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第9章 失われた聖域

自室のドアを開けた瞬間、悠斗は硬直した。


「……は?」


一回ドアを閉め、廊下の角を確認してから、もう一度開ける。


(……座標エラー。いや、部屋の間違いじゃない。……な、なんだこれ!?)


網膜が捉えた情報は、脳内のデータベースと1ミリも合致しなかった。壁一面の巨大な収納棚、プロ仕様のスポットライト、中央に鎮座する特注の巨大な作業テーブル……。どこからどう見ても、そこは洗練されたガチのアトリエだった。


(……俺のベッドは!? 抱き枕代わりのクッションは!?どこに消えたんだよ!!)


呆然と立ち尽くす悠斗は、今朝の不穏な空気を思い出し、一階のキッチンへ脱兎のごとく駆け下りた。


「野村さん!僕の部屋は……」

「あら、蓮様。お帰りなさい。新しいお部屋、使い勝手はどうかしら?」

「え、どういうこと!? 俺の荷物が丸ごと消えてるんですけど!」


野村さんは困ったような、それでいて楽しそうな顔で答えた。


「ああ、お荷物ならすべてお隣の鷹宮様の寝室に運び込みましたよ。」

「……はい?」

「ええ。鷹宮様から直接ご指示があったんです。『蓮の創作活動に、今の部屋は狭すぎる。生活拠点は私の部屋へ移せ』と」


悠斗の脳内で、何かが音を立ててクラッシュした。


(うわ、出たよ。独裁スイッチ……! 創作空間を確保するために、居住スペースを自分のテリトリーに強制統合かよ! これ、ただの引越しじゃねーぞ。完全なる『捕獲』だろ!)


「野村さん、今すぐ戻して! 僕、あっちの部屋で寝るとか無理……!」

「……不満か。蓮」


背後から、心臓を直接掴まれるような低い声が響いた。

振り返ると、いつの間にか鷹宮が立っている。その無表情な瞳は、逃げ場を失った悠斗をじっくりと検品するように眺めていた。


「鷹宮さん!これ、コンプライアンス的にどうなんですか!? なんで僕の許可なく、部屋を全改装してんだよ!」

「……以前のお前なら、そのスペースで十分だったはずだ」


鷹宮が静かに言葉を遮る。


「だが、今のお前は違う。……制作を始める際、お前は驚くほど広範囲に、寸分の狂いもなく道具を並べる。……今の部屋の広さでは、その奇妙な几帳面さを収容しきれない」


(っ……!蓮の描き方じゃなくて、俺がメスや持針器を並べるスペースが必要だって、見抜かれてんのかよ!?怖っ)


無意識に行っていた「外科医の術前準備」のような癖を、鷹宮は才能の進化と勘違いし、勝手に物理環境をアップデートしていたのだ。


「野村さん。蓮の荷物はすべて、私の隣に整理した。今夜から、蓮の生活リズムは私が管理する。……これ以上の問答は不要だ」


(ダメだ、ロジックが1ミリも通じねー……! この人、俺のバイタルが限界なのを無視して、完全に飼育体制に入りやがった!)


悠斗の指先が微かに震え始める。 もう、このまま「叔父さんのベッド」へ連行される未来しか見えない。脚をガチガチに固めている「ホクロ隠しのテープ」を、叔父さんの目の前で剥がされる。その映像が脳裏にフラッシュバックし、悠斗の思考回路が焼き切れた。


「……わ、分かりました!まだ制作の続きがありますし、一旦アトリエに戻ります!」


悠斗は逃げるように階段を駆け上がり、新調されたばかりのアトリエに飛び込むと、内側から勢いよく鍵をかけた。

ガチャン!

金属音が、静かな廊下に虚しく響く。 悠斗はドアに背中を預けたまま、ずるずると床に座り込んだ。呼吸が浅く、肺の奥がひりつく。


(……はぁ、はぁ……よし、ひとまず隔離完了。次は、この『爆弾』を処理するのが先決だ)


悠斗は荒い呼吸を整えながら、アトリエ中央に鎮座する作業テーブルへと向かった。 外科手術の準備でもするかのような手際で、防汚シートの上に足を投げ出す。 ズボンの裾をまくり上げると、そこには昼間の会食からずっと下半身を締め付け続けていた医療用テープが痛々しく食い込んでいた。


(……くっ、長時間圧迫しすぎた。うっ、これ、慎重に剥がさないと、皮膚表面の角質層ごと持っていかれる……!)


悠斗はアトリエの棚から使い慣れたメスを手に取る。最新のスポットライトが、まるで手術室の無影灯のように、テープと皮膚の境界線を冷酷に照らし出す。


「……よし、剥離開始」


精神を研ぎ澄ませ、ミリ単位の精度でテープの端に刃先を入れる。 粘着剤が皮膚を引っ張る鈍い痛みが走るが、悠斗は眉一つ動かさない。むしろ、この痛みこそが、今この瞬間、自分が「蓮」という芸術家ではなく、一人の「医学生」であることを再確認させてくれる、唯一の救いのように感じられた。


(……めるの言った通りだ。叔父さんの視線は、もはや『外側の作品』じゃなくて、俺の『中身』を解剖したがってる……。見つかったら最後、ホクロの有無どころか、俺の全人生が叔父さんの檻にパッキングされる……)


じり、じりと、皮膚から粘着テープが離れていく。ようやく全てのテープを除去し終えたとき、太腿には赤く爛れた跡が痛々しく残っていた。


(……酷いな。これ、後でちゃんと抗炎症薬を塗っておかないと、接触皮膚炎になるぞ。……っていうか、このゴミ、どうやって処理すんだ? 叔父さんがゴミ箱までチェックしない保証なんて……!)


その時だった。

ガチャンと悠斗がかけたはずの鍵が外側から解錠される音がした。


(……え? 鍵、かけたよな!?)


絶望的な速度でドアノブが回る。 悠斗は慌ててズボンの裾を下ろそうとしたが、赤く腫れた脚と、散らばったテープの残骸を隠すには、あまりにも時間が足りなかった。


「……何をしている」


氷点下の響きを伴う声とともに、ドアが静かに開かれた。 立っていたのは、やはり鷹宮だった。その手にはスペアキーが握られており、悠斗が必死に確保したはずの隔離空間は、一瞬で崩壊した。


(終わった……!術野が、完全に露出してる……!)


悠斗の目の前には、まだ赤く腫れた太腿と、剥がしたばかりの粘着テープの残骸、そして画材用メスが散らばっている。 鷹宮の視線が、悠斗の露わになった脚から、不自然なゴミの山へとゆっくり移動する。その瞳の温度が、疑念によってさらに一段階下がったのが分かった。


「その脚、そしてこの異物は何だ。蓮、説明しろ」


一歩、鷹宮が踏み込む。悠斗の脳内データベースがフル稼働し、コンマ数秒で一つの大嘘を叩き出した。


「さ、触らないでください!! 今、大事な工程なんですよ!!」


悠斗はとっさに脱ぎ捨てたテープの残骸をガシッと掴むと、作業テーブルの上にあった粘土塊に無理やり押し付けた。


「……工程だと?」

「そうです! ……今、僕の中に新しいインスピレーションが湧いているんです。この、……人間の皮膚を拘束していた『束縛の記憶』を、作品に練り込むっていう、前衛的な手法!」


悠斗は震える指先で、ぐちゃぐちゃのテープを芸術品っぽく芸術的に配置してみせた。


「この赤みも、創作に伴う高揚感ですよ。自分を追い込まないと、あんな『剥き出しの執着』なんて描けない……」


(頼む、信じろ!芸術家の奇行なら納得するはずだ……!やべー、俺の今の心拍数は、心室細動寸前だけどな!)


「……屁理屈はいい。来い」

「わっ、ちょっと、鷹宮さん!?」


悠斗の言い訳を切り捨てるように、鷹宮がその細い手首を掴んだ。 抵抗する間もなく、アトリエから連れ出される。辿り着いたのは、廊下の突き当たり_「叔父さんの部屋」という、悠斗にとっては立ち入り禁止区域だ。扉が開かれ、悠斗はそのままベッドへと押し込まれた。


(ひっ……! な、なんだ!? 嘘がバレて解剖されるのか? それとも、ついに『中身ごと檻に引き摺り込む』っていうめるの予言が執行されるのか……!?)


恐怖で身を強まらせる悠斗の横で、鷹宮は無言のまま救急箱を取り出した。そして、悠斗のズボンの裾を迷いのない動作で膝上まで捲り上げる。冷たい空気が、赤く爛れた肌に触れてヒリついた。


「……あ、あの、鷹宮さん。これくらい、自分で……」

「黙っていろ。お前の自己管理が信用できないから、こうなっている」


鷹宮が指先に薬を取り、悠斗の太腿に触れた。 驚くほど温かく、その動作は外科医の処置よりもずっと丁寧で、慈しむような質感を持っていた。


(……え。何これ、ただの治療……?)


鷹宮が伏せたまつ毛を揺らしながら、悠斗の傷跡を熱心に見つめている。

静まり返った寝室の中、至近距離で見る鷹宮の顔は、これまでは「家族」としてしか認識していなかった、悠斗が知っている「叔父さん」とは明らかに違っていた。

その色気に気付いた瞬間、悠斗の脳内がエラー音を鳴らし、全身の毛穴が逆立つような感覚に襲われた。



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