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悪魔の花嫁 エルフの花婿 〜悪魔のぼくと美人なエルフのお姉さん〜  作者: よるねこ


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第二話 悪魔として生きるしかないと理解した日の話


 迷宮の最奥は、相変わらず静かだった。


 暴虐の悪魔がいたはずの広間には、青白い魔石の光だけが落ちている。砕けた首輪と腕輪の欠片が床に散り、その向こうでサクマシロウは正座をしたまま肩を落としていた。


「本当に、どうしたらいいんだろう……」


 うつむいた声は重い広間の空気に吸われ、やけに頼りなく消えていく。


 リテュシアはしばらく黙ってその様子を見ていた。目の前にいるのは、伝説の悪魔を倒した存在だ。にもかかわらず、本人は自分が何者になったのかを受け止めきれていない。爪も牙も尾も皮膜も、あれほど明白なのに、心の方だけが追いついていなかった。


 だが、いつまでも嘆かせておくわけにはいかない。


「シロウ」


 声をかけると、彼はびくりと肩を震わせて顔を上げた。反応がいちいち小動物じみている。あれだけの体をしていながら、それが奇妙だった。


「は、はい」


「暴虐の悪魔が倒されたことを察すれば、王国は必ず調べに来ます」


 シロウは数度まばたきをして、その言葉を頭の中でつなぎ合わせたらしい。沈んでいた目にわずかな光が差した。


「じゃあ、その人たちに助けてもらえば」


 その発想が出ると思っていた。


 リテュシアは表情を変えずに言う。


「無理です」


 彼の顔から光が消える。


「悪魔は討伐されます」


 沈黙が落ちた。


 シロウの口がわずかに開いたまま止まる。反論は出てこないらしい。自分の腕を見て、爪を見て、尾の先が弱々しく揺れる。理解しているのだ。外から見れば自分がどう見えるのかを。


「でも、ぼくは」


「何もしていないと訴えても、信じる者がどれだけいるでしょうね」


 リテュシアは静かに続けた。


「あなたはこの迷宮の最奥にいて、暴虐の悪魔は消えた。しかも姿は悪魔そのものです。討伐隊が来れば、まず剣を向けられます」


 シロウは唇を引き結んだ。否定したいのだろうが、できないのだろう。彼の善性は疑っていない。だが善良であることと、生き残れることは別だ。


「そんな……」


 落ちた声は掠れていた。


「じゃあ、ぼくはここにいるしか」


「それも危ういでしょう」


 リテュシアは広間の入口へ目を向ける。湿った空気の向こう、暗い通路が外へと続いている。


「ここにいても、いずれ人は来ます。迷宮の様子を確かめ、主の不在を悟り、深くまで踏み込む。そうなれば同じことです」


 シロウは正座を崩さないまま、さらに背を丸くした。巨大な体なのに、今は小さく見える。


「終わった……」


 その呟きに、リテュシアは心の中でだけ首を振った。


 終わってなどいない。むしろ始まったばかりだ。そして自分もまた、この場に留まるつもりはない。王国が迷宮を調べに来る前に離れる必要がある。生贄が消えたことが分かれば、それもまた面倒の種になる。


「一つ、聞いたことがあります」


 静かに言うと、シロウがはっと顔を上げた。


「え」


「外には、悪魔たちの楽園があると」


 彼の目が揺れる。


「楽園」


「人から遠く離れた場所だそうです。悪魔や魔物が生きる土地で、人の目を気にせずに済むとか」


 もちろん嘘だ。だが全部が全部、完全な作り話というわけでもない。人の手が入らぬ危険地帯なら、人の目は届きにくい。悪魔の楽園などという甘いものではなく、ただの未開拓地に過ぎないが。


 シロウはその言葉に縋るような顔をした。


「そこなら、ぼくでも」


「少なくとも、いきなり討伐されることはないでしょう」


 それは本当だ。別の危険は無数にあるとしても。


 彼はしばらく迷っていた。希望を信じたい顔と、急に外へ出ることへの怯えが同居している。やがて、ためらいがちに訊いてくる。


「そこ、遠いですか」


「歩けばかなり」


「かなり」


「ですが、あなたは飛べるのでしょう」


 シロウの視線が背中の皮膜へ動いた。


「飛べる、のかな……」


「試したことは」


「ないです」


 即答だった。


「落ちたら」


「わたしは落ちますね」


 あっさり言うと、彼の顔が青ざめる。


「いやそれ駄目です」


「なら落とさないでください」


「そういう問題じゃなくて」


 声が情けなく裏返る。だが結局、飛ぶ以外にろくな選択肢がないのも分かっているのだろう。彼は困り果てたように頭を抱えた。


「ぼく、ほんとにこういうの駄目なんです。高いところとか、怖いし」


「王国の兵に囲まれる方がよろしいですか」


「よくないです」


「では、決まりです」


 リテュシアはそう言って立ち上がった。生贄の衣装の裾が石床を擦る。首輪が消えた喉元は軽かった。腕も軽い。魔力が戻っただけでこれほど違うのかと、自分でも少しだけ驚く。


 シロウはまだ座ったままだったが、やがて諦めたようにのろのろ立ち上がった。


 立ち上がると、やはり大きい。広間の暗さの中でも分かるほど、筋肉の盛り上がりが濃い影を落とす。だがその大男が、今にも逃げ出したい顔をしているのだから妙なものだ。


「ど、どうやって飛べば」


「わたしに聞かれても困ります」


「ですよね」


 シロウは情けない声を出し、それから恐る恐る皮膜の付け根に触れた。ぴくりと動く。自分でも驚いた顔をする。少し力を込めると、背中のそれがばさりと広がった。


 広間の空気が大きく揺れ、魔石の光が揺らめく。


「うわ」


 広げた本人が一番驚いていた。


「大きい」


「今さらですか」


「今さらです……」


 それから何度か羽ばたくまねをしては、風だけ起こして終わる。地面から浮きもしない。本人は額に汗を浮かべ、だんだん深刻な顔になっていった。


「やっぱり無理かも」


「その体で諦めが早すぎますね」


「だって初めてで」


「初めてでも飛べるなら飛べるでしょう」


「無茶言いますね」


 ぶつぶつ言いながら、シロウはもう一度背中に力を入れた。今度は羽ばたきが少し強くなる。突風のような風が広間に走り、リテュシアの髪と衣を大きく揺らした。次の瞬間、シロウの体が床から少し浮いた。


「え」


 本人が声を上げる。


 そのまま勢い余って斜めに進み、壁へぶつかりかけて慌てて腕をついた。石が砕けるような音がしたが、彼の方は無事だった。


「怖っ」


「飛べましたね」


「飛べましたけど怖いです」


 涙声で言う。情けない。


 だが十分だ。ここから離れられる。


 リテュシアは近づき、彼を見上げた。


「わたしを抱えて飛べますか」


「抱えて」


「ええ」


「落としたら」


「だから落とさないでください」


 シロウは返す言葉を失い、しばらく迷った末に、まるで高価な荷物でも持ち上げるような慎重さで腕を伸ばしてきた。


「失礼します」


「どうぞ」


 次の瞬間、彼の長い腕がリテュシアの背と膝裏に回る。


 持ち上げられる感覚は意外なほど安定していた。腕そのものが太く力強い。抱き上げられた姿勢は不本意だが、実用だけ考えれば悪くない。


 シロウの方は逆に緊張しきっていた。腕の筋肉が固く、息が浅い。


「り、リテュシアさん、苦しくないですか」


「生贄にその確認をするのですか」


「すみません」


「運ぶだけなら十分です」


「はい……」


 彼は広間の出口を見て、大きく息を吸った。尻尾の先まで緊張しているのが分かる。


 そして一気に羽ばたいた。


 風が渦を巻き、石の埃が舞う。身体が浮く。次にはもう、床から完全に離れていた。


 シロウが小さく悲鳴を呑み込む。


 通路へ入り、暗い迷宮を進む。飛ぶというより、半ば跳ねるような、不安定な前進だった。何度か壁や天井に近づきすぎ、そのたびにシロウの腕に力がこもった。だが落ちはしない。彼は必死に耐えていた。


 湿った空気が後ろへ流れていく。


 やがて、通路の先に外光が見えた。


 迷宮の外。


 光は細い線から一気に広がり、石の闇を押し流す。シロウはその眩しさに目を細めた。速度が落ちる。出ること自体に恐れがあるのだろう。


「そのままです」


 リテュシアが言うと、彼は歯を食いしばって外へ飛び出した。


 風が変わる。


 重く湿った迷宮の空気ではなく、冷たく乾いた外気が肌を撫でた。空は高く、薄い雲が流れている。森が広がり、その先に街道、さらに遠くへ人の営みが続いていた。


 シロウは完全に固まっていた。


「わ、わ、わ」


「落ち着いてください」


「無理です」


 だが羽ばたきは止めない。恐怖で半ば硬直しながらも、彼は必死に前へ進んだ。


 街の近くまで行くには時間がかかった。まっすぐ飛べず、何度か高度が上下し、そのたびにシロウが「すみません」と謝る。リテュシアは黙っていた。今ここで励ましても何の意味もない。必要なのは到着だけだ。


 ようやく、街が見える位置まで来た頃には、シロウは息を切らしていた。石壁に囲まれた大きめの街。その手前に森があり、人目の少なそうな場所がある。


「あの辺りへ」


 リテュシアが指すと、シロウは言われるまま木々の濃い方へ降下した。


 地面に着いた瞬間、彼は膝から崩れ落ちる。


「死ぬかと思った……」


「生きています」


「生きてますけど……」


 木漏れ日のまだらな地面に両手をつき、しばらく荒く息をしていた。背の皮膜も尾もぐったりしている。


 リテュシアは街の方へ視線を向ける。ここからなら急げば日が落ちる前に出入りできる。今のうちに必要なものを揃えるべきだった。


「シロウ。ここで待っていてください」


 彼が顔を上げる。


「え」


「わたしは街へ行きます」


「街」


「服も道具も必要です。このままではあなたを連れて入れません」


 シロウは街の方を見て、それから自分を見下ろした。破れた服、むき出しの筋肉、爪、尾。理解したらしい。


「そ、そうですよね」


「すぐ戻ります」


「すぐ」


「ええ」


 だが彼はなお不安そうだった。森の奥を見回し、街道の方を見て、またリテュシアを見る。


「一人で大丈夫ですか」


「あなたよりは」


「それはそうですけど」


 少し考えてから、彼は小さな声で続けた。


「ぼく、ここで待ってます。ちゃんと待ってますけど、その、ほんとに戻ってきますよね」


 その言葉に、リテュシアはわずかに目を細めた。


 自分を完全に信じている顔ではない。だが裏切られたくないという不安はある。人に置いていかれることを恐れている。数日一人で迷宮にいたのなら当然かもしれない。


「戻ります」


 短く答えると、彼はようやく頷いた。


「分かりました。待ってます」


「目立つことはしないでください」


「しません。絶対しません」


 この男なら本当に木の陰で震えながら待っていそうだ。


 リテュシアは森を抜け、街へ向かった。


 街門には荷車と人の列ができていた。農民、商人、旅人。誰もが当たり前の顔で出入りしている。生贄として育てられていた間も王都の中で一定の生活はしていたが、こうして自由に街へ出入りするのは久しい感覚だった。


 門兵の視線が一度こちらへ向いた。


 リテュシアはその視線を正面から受け、歩みを緩めない。生贄の衣装は人目を引く。だが高価な服と宝飾は、それだけで一定の身分や事情を匂わせる。門兵は少し訝しげな顔をしたものの、深くは詮索してこなかった。


 街へ入ると、石畳の上に人の声と生活の匂いが満ちていた。焼いた肉の香り、香草、酒、汗、乾いた土埃。森とは違う、人の土地の匂いだ。


 リテュシアは最初に質の良さそうな買い取り店へ向かった。


 店主は生贄の装いに目を剥いたが、金を見せる客は歓迎するらしい。奥の卓に通されると、リテュシアは耳飾りと腕の飾りの一部、指輪を幾つか外して卓へ置いた。


「これを」


 店主は目を細め、ひとつひとつ確かめる。舌打ちも歓声も上げないのは商売人として悪くない。だが査定額を低く見積もろうとする気配はあった。


 リテュシアはそれを見逃さない。


「その石の傷は最初からです。値を下げる理由にはなりません」


 店主の指が止まる。


「ほう」


「それとこちらは対の品です。一つ分として扱うなら別の店へ持っていきます」


 やり取りを数度重ね、必要なだけ売る。全部は売らない。残しておく方が後で効く。王国由来のものをすべて現金に変えるのは危険でもあった。


 金を受け取ると、今度は衣料と装備を扱う店を回った。


 まず自分用の服。生贄の装いは動きにくく、目立ちすぎる。色を落とした上衣と長めのスカート、動きやすい靴、外套。短剣も一振り確保する。首輪がなくなり魔力が戻った今なら多少の自衛はできるが、刃物はあった方がいい。


 問題はシロウの方だった。


 最初の衣料店では話にならなかった。並ぶ服のどれも彼の腕には細すぎる。店主に「どれほど大きいんだ」と怪しまれたので曖昧に笑って流し、次へ向かう。


 二軒目でようやく、大男向けの作業着と旅装が見つかった。とはいえそれでも完全には足りない。腕や脚は入っても丈が心許ない。だが最低限、肌を隠す助けにはなる。


 最後に大きなローブを買う。厚手で長く、体の線を隠しやすいもの。頭からすっぽり被れば、顔もかなり隠せる。門兵や宿の主人を誤魔化すならこれが要る。


 買い物を終えた頃には日が少し傾き始めていた。


 リテュシアは荷物を抱え、街を出る。門を抜ける足は速かった。逃げるつもりはない。だが利用価値の高い悪魔を森に残したまま、あまり長く離れる気にもなれなかった。


 森へ戻ると、シロウは本当に待っていた。


 大木の陰に身を縮めるように座り込み、膝を抱えている。その巨体では隠れきれていないのだが、本人は必死で気配を消しているつもりらしい。リテュシアの姿を見るなり、顔がぱっと明るくなった。


「リテュシアさん」


 立ち上がろうとして枝に頭をぶつける。鈍い音がしたが、痛そうに頭を押さえるだけで済んでいる。


「お待たせしました」


「よかった……」


 心底そう思っている声だった。


 リテュシアは荷物を地面へ下ろした。


「服を買ってきました。着てください」


 シロウはローブを見て、作業着を見て、自分を見た。


「入るかな」


「入らなくても着てください」


「ですよね……」


 まず下着代わりになる布を渡し、その上から作業着を着せる。案の定、腕と脚の長さが足りず、袖も裾も短い。だが破れたままよりはましだ。上からローブを被せると、体格の異様さも多少はぼやける。


「どうですか」


 シロウは自分の腕を曲げ伸ばしし、ローブの裾を見た。


「すごい。服です」


「当たり前です」


「いや、ちゃんと服着たの久しぶりで」


 その言い方に、数日間どんな格好で迷宮をうろついていたのかがよく分かる。リテュシアは頭部のフードを深く下ろし、牙が見えにくい位置を調整した。


「顔はなるべく見せないでください。口も開けすぎないように」


「はい」


「尾は」


「尾」


「ローブの中へ」


 悪戦苦闘の末、何とか尾も隠す。動くたびに裾が不自然に揺れるが、遠目なら何とかなる。


「これで」


 リテュシアは一歩下がって眺めた。


「ぎりぎり人に見えます」


「ぎりぎりなんですね」


「十分です。完璧を求める状況ではありません」


 シロウは不安そうに街の方を見た。


「ほんとに大丈夫かな」


「大丈夫でなくても行くしかありません」


 そうして二人は街へ向かった。


 門をくぐる時、シロウの歩き方は不自然なほど固かった。フードの下で呼吸が浅くなっているのが分かる。だがリテュシアが先を歩き、必要以上に話しかけなかったことで、何とか視線を集めすぎずに済んだ。


 宿は大通りから少し外れた、旅人の多い中規模の店を選んだ。目立たず、しかしあまり安っぽくもないところがいい。胡散臭い宿は余計な詮索をしてくることがある。


 主人はフードの深いシロウを訝しげに見たが、金を先に出すと態度を変えた。


「一部屋でよろしいか」


「それで」


 リテュシアが答える。シロウは横でこくこくと頷いていた。


 部屋を取ったあと、先に食堂へ降りた。宿の一階は夕食の時間で賑わい始めている。焼いた肉の匂いと、煮込んだ野菜の匂いが混ざっていた。


 シロウは席につくまでずっと緊張していた。フードを取るのも最小限、周囲の視線を気にして肩をすぼめる。その巨体でやられると逆に目立つのだが、今は言わない方がいいだろう。


 料理が運ばれてくる。


 肉と野菜の煮込み、固めのパン、焼いた芋、青菜の和え物。特別豪華ではないが、温かい食事だ。


 シロウはそれを見て、目を丸くした。


「普通のごはんだ」


「何だと思っていたのですか」


「もっとこう、血が滴る肉とか」


 言いながら自分で嫌そうな顔をする。リテュシアは少しだけ眉を上げた。


「悪魔ですからね、あなたは」


「いやでも、それは嫌です」


 彼はおそるおそる煮込みを口へ運び、次の瞬間、心底ほっとしたような顔になった。


「おいしい……」


 野菜も普通に食べる。青菜も芋も残さない。むしろ肉より先にそれらへ手が伸びていた。


 リテュシアは向かいからその様子を見ていた。


 もっと獣じみた食べ方を想像していたわけではない。だが、こうも普通に、しかも野菜を喜んで食べられると、拍子抜けする。


「野菜、お好きなのですか」


 訊くと、シロウは少し恥ずかしそうに頷いた。


「好きです。ちゃんとしたごはん、久しぶりで」


 その答えが妙に幼く聞こえた。


 食事を終え、部屋へ戻る頃には外もすっかり暗くなっていた。


 部屋は二人で使うには広くないが、寝るだけなら十分だ。木の机、椅子、大きめの寝台が一つ。窓は小さい。扉の鍵は簡素だが、宿としては普通だ。


 シロウは部屋へ入るなり緊張を少し緩めた。外ではずっと気を張っていたのだろう。ローブのフードを上げ直しながら、深く息を吐く。


「なんとか、入れましたね……」


「入れました」


 リテュシアは扉を閉め、鍵を掛けた。


 ここからが本題だった。


 この男は使える。圧倒的に。だが善良で臆病で、しかも素直だ。繋ぎ止めるなら、できるだけ早い方がいい。恩だけでは弱い。情もまだ浅い。ならば分かりやすい鎖を掛けるべきだ。


 リテュシアはシロウへ向き直った。


「シロウ」


「はい」


「あなたにお願いがあります」


 彼はすぐ姿勢を正す。


「何でしょう」


 リテュシアは何も言わず、外套の紐に手をかけた。


 布が肩から落ちる。続けて上衣の留め具を外す。シロウが凍りついたのが気配で分かった。


「り、リテュシアさん」


 構わず衣を脱いでいく。生贄の装いを脱ぎ捨て、新しく買った服にもまだ着替えない。白い肌が少しずつ露わになる。長い髪が背へ流れ、宝飾を外した首筋は細い。


 シロウは二歩ほど後ずさり、ついには後ろを向いた。


「だ、ダメです」


 両手で顔まで覆っている。


「好きになった相手じゃないと絶対にそういったことをしてはいけません」


 耳まで真っ赤だった。声も裏返っている。


 リテュシアはなおも淡々と言う。


「わたしはあなたに救われました」


「それとこれとは別です」


「命の恩人です」


「それでも別です」


「わたしを生贄から解放したのもあなたです」


「別です」


 振り返らない。徹底している。


 リテュシアは少し歩み寄った。


「わたしはあなたに感謝しています」


「ぼくも感謝されるのはうれしいですけど」


 声がひどく苦しそうだ。


「でも、だからってそういう形は」


「では、どういう形なら」


「それは」


 言葉に詰まる。考えていなかったのだろう。


 リテュシアはさらに追い打ちをかける。


「あなたはわたしを助け、ここまで連れてきてくださいました。わたしにはそれに報いるものが多くありません」


「あります」


「何がですか」


「その、いろいろ」


「曖昧ですね」


「曖昧でもあります」


 振り返らないまま必死で答えるさまが、いっそ哀れだった。


「リテュシアさんには感謝してますし、すごく綺麗だと思います」


 そこまでは言うのか、とリテュシアは内心で少しだけ感心した。


「ですが」


 シロウは一度強く息を吸った。


「お互いをもっと知らないとダメです」


 真っ直ぐな声だった。怯えてはいても、芯だけは折れない。そこがこの男の面倒なところでもあり、扱いどころでもある。


 これ以上押しても逆効果か。


 リテュシアはそこでようやく引くことにした。


「これでも処女なんですよ」


 何気ない調子で言うと、シロウの肩が跳ねた。


「なら、もっと自分を大事にしてください」


 即座に返ってくる。


 リテュシアは思わず心の中で笑った。


 悪魔に倫理観を諭されるとは思わなかった。しかもこの男、善意以外の色がほとんど混ざっていない。


「もう服を着ました」


 そう言うと、シロウは「ほんとですか」と小さく聞き返し、そろそろと振り返った。


 当然、嘘だ。


 真正面から目が合う。


 シロウの顔がみるみるうちに熱を持っていくのが分かった。耳だけでなく首元まで赤い。


「リテュシアさん」


 半ば悲鳴だった。


「分かりました、分かりました」


 リテュシアはそこでようやく新しい服を手に取り、今度は本当に身につけ始めた。シロウの目の前で。彼はまた後ろを向くこともできず、視線の置き場を失って天井や床を行き来させている。


 上衣を着て、紐を結び、髪を払い、スカートを整える。動きやすい衣服は生贄の装いよりずっと軽かった。


「これでよろしいですか」


「最初からそうしてください」


「面白い反応でしたので」


「面白がらないでください」


 本気で困っている。


 リテュシアは寝台の縁に腰を下ろした。


「一つの部屋に泊まるのは構わないでしょう」


 シロウはまだ赤い顔のまま、何とか頷いた。


「それは構いませんが」


「が」


「着替える時は必ず言ってください」


「また見たいんですか」


「違います」


 即答だった。


「ちゃんと後ろを向いて目を閉じます」


 その答えに、リテュシアはつい口元がわずかに緩みそうになるのを抑える。


「はいはい。それでは何もしないなら、もう休みましょう」


 シロウはなお何か言いたげだったが、結局それ以上は口にしなかった。自分もかなり疲れているのだろう。飛行、街、食事、宿。今日一日だけで彼には刺激が多すぎた。


 灯りを少し落とす。


 窓の外からは、遠くの酔客の声と馬車の車輪の音がかすかに聞こえてくる。人の街の夜だ。迷宮の沈黙とは違う、温度のある騒がしさがあった。


 シロウは寝台の端にできるだけ体を寄せ、こちらとの距離を取ろうとしている。その巨体でやられると、逆に窮屈そうだった。


「おやすみなさい」


 彼が小さな声で言った。


「おやすみなさい」


 リテュシアも返す。


 そのやり取りが終わると、部屋は静かになった。


 天井を見上げる。


 こんなふうに誰かと同じ部屋で眠るのは久しぶりだった。命令でも監視でもなく、ただ夜を越すために。生贄として飾られ、差し出されるだけだった自分に、こうした夜が訪れるとは思っていなかった。


 隣では、シロウの呼吸が少しずつ落ち着いていく。大きな体のくせに寝息は意外と静かだ。


 利用する。


 その方針は変わらない。


 変える理由もない。


 それでも、先ほどの「おやすみなさい」が胸の内に小さく残っているのを、リテュシアは無視しきれなかった。


 迷宮を出て、人の街へ入り、宿の寝台に横になる。


 当たり前のようで、当たり前ではない夜だった。


 リテュシアは目を閉じる。


 明日からどう動くかは、もう決まっている。


 だが今だけは、体からゆっくり力を抜いた。


 久しぶりの夜の挨拶が、思いのほか心を温めていた。

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