第十一話 二人がかりでお風呂で洗われ少し傷ついた日の話
宿の部屋へ戻った瞬間、シロウはその場で肩を落とした。
扉が閉まる。外のざわめきが遠のく。ようやく人の目から外れたせいか、張っていた糸が一気に緩んだのだろう。背中の皮膜を畳みきる前に、彼は壁へ寄りかかるようにして深く息を吐いた。
「つ、疲れました……」
その声は、森へ向かう時よりもさらに弱っていた。
リテュシアはそんなシロウを一瞥し、すぐに部屋の中を見渡した。窓の鍵。卓の位置。荷物の置き方。いつものように淡々と確認していく。その横でユーナは遠慮なく椅子へ腰を下ろし、部屋を見回して感心したように頷いた。
「へえ、思ったよりちゃんとした宿だね」
「宿に求めるものは、見栄えより安全です」
リテュシアが素っ気なく返す。
「うんうん、そういうの大事」
ユーナは軽い。軽いくせに、勝手に居座ることに何の迷いもない。その様子に、シロウは壁に寄りかかったまま、じっとりした目を向けた。
「帰らないんですか……」
「帰るよ。そのうち」
「そのうちって何ですか」
「そのうちはそのうち」
話にならない。
シロウがげんなりしていると、不意に腹が鳴った。
思いのほか大きな音だった。
一瞬、部屋が静まり返る。
シロウは顔を伏せた。
「……今のは聞かなかったことにしてください」
「無理ですね」
リテュシアは即答した。
ユーナはぱっと顔を上げた。
「お腹すいてるじゃん。じゃあ先にごはんにしよう」
「なぜあなたが決めるんですか」
「だって大事でしょ」
そう言ってユーナは勝手に卓へ身を乗り出した。手伝う気はあるのかないのか分からないが、邪魔をする気だけはなさそうだ。リテュシアは少し考え、それから手際よく食事の支度を始めた。持ち帰ったものを並べるだけの簡素な食事だが、温かい匂いが広がると、それだけで空気が少しやわらぐ。
シロウはようやく壁から離れ、卓についた。
座った瞬間から、ユーナの視線がずっと自分に向いていることに気づく。
「……何ですか」
「いや、気になるなって」
「何がですか」
「何を食べるのか。どれくらい食べるのか。どう食べるのか」
「普通です」
「普通って便利な言葉だねえ」
にこにこと笑いながら、ユーナはシロウの皿を見る。シロウは落ち着かなくなって少し姿勢をずらしたが、そのぶんユーナの視線もずれるだけだった。
リテュシアが皿を置きながら言う。
「食べながら見るのをやめてください。行儀が悪いです」
「見てるだけだよ」
「それが問題です」
ユーナは口を尖らせたが、視線はやめなかった。
食事が始まる。
シロウは最初こそぎこちなかったが、一口食べると少しだけ表情が緩んだ。温かいものが腹に入ると、緊張で固まっていた内側がほどけていく。街でいきなり魔道具を撃たれ、森で知らない話を山ほど聞かされ、さらに飛んで戻ってきたのだ。疲れていない方がおかしい。
ユーナはそんなシロウを見ながら、箸を動かす手元まで観察している。
「好物って何」
「え」
「好きな食べ物」
「……よく分かりません」
「分からないの」
「考えたことがあんまりないです」
それは本当だった。迷宮に来てからは食べられるものを食べるだけで精一杯だったし、その前もごく普通の学生だった。好物を熱心に語るような生活ではなかった。
「料理は好きなのに」
「作るのが好きなのと、好きなものが決まってるのは別です」
「へえ」
ユーナはますます面白そうだった。
シロウが少しずつ料理を口に運ぶたび、ユーナの目が動く。飲み込む様子まで見られている気がして、シロウはだんだん居心地が悪くなってきた。
「そんなに見られると食べにくいです」
「ごめんごめん。でも、ほんと興味深くて」
「研究対象みたいに言わないでください」
「研究対象だからね」
「本人の前で言いますか普通」
ユーナは悪びれない。
リテュシアはそのやり取りを聞き流しながら静かに食べていたが、不意にユーナが何でもない顔で口を開いた。
「シロウくん、君ってうんこする?」
空気が止まった。
シロウの動きが完全に止まる。
リテュシアは箸を置き、静かにユーナを見た。その目はひどく冷たい。
「食事中です」
「そうだけど、今の話題だから」
「今の話題ではありません」
シロウも完全に固まっていた。口を半端に開けたまま、しばらく言葉が出ない。
「何で今それ聞くんですか……」
「だって重要だよ。食べてるところ見てたら気になったし」
「気にしないでください」
「いや、でもさ」
ユーナはそこで首を傾げる。
「逆に聞くけど、したことある?」
シロウは反射的に否定しかけて、止まった。
考える。
迷宮で目覚めてから、ここまでの日々を順に辿る。
食べたことはある。寝たこともある。風呂にも入った。けれど。
「……ない、です」
小さく答えると、ユーナの目が見開かれた。
「やっぱり!」
「やっぱりじゃありません」
リテュシアが即座に切る。
だがユーナは机に身を乗り出したまま、興奮を隠せない。
「ほぼ完全変換だ。食べたものをかなり効率よく魔力に回してるんだよ。だから排泄がほとんど無いか、そもそも必要がない」
シロウは自分の皿を見た。
言われてみれば、妙に納得してしまうところがあるのが嫌だった。
リテュシアが淡々と言う。
「その話をするのは食事のあとにしてください」
「そんなに嫌?」
「嫌です」
「シロウくんは」
「嫌です!」
即答だった。
ユーナは少しだけ肩をすくめたが、引き下がる気はまるでない。
「ちなみにリテュシアちゃんは?」
「ちなみに、とは」
「そういうの」
ユーナが曖昧に手を振る。
リテュシアは何でもない顔でスープを一口飲み、それから言った。
「美しいエルフもそのようなものはありません」
今度はユーナまで止まった。
シロウも止まる。
無言が落ちる。
リテュシアだけが平然としていた。
「……そうなんですか」
シロウがようやく口を開く。
「そうです」
「へえ」
ユーナは妙に感心したように頷いたが、それ以上突っ込む前にリテュシアが冷たく付け足した。
「これ以上この話を続けるなら、わたしは本気で嫌がります」
「はい」
ユーナが素直に引いたせいで、余計に調子が狂う。
食事はそのまま続いたが、シロウはしばらく箸の進みが遅かった。目の前の皿に集中しようとしても、さっきの会話が頭に残ってしまう。自分の身体について考えるのは、何だか落ち着かなかった。
それでも温かいものを食べ終えるころには、腹が満たされて少しだけ気持ちも戻ってきた。もう今日はこれで終わってほしい。静かに休みたい。そう願った直後だった。
「じゃあ次、見せて」
ユーナが立ち上がった。
「何をですか」
「色々」
「すごく嫌な予感しかしません」
シロウが椅子ごと後ろへ逃げようとするが、その前にユーナが回り込む。年の離れた子供相手ではなく、完全に面白がっている目だった。
「大丈夫だって。測るだけ」
「測るだけで大丈夫な気がしません」
「シロウくんは心配性だなあ」
「あなたが原因です」
リテュシアはしばらく黙って見ていたが、止めない。
それが余計に怖い。
ユーナの手がシロウの肩に伸びる。布の上から腕の太さを確かめるように押し、背中の皮膜の付け根を見ようとする。シロウは慌てて身をよじった。
「やめてください!」
「じっとしてて。ちゃんと見えない」
「見なくていいです!」
「見ないと分からないよ」
「分からなくていいです!」
そのやり取りのうちに、服の裾を引かれる。シロウは反射的に押さえた。
「そこはだめです!」
「最後の一枚って感じがすごいね」
「最後だからです!」
必死だった。
ユーナは面白そうに笑いながらも、無理に奪おうとはしない。ただ、それ以外のところは遠慮なく調べ始めた。腕の長さを見て、指を一本ずつ確かめ、肩幅と胸板の厚さを眺める。背後へ回って翼の形を見たかと思えば、しっぽの長さを目で追っている。
その間、シロウはずっと赤くなったり青くなったりしていた。
「……何でこんなことに」
「面白い構造してるからだよ」
「嬉しくないです」
ユーナは翼の付け根を見ながら、ひとりで何か考え込む。
「うん。この翼だけじゃ無理だね」
「何がですか」
「飛ぶの」
シロウは目を瞬かせた。
「え」
「大きさも付き方も、これだけで身体支えるには足りない。魔法使ってるはず。無意識に」
その言葉に、シロウは自分の背中を振り返るように首をひねった。けれど当然、自分ではよく見えない。
リテュシアがそこで初めて興味を見せる。
「それは確かですか」
「かなり」
「なるほど」
その一言で終わらせず、リテュシアは少し近づいた。ユーナの横から、シロウの背中を見る。いつも見てきたはずの翼なのに、そういう目では見ていなかったのだろう。
「どういう理屈ですか」
「理屈っていうか、単純な話だよ。筋肉の付き方と骨格と大きさが足りない」
「魔法で補っている」
「多分ね」
シロウはますます落ち着かない。
自分の知らないところで、自分の身体の話が進んでいく。しかも二人とも真面目な顔だ。それが余計に恥ずかしい。
「……もう終わりましたか」
「まだ」
ユーナが即答した。
「まだあるんですか」
「あるよ」
「何でですか」
「興味深いから」
身も蓋もない。
結局、しばらくのあいだ色々な場所を見られ、触られ、確かめられた。数を口に出すことはなかったが、長さだの幅だの比率だの、ユーナの中では何かが整理されているらしい。リテュシアも途中から普通に質問を挟み始めたせいで、シロウだけが置いていかれた格好になった。
ようやく解放された時には、シロウはほとんど魂が抜けたような顔になっていた。
そのまま部屋の隅へ移動し、膝を抱えるようにして座り込む。
しっぽが力なく床へ落ちた。
リテュシアはそんなシロウを見て、少しだけ目を細めた。気落ちしているのは見れば分かる。だが慰めの言葉をかける性格でもない。彼女はしばらく考え、それから実に淡々と言った。
「風呂に入ります」
シロウが顔を上げる。
「え」
「汗を流した方がいいでしょう」
「ぼくは今ちょっと」
「なおさらです」
理屈がひどい。
シロウが抗議するより早く、ユーナがぱっと顔を輝かせた。
「じゃあ一緒に洗う!」
「いやです!」
今度は本当に早かった。
「何で」
「何でじゃありません!」
「大丈夫大丈夫。男の子なんて洗い慣れてるから」
さらっと言う。
シロウは言葉を失った。
「何を言ってるんですか」
「子育て経験あるし、前世で」
「そういう問題ではないです」
リテュシアはほんの少しだけ考えたようだったが、結局止めなかった。
「手早く済ませてください」
「リテュシアさん!?」
「いつまでもその状態で部屋の隅にいられても困ります」
正論だった。
正論だが冷たい。
シロウは本気で逃げようとしたが、二人がかりでは無理だった。ずるずると風呂場へ連れていかれる。
湯気のこもる狭い空間で、シロウは最初から不利だった。
リテュシアは慣れた手つきでシロウに湯をかける。これまでもそうしてきたように、必要なところを手早く洗うつもりだったのだろう。ところがユーナは、その手順を見た途端に口を挟んだ。
「それじゃ足りない」
「足ります」
「足りてないよ。こういうのはもっと丁寧に」
「丁寧にする必要はありません」
「あるある」
言いながらユーナがしゃしゃり出る。
シロウは既に限界だった。
「ちょ、ちょっと待ってください」
「待たないよ」
「待ってください!」
「大丈夫だって」
「その言葉が一番信用できません!」
悲鳴に近い声が風呂場に響く。
だが二人とも手を止めない。リテュシアはリテュシアで、ユーナに指摘されるたび微妙に手順を変えていく。素直に吸収しているのが余計にひどい。
「そこはいつもわたしが洗っています」
「そこだけじゃなくて、こういう所もだよ」
「なるほど」
「なるほど、じゃないです!」
シロウは真っ赤になりながら抵抗するが、暴れるほどの度胸はない。何より、乱暴に振りほどいてしまっては二人を傷つけるかもしれないという考えが先に立つ。そういうところが、こういう時に限って足を引っ張る。
結局、全身を隅々まで洗われることになった。
終わるころには、シロウは完全に目が虚ろになっていた。
部屋へ戻ると、そのまま真っ直ぐ隅へ行く。
体育座りになり、額を膝に押しつける。しっぽもぺたりと床へ落ちて、いつもの落ち着きのない動きが全くない。
リテュシアは髪を拭きながら、その様子を見た。
「そんなに気にすることではありません」
シロウは答えない。
ユーナが卓の方で笑いを堪えている。
リテュシアは腕を組み、静かに言った。
「わたしのような美しいエルフに洗われれば、男なら誰でも喜ぶはずです」
謎の自信に満ちた言い方だった。
シロウはぴくりとも動かない。
返事すらない。
その沈黙に、ユーナが吹き出した。
「リテュシアちゃん、それ今言うんだ」
「事実です」
「へえ」
ユーナは面白そうに目を細める。
リテュシアは何も揺らがない。自分の美しさを疑っていない顔だった。その自信だけは本当にぶれない。
「次はわたしです」
そう言ってリテュシアが立ち上がる。
当然のようにユーナも立った。
「じゃあ私も行く」
リテュシアが初めて少しだけ眉を寄せる。
「なぜですか」
「洗うため」
「必要ありません」
「大丈夫大丈夫。女の子も洗い慣れてるから」
シロウが膝を抱えたまま顔を上げた。
何となく嫌な予感がする。
だが止める理由も勇気もない。何より、さっき自分があれだけやられた直後だ。少しだけ、ほんの少しだけだが、妙な公平感のようなものが胸の隅にあった。
風呂場の向こうで、水音がする。
ユーナの明るい声。
リテュシアの短い返答。
少しして、その返答が一瞬だけ途切れた。
シロウは思わず耳を澄ませる。
だが具体的なことは聞こえない。ただ、ユーナが楽しそうに喋り、リテュシアが無言になる瞬間が何度かあった。
やがて二人が戻ってくる。
リテュシアはいつも通り整った顔をしていた。頬も染まっていないし、歩き方にも乱れはない。だがよく見ると、髪を拭く手つきが少しだけ早い。
ユーナは妙に満足げだった。
「いやあ、すっきりしたね」
「あなたが満足する必要はありません」
「だって楽しかったし」
リテュシアはそれ以上返さない。
シロウは膝を抱えたまま二人を見比べた。さっきまで自分が受けていた羞恥と疲労はまだ残っているのに、今度は今度で何とも言えない空気が漂っている。
ユーナはその空気ごと気にしない。部屋の卓へ近づき、懐から二つのものを取り出した。
「じゃ、そろそろ帰るね」
机に置かれたのは、見覚えのある魔道具と、もう一つ、首輪型の魔道具だった。
シロウが顔をしかめる。
「それ、街で撃ってきたやつですよね」
「そうそう」
「そうそう、じゃないです」
「おわびとお礼」
あっけらかんとしている。
ユーナは首輪型の方を指でつついた。
「こっちは認識を少しぼかすやつ。着けてれば、多少は顔をごまかせる」
リテュシアがすぐに問い返す。
「顔そのものが変わるのですか」
「そこまでは無理。形が変わるわけじゃないよ。ただ、見た相手の認識が少しずれる。なんか印象に残りにくいとか、違和感を拾いにくいとか、そのくらい」
「万能ではないのですね」
「万能だったら私が欲しいよ」
ユーナは笑って肩をすくめた。
それから扉の前まで行き、振り返る。
シロウはまだ膝を抱えたまま、リテュシアは卓の上の魔道具を見ている。ユーナはその二人を順に見て、最後に妙に気軽な声で言った。
「色々経験した身としては、ちゃんと色々ほぐさないと体を痛めるから気をつけてね。リテュシアちゃん」
一瞬、部屋が静まった。
リテュシアは意味を理解していない顔をする。
「は?」
短い声が漏れる。
ユーナはにこにこと手を振るだけだった。
「じゃあね」
扉が開く。
閉まる。
足音が遠ざかる。
そのあと、少し遅れてリテュシアの顔が赤くなった。
ほんのわずかではない。はっきり分かるほど赤い。
シロウはぽかんと口を開けた。
「……何の話ですか」
リテュシアはすぐには答えなかった。
卓に置かれた魔道具を見つめ、それから視線を逸らす。耳まで赤い。
「知る必要はありません」
「でも」
「ありません」
ぴしゃりと言い切る。
シロウはますます分からなくなった。
リテュシアがあからさまに動揺しているのが珍しくて、余計に戸惑う。だが追及していい空気ではないのも分かる。結局、聞きたいのに聞けず、膝を抱え直した。
しばらく沈黙が続く。
湯上がりの熱と、気まずさと、理解の差が部屋の中に滞っていた。
やがてリテュシアが小さく息を吐く。
「……今日はもう休みます」
「はい」
シロウも素直に頷いた。
本当に色々ありすぎた。
身体も心も、変な疲れ方をしている。
けれど、隅に座り込んだままのシロウを見て、リテュシアは少しだけ目を細めた。
「シロウ」
「何ですか」
「そこにずっといても仕方がないでしょう」
「……少し心が傷付いてるので」
正直に言うと、リテュシアは一瞬だけ言葉に詰まった。
それから、珍しくほんのわずかに視線を逸らす。
「そうですか」
それだけだった。
慰めはない。甘い言葉もない。だが否定もしない。
シロウはその短い返事を聞いて、少しだけ肩の力を抜いた。リテュシアなりに、今はそれで十分なのだろう。たぶん。
部屋の灯りが揺れる。
卓の上には、ユーナが残していった二つの魔道具。
風呂の熱はまだ残っているのに、部屋の隅で体育座りをしたままの少年悪魔のまわりだけ、妙にしょんぼりした空気が漂っていた。
その夜、シロウは布団に入るまでずっと、何となくしっぽの置き場に困っていた。
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