とす前にリテュシアが言うと、シロウは寝台の端で頷いた。


「はい」


「山越えになります。街道を真っ直ぐ行って、乗合馬車に紛れられれば楽ですが」


「ぼくじゃ無理ですね」


「無理ですね」


 そこは即断だった。


 シロウは苦笑した。


「ですよね……」


「ですので山越えです。荷物も必要になります」


「持ちます」


 これも即答だった。


「持てるだけ持ちます」


 その言葉だけは頼もしい。実際、力仕事に関しては頼れるのだから間違ってはいない。


「では、おやすみなさい」


「おやすみなさい、リテュシアさん」


 低いがまだどこか少年っぽさの残る声が返る。


 翌朝、二人は早くから動いた。


 市場が本格的に賑わう前の時間に宿を出て、必要なものを揃えていく。乾いた携行食、水袋の追加、火打ち石、簡易の鍋、紐、布、傷薬、山道に備えた厚手の外套。リテュシアは迷わない。店を見て、品を確かめ、値を聞き、いるものだけを選ぶ。


 その後ろを、シロウが大人しくついてくる。


「それも持ちますか」


「持ちます」


「重くありませんか」


「これくらい全然平気です」


 両手に荷を提げ、背にもまとめて背負っているのに、彼は顔色一つ変えない。筋肉質で長い腕は伊達ではないらしい。だが何を買うべきかはまるで分かっていないので、ただ素直に荷物持ちをしているだけだ。


 靴の補強用に革紐を選んでいた時、シロウがふと訊いた。


「リテュシアさんって、こういうの全部、本で覚えたんですか」


「全部ではありませんが」


「すごいです」


「あなたが知らなすぎるだけです」


「それは否定できません」


 自覚はあるらしい。


 買い物を終え、街を出る頃には陽もすっかり上がっていた。街門の向こう、道はやがて山へ続いている。遠くにはエルディア山脈の青い稜線が見えた。近くで見れば険しいだろう。だが越えなければならない。


 リテュシアは立ち止まり、山の方を見た。


 王国からの脱出。そのための道筋はようやく形になった。まだ安全ではない。むしろここからの方が危険かもしれない。それでも、行く先が見えているだけ昨日までよりはましだ。


「行きます」


 振り返らずに言うと、背後で荷物の揺れる音がした。


「はい」


 シロウの返事が続く。


 頼りなくて、臆病で、十五歳のくせに怪物みたいな体をした悪魔。だが今の自分にとっては、誰より役に立つ存在だ。


 リテュシアは一歩、山へ向かって踏み出した。


 シロウもその後に続く。


 王国を背に、二人はエルディア山脈へ向かう。


 まだ逃げ切ったわけではない。


 だが、少なくとも立ち止まってはいなかった。

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