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第8章 歪んだベクトル

車窓を流れる景色が、洗練されたオフィス街から、歴史を感じさせる閑静な住宅街へと変わっていく。到着したのは、都心の喧騒を忘れさせるような、緑に囲まれた老舗料亭だった。

長い回廊を通り、案内されたのは広々とした畳敷きの個室だった。中央には、磨き抜かれた一本板の重厚なテーブルが鎮座している。


(……この座席、どう座るのが正解なんだ!? 叔父さんと黒崎さんの間に座ったら、俺、両サイドからの圧力でクラッシュ症候群起こすぞ!)


悠斗が冷や汗を流して立ち尽くしている間に、最奥の席に鷹宮が迷わず腰を下ろした。当然のようにすぐ隣の席を指し、逃げ道を塞ぐように悠斗を座らせた。


「蓮、ここへ座れ」


(ひっ……拒否権なしの強制入院かよ……!)


抗えない力で引き寄せられ、悠斗は鷹宮のすぐ隣に固定される。

対面には黒崎が座り、テーブルを挟んで鷹宮と視線を正面から衝突させる。そして黒崎の隣には、空気の層を乱すような足取りでめるが滑り込んだ。


「……ここは、空気の通り道が面白いね」


めるは、隣に座る黒崎の圧倒的なオーラなど意に介さず、床の間の花を生気のない目で見つめている。


(……叔父さん、俺をガチガチにホールドしてる……しかも黒崎さんの隣、よりによって爆弾のめるが設置されてるじゃねーか!生存確率、絶望的だろ!)


末席に控えた石橋は、この並びを見て一人で場を繋ごうと奮闘している。


「……では、この素晴らしき出会いと、新たな芸術の誕生に。乾杯」


石橋の、やや上ずった発声で会食が始まった。

緊張感で味がわからなくなりそうな悠斗の横で、石橋は必死に営業スマイルを振りまいている。


「黒崎様。先ほどのお話、改めて感激いたしました。リビング、書斎、寝室に蓮くんの作品を……。これほどの名誉はありません!」


黒崎は、シャンパングラスを傾けながら、落ち着いた声で返した。


「蓮さんの作品には、秩序だった狂気がある。私の新居は、ミニマリズムを追求した設計でね。そこに彼の『剥き出しの執着』を置くことで、空間に血が通うと確信しています。……蓮さん、もし今後もこのレベルの作品を揃えられるなら、コレクションの数をさらに増やすことも検討したい」


(ち、血が通う?ホラーすぎるだろ。……っていうか、いきなり3つ、さらに増枠!?そもそも、メスで刻んだだけのオブジェが、寝室に飾られるのかよ……!)


悠斗が圧倒されていると、隣の鷹宮から絶対零度の声が響いた。


「黒崎社長。蓮は私の管理下だ。粗製濫造はさせたくない。彼の感性を守るのが私の役目だ」


鷹宮の声は穏やかだが、その言葉の裏には、他者の介入を一切許さないという明確な警告が含まれている。それは所有物に対する強い独占欲の表れであり、悠斗を自分の視界から一歩も出さないという決意のようでもあった。

鷹宮の大きな手が、テーブルの下で、テープをガチガチに固めた悠斗の太腿を、外側から制するように強く圧迫した。


(っ……! 叔父さん、そこ、そこはダメだ!『物理防御』の境界線なんだって!……力を入れるな!剥がれたらどうすんだよ!)


その時、向かい側のめるが、湯葉を口に運びながらポツリと呟いた。


「……あ。蓮くんの脈拍が、今、不自然に跳ねた。……独裁者様から、所有権を刻み込む『圧』が伝わってるよ。」


鷹宮の手が一瞬止まり、さらに強い力で悠斗の腿を握り込んだ。


(……める!!余計なこと言うなよ! 叔父さんの握力が上がって、俺の皮膚がテープごと持っていかれるだろ!!)


悠斗は声にならない叫びを飲み込み、表情を痙攣させた。


(……やばい。この会食、時間が長くなればなるほどボロが出る!……落ち着け、俺。こういう時こそ冷静に……脳内データベースを検索しろ!『いかに目立たずにやり過ごせるか』……よっし、分かった!)


正体がバレるリスクを最小限に抑えるため、存在感を消し、可能な限り早くこの場を離脱する。導き出されたのは、箸の音・咀嚼音・嚥下音、それらの雑音を完全に殺しつつ、かつ、猛スピードで完食するという生存戦略だった。

一品目の先付が運ばれてきた瞬間、悠斗の指先は外科実習で鍛え上げた精密機械のような動きを見せ始める。雑音を一切出さず、ジェットコースターのような速度で料理を胃袋へ流し込んでいく。膳の上は、まるで最初から何も置かれていなかったかのように清々しく空になっていた。


「……あら?」


石橋が、自身の話を中断して目を丸くした。


「蓮さん……。今まであなたは、一品一品を慈しむように上品に召し上がっていた。……でも、今は違う。音を立てないどころか、スピードまで神の領域にアップデートされたみたい……! まるで、芸術そのものを『吸収』しているような気迫だわ!」


(しまっ……! 効率を重視しすぎて、逆に異常値として検出されたか……!?)


石橋の言葉に、悠斗は危うく喉を詰まらせそうになった。

隣に座る鷹宮の表情が、その浅はかな行動の裏にある「逃亡願望」をすべて見抜いたように微かに動く。そして、悠斗の太腿を制していた大きな手を静かに離し、水の入ったグラスをすーっと悠斗の前へ滑らせた。


(……え。何、今の……。水?……叔父さん、不意打ちの優しさ、心筋梗塞の原因になるって!)


「……迷いのない処理速度だ。蓮さん、あなたの内側には、私の想像を絶する『飢え』があるようだ」


対面の黒崎も、面白そうに悠斗を注視していたが、その時、隣から漏れた小さな声に視線を奪われた。


「……あ」


運ばれてきた「雲丹と湯葉のジュレ」を見た瞬間、めるの瞳はパッと見開かれた。

それまで無機質な観測装置のようだった瞳が、獲物を見つけた猫のように丸くなり、潤いを帯びる。めるは吸い寄せられるようにスプーンを口に運ぶと、恍惚とした表情を浮かべた。


「……舌の上の味蕾が、一斉にスタンディングオベーションしてる。このアミノ酸の密度、……脳内の報酬系がバグりそう」


(める、お前……。食ってる時だけは生存本能に忠実すぎるだろ。……っていうか、感想が生理学の講義になってんぞ!)


その瞬間、黒崎の眼光がスッと深くなった。

悠斗へ向けられていた視線が強制解除され、幸せそうにジュレを味わうめるへと移動していく。瞳の奥には、先ほどよりも粘り気のある光が宿った。


「不破くん、と言いましたね。……今の表現、非常に面白い。あなたのその『純粋な反応』は、訓練された批評家の言葉より、ずっと信頼に値する」


黒崎は微笑みを湛えながら、めるに語りかけ始めた。


「普段はどのようなものを好んで食べている? 君のその感性が、どのような栄養素から形成されているのか、非常に興味があるな」

「……僕は、青いお茶と、美味しいパン。あとは、魂が剥き出しになる瞬間があれば、それでいい」


めるが食事に集中しながら答えるのを、黒崎はずっと観察し続ける。会話はいつの間にか、芸術の話から「不破める」という人間を掘り起こすような尋問へと変わっていった。


(……めるが喋りだしたおかげで、こっちへの尋問が止まったぞ!ターゲットの分散成功!助かった……!)


「……石橋さん。決まりました」


黒崎がふいに石橋に顔を向けた。


「蓮さんの作品が新居に全て収まった頃、披露宴を兼ねた宴会を催します。その時は、鷹宮社長はもちろん、蓮さん。……そして、不破くん。あなたも必ず来てください。あなたの感想を、もっと近くで聞きたい」


その言葉に、鷹宮の眉がわずかに動いた。

鷹宮は、氷のような鋭い視線を黒崎に向け、これ以上の深入りを拒絶する明確な意思表示をした。しかし、黒崎はその刺すような視線を真正面から受け止め、余裕を崩さぬまま、ただ静かに口角を上げた。

黒崎の眼光が捉えているのは、鷹宮の隣の「蓮」ではなく、無心にスプーンを動かしている「める」という未知の個体だった。


(……あれ?黒崎さんって、叔父さんが心配してたほど変な人じゃないのかもな……『めるの話をもっと聞きたい』なんて言ってるし、意外と話のわかる人じゃん)


悠斗は、黒崎の関心が完全にめるへシフトしたことにも、それがより厄介な「執着」に変質したことにも気づかないまま、再び椀物を口に運んでいた。


会食が終わり、料亭の玄関先。

石橋の興奮は、もはや血圧がレッドゾーンを突破して脳内麻薬がドバドバと溢れ出しているのが見て取れるレベルだった。


「いやあ、黒崎様! 本日は本当にありがとうございました。一度に三作品、さらにその先のお話までいただけるなんて……石橋、感激のあまり言葉もございません!」


(……いや、めちゃくちゃ言葉出てんじゃねーか。石橋さん、感動のあまり側坐核が刺激されすぎて、報酬系回路がショートしてんだろ!)


石橋はそう言いながら、横で虚空を見つめているめるの手を両手で握りしめ、ブンブンと上下に振った。


「不破くん、君も最高のアドバイザーだわ! あの『魂のパッキング』というフレーズ、私、今夜は一睡もせずに繰り返すつもりよ!」


(……石橋さん、それ絶対アドレナリン中毒の症状だからな。落ち着けよ、このままだと血管切れるぞ!)


対照的に、黒崎は極めて優雅に、満足げな笑みを浮かべていた。


「石橋さん、その情熱が作品の価値を高める。……蓮さん、今日は良いものを見せてもらった。そして不破くん、君という例外に出会えたことも、私にとっては大きな収穫だ」


黒崎の視線が再び、めるを絡め取るように捉える。


「新居でのパーティー、楽しみにしていますよ。招待状は後ほど、鷹宮社長の方へお送りします」


「……あ。うん。美味しいものがあるなら、行く」


めるが素っ気なく答えるのを、黒崎はひとしきり眺めた後、自身の送迎車へと乗り込んでいった。


鷹宮の迎えの車が事務所の前に停まり、石橋がまだ興奮冷めやらぬ様子で降りていく。めるも音もなく座席から立ち上がったが、ドアを閉める直前、悠斗の方へ顔を戻した。


「……蓮くん、……その、無理やり継ぎ接ぎした『守備固め』、もうすぐ無意味になるよ。……だって、君の飼育者はもう、外側を眺めるだけじゃ満足できなくなってる。……中身ごと、自分の檻に引き摺り込むつもりだよ」


(……める? やめろ、また不吉なことを……!)


めるはそれだけ言うと、ボトルの青い液体を一口飲み、雑踏の向こうへと消えていった。

ガチャン、とドアが閉まる。車内は再び、鷹宮と悠斗だけの「密室」に戻った。


(……中身ごと、自分の檻に? ……何言ってんだあいつ。俺には、世界一安全なマイルームが待ってるんだよ……!)


空気は、行きよりもさらに重苦しい沈黙に支配されていた。

隣に座る鷹宮は、無言のまま悠斗の手首を掴み、その指先で橈骨動脈の拍動を一定のリズムで刻んでいる。


(……叔父さん、さっきから一言も喋らねーな。……まあいい。とにかく、この地獄の会食は終わった。あとは家に帰って、自分の部屋に戻るだけだ。ふかふかのベッドにダイブして、ガチガチに縫い止めたこの忌々しいテープを、速攻で解除してやるんだ……!)


窓の外、見慣れた屋敷の門が見えてきた。


(よし、着いた! 待ってろよ、俺の聖域!!)


その先に待ち受けているのが、「帰るべき場所」そのものの消失であるとは露ほども疑わず、悠斗は早く自室のドアを開けることだけを願っていた。

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