第6章 生存戦略と、一層結紮の術式
鷹宮の熱い手のひらが頭から離れ、その背中が廊下の闇に消えても、悠斗はしばらく心臓のバクバクが止まらなかった。
(……叔父さん、急に優しくなったりして……。情緒が迷走してんのは俺の方じゃねえか!)
悠斗は火照る顔を両手で叩きながら三階の部屋に戻ると、ベッドにダイブし、スマホをひっつかんだ。一人では抱えきれない。この地獄の展開を共有し、バックアップ体制を築く必要がある。
悠斗はすぐさま、【生存戦略室】という物騒な名前のグループLINEを作成し、湊とめるを招待した。
悠斗:「緊急事態!める、ごめん! 叔父さんの追求がQOLをゼロにするレベルで怖すぎて、明日のコレクターとの会食に、『めるをアドバイザーとして連れて行く』って勝手に言っちゃった!無理だったら今すぐ土下座して断るけど、頼む!助けてくれ!!」
数秒後、設計課題と心中しているはずの湊から、驚くほど速いレスポンスが返ってきた。
湊:「またお前は……。俺は図面修正で死んでるから無理だけど、遺言の代筆なら、してやる!」
(……早っ!湊のやつ、俺のピンチを察知して扁桃体が過剰反応しただろ!)
悠斗:「冷てえ!お前、友情は設計図より薄いのかよ!」
湊:「で、誰が参加するんだ?」
悠斗:「叔父さん、石橋マネ、コレクター(名前未確認)、俺、める」
湊:「うわ……出席者の殺傷能力高すぎだろ。詰んだな」
悠斗:「詰んだって言うな! 今、脳内オペ室で生存ルートの再建始めたとこなんだよ!」
める:「こんばんは。……会食?僕も行っていいの?」
悠斗:「そう!本当にごめん、める!飯は最高級の料亭らしいから、それで手を打ってくれ……!」
める:「……行く。すごく面白そう。早坂くんの魂が、恐怖と緊張で熟したザクロみたいな色……最高のデザートだね」
悠斗:「嬉しがり方が怖いよ! でもありがとう!!」
悠斗は画面を強く叩くように打ち込んだ。
悠斗:「あとこれ最重要。明日、叔父さんの前で俺のこと『早坂』って呼ぶの、絶対禁止! 何があっても『蓮』。名前で正体がバレたら、俺、その場で社会的に解剖されるからな!」
める:「えー。……『早坂』の方が、魂の形が透けて見えてて可愛いのに」
悠斗:「可愛くなくていいから! 練習しろ、今ここで練習して!」
める:「……わかったよ。……蓮。蓮くん。蓮様。……ほら、これでいい?言葉の響きが不自然に繋がれた血管みたいで、これはこれでエロいね」
悠斗:「最後の呼び方やめろ! あとエロくないから! 集合場所は石橋マネの事務所で、遅刻厳禁な!」
めるに事務所の住所を知らせ、スマホを閉じ、悠斗は深くため息をついた。
(はあ……。バックアップは一応確保した。あとは、物理的に身をどう守り切るかだ!)
鷹宮に告げられた「じっくりと確かめてやる」という言葉、具体的な時間も場所も指定されていないことが悠斗の不安を煽っていた。
翌朝。
「……よし。正中線、異常なし。一層縫合完了」
三階の自室。鏡の前で、悠斗はズボンの内側をチェックした。昨夜、演習用の持針器とナイロン糸を使い、下着のウエストゴムとスラックスのベルト通しを、外科結びでガチガチに結紮したのだ。さらに仕上げとして、医療用の高粘着性テープを、まるで緊張性気胸の脱気処置でもするかのように、隙間なく何層にも貼り重ねる。
(これならメスでもなきゃ脱がせねえ。……いや、そもそも脱がされる前提で術式を組んでる俺、……末期じゃねえか?)
悠斗は自己嫌悪に陥りながらも、蓮の端正な顔をキリッと引き締め、ぎこちない内股気味の足取りで一階へと下りた。
リビングでは、鷹宮が既に完璧な三つ揃えのスーツに身を包み、ブラックコーヒーを口にしていた。その仕草一つひとつが完璧な黄金比を保っている。
悠斗がダイニングチェアに座ると、鷹宮の鋭い視線がタブレットの端からスッと動いた。
「……遅いぞ、蓮。心拍数が上がっているようだが、寝坊の言い訳でも考えていたのか?」
「い、いえ! 芸術家としてのインスピレーションが、大動脈弓のあたりで渋滞してまして……!」
鷹宮は答えず、無言で悠斗を観察し始めた。悠斗が野村さんの特製スープを口に運び、焼き立てのパンを「うまっ」と頬張る姿を、まるで顕微鏡で細胞の活動でも見るかのような冷徹な、だがどこか執着の滲む眼差しで見つめている。
(な、なんだ……叔父さん。パン食べてるだけだろ。そんな野生動物の捕食観察みたいな目で見るなよ……!)
悠斗が満足げに完食し、空いた皿を下げようとした時、野村さんがにこやかに声をかけてきた。
「蓮様、お出かけの準備はよろしいですか?」
「あ、はい。バッチリです。」
「そうですか。では、お留守の間に、部屋の片づけを進めておきますね。……お荷物も、あちらへ移しておけばよろしいのですよね?」
「……え? 片付けるって、何を……?」
悠斗が首を傾げた、その時だった。
「蓮、準備はいいか。出るぞ」
鷹宮の冷徹な声が、ダイニングの空気を一瞬で凍りつかせた。
「あ、今、野村さんが『片付ける』って――」
「川田さんは外で待機させている」
「えっ、でも……」
「後のことは野村さんに任せておけ。……行くぞ」
鷹宮は悠斗の反論を寄せ付けない速度で、その肩を抱くようにして玄関へと促す。
「ちょ、待っ……野村さん、さっきの!」
「いってらっしゃいませ、蓮様。綺麗にしておきますからね!」
野村さんの朗らかな見送りの声が背後に遠ざかる。
(なんなんだよ一体……。部屋を片付けるって、掃除か? でも『荷物を移す』って言わなかったか、今……?)
悠斗は何の話か把握しきれないまま、釈然としない違和感を抱えて車へと押し込まれた。
「おはようございます、鷹宮様、蓮様。本日もよろしくお願いいたします」
運転席の川田さんがバックミラー越しに会釈する。
「川田さん。おはようございます。今日も長丁場になりそう……あ、お願いします。」
後部座席。
車内は、鷹宮が愛用するサンダルウッドの香りと、彼が操作するタブレットの微かな電子音だけが静かに漂っていた。
鷹宮は無言で仕事のメールや数字をチェックしている。その横顔は冷徹な経営者そのものだ。一度も悠斗を直視していない。だが、悠斗が少しでも動くたびに、タブレットを操作する指先がわずかに止まるのだ。
(叔父さん……タブレット見てるけど、絶対耳はこっちの呼吸音に集中してるだろ。俺がちょっと動くだけで、隣の空気の密度が変わるんだよ!)
悠斗は極力、窓の外を見つめ、石のように固まっていた。しかし、不意に車がカーブを切った拍子に、肩が鷹宮に触れそうになる。
「っ……!」
反射的に身を引こうとした悠斗の手首を、鷹宮の左手が電光石火の速さで掴んだ。
「……どこへ逃げる」
鷹宮の指先が、悠斗の腕の拍動を測るように、橈骨動脈のあたりをなぞる。さらに、鷹宮の膝が、悠斗の太腿にぴたりと密着した。
(っ……! 近い! 膝、近いって! 下手に動いて、服の下のテープがパキッとか音を立てたら、どうする!?……『蓮、お前、腰回りに何を隠している?』とか尋問されたら、社会的に詰むだろ!)
悠斗は冷や汗を流しながら、心の底で救急医学のテキストを暗唱し始めた。
「に、逃げてません! 遠心力に抗えなかっただけです! 物理の法則です!」
「ならば、大人しく物理の法則に従っておけ」
鷹宮は悠斗の手首を掴んだまま、視線をタブレットに戻した。掴む力は決して強くない。だが、逃げることを許さない絶対的な杭のように、悠斗をその場に繋ぎ止めている。
(……叔父さん、手、熱すぎだろ。この『手首ホールドのまま仕事続行』は、心停止レベルの負荷なんだって!)
「……蓮。今日の相手は黒崎凱だ。奴の前では、余計な挙動は控えろ」
鷹宮が低い声で囁く。その声は淡々としていたが、悠斗の手首を掴む指先には、無意識な囲い込みのような力がこもっていた。
「……?黒崎凱?そんなに危ない人なんですか?」
「危なくはない。だが、一度目をつけたものを徹底的に精査し、手元に置きたがる癖がある。……お前のような、思考が丸見えの個体は、奴の目に留まる」
(……うわ、マジか。叔父さん一人でもキツいのに……さらにもう一人「同類」が来るのかよ。……俺の生存確率、もう小数点以下じゃねーか!)
鷹宮の瞳が、タブレットから悠斗へと静かに移った。
「私のそばを離れるな。……分かったか」
まるで『お前の所有権はここにある』と釘を刺すような重苦しい眼差しに、悠斗の背筋に、恐怖とはまた違う熱い震えが走った。
(……叔父さん、目が全然笑ってねえ……。離れるなって……そもそも物理的に、叔父さんの引力が強すぎて離れられないんだよ、俺は!!)
車は石橋マネージャーの事務所が入るビルへと到着した。
窓の外には、すでにビルの前で、虚空を見つめながら怪しげな青い液体を飲んでいる不気味な青年の姿が見えた。
(……める、あいつ、よりによって今日もそのバタフライピーを飲んでる……!)
「……行くぞ」
鷹宮は悠斗の手首を離さないまま、ドアを開けた。
悠斗は、下半身をガチガチに固定したテープの違和感と、鷹宮から放たれる圧倒的な質量に挟まれながら、半ば魂が抜けかけた状態で車を降りた。
目に飛び込んできたのは、予告通り「蓮……蓮……」と小声で呪文のように名前を反復練習している、めるの姿だった。
(……める。お前、その練習、心の中でやってくれ!口に出したら余計に怪しいだろ!)
「あ、蓮くん。おはよう。……名前を呼ぶたびに、君の脳波がピクピク揺れるのが伝わってきて、すごく刺激的だよ」
鷹宮が、めるに冷徹な視線を突き刺す。
「……蓮。馴れ合うのはその程度にして、中に入るぞ」
「あ、……はい」
めるはボトルの青い液体を揺らし、すれ違いざまに無機質な声を落とした。
「……独裁者様。その視線、昨夜の『検品』の続き、まだ諦めてないんだね。ガワを剥いで、中の印を確かめるまで、君の脳内の空白は埋まらないんだ」
(……める! 叔父さんに昨夜のことを思い出させるな! 余計なリマインドは俺の命に関わるんだよ!)
悠斗は、股関節の可動域を奪われた不自然な歩き方のまま、未知の戦場へと足を踏み出した。




