第5章 防腐剤と独裁者の慈しみ
『……そのガワ、見えないところに「印」があるでしょ。それ、すごくエロいよね』
3階のアトリエ。インターホン越しに聞こえる、不破めるの無機質な声が部屋の空気を凍らせた。
掴まれていた悠斗の顎が解放され、鷹宮はインターホンモニターへ一瞬だけ冷ややかな視線を投げると、迷いのない足取りで部屋を後にした。
「……待っててください、鷹宮さん!」
悠斗は慌ててその後を追った。鷹宮は広い階段を一段飛ばしに近い速度で下りていく。数分後。重厚な門扉の前。
「……貴様、誰だ。何の用だ」
めるは、首を僅かに傾けて無機質に微笑んだ。
「こんばんは。僕は不破める。……早坂悠斗くんの、魂の主治医だよ」
(……める、お前、初手で早坂悠斗くんなんて……禁句をブッ込むなよ!俺の人生、まだリブートしたばっかなんだぞ!)
鷹宮の瞳に、一瞬でどす黒い殺気が宿る。
「……悠斗は死んだ。ふざけた妄想を口にするなら、二度と太陽を拝めない場所へ送るが」
「待って、待ってください! 叔父……じゃなくて鷹宮さん! 彼は知り合いなんです!」
悠斗が血の気の引いた顔でめるの前に割って入った。
「ほら、石橋さんに言われた『神経系』の作品……僕一人じゃ限界があって。彼はその、精神構造に詳しい『医学的資料』みたいな友人なんです! 決して怪しい者じゃ……」
(いや、怪しさの塊だけど……!)
鷹宮は、不審なものを見る目で二人を交互に見つめた。「蓮」がこれほど必死に庇う相手。そして「悠斗」の名を知る青年。
「……入れ。ただし、不審な動きを見せれば即刻叩き出す」
リビングへ通されためるは、スキップでもしそうな足取りで入館した。彼は持ってきた大きなポスターを、大理石のテーブルに広げる。
「はい、早坂くん。君の脳がストレスで腐らないように、この完璧な構造美を眺めて。この視床下部のライン、すごくセクシーだよ」
「ぶっ……!」
悠斗は吹き出し、小声で突っ込む。
「める! 余計なこと言うな! 叔父さん、あそこで般若みたいな顔してこっち見てんだろ!……しかも、これ、大学の講義で嫌ってほど見た、ただの脳の正中切断図じゃねーか!」
めるは悠斗の警告を無視し、鞄から古びた遮光瓶を取り出した。表面には、もはや呪詛か呪文にしか見えない、のたうつような筆文字の和紙が貼られている。
(……『防腐剤』って書いてある……のか? これ。どう見ても呪いのビデオに出てくる封印のお札だろ!)
瓶から注がれた液体には、何やら細かく砕かれた黒い葉のようなものがゆらゆらと浮いていた。
(うわ、なんか浮いてる! 沈殿物じゃなくて、浮遊物! 怖いよ……待てよ、これ……めるがいつも研究室で飲んでるバタフライピーじゃねーか!)
その時、背後から近づいた鷹宮が、無言でその青いコップを取り上げた。
「あ、あの! 鷹宮さん、そんな決死の覚悟で飲まなくても……! それ、見た目はアレですけど、ただのハーブティーですから! ちょっと『お湯に浸した草』みたいな味がするだけなので!」
悠斗のフォローも虚しく、鷹宮は眉一つ動かさず、一気に飲み干した。そして、氷の仮面にピキリとひびを入れた。
(あああ、飲んじゃったよ……。そりゃ不味いよね。めるの淹れ方、いつも抽出時間長すぎてエグみすごいもん。)
「……蓮。こんな得体の知れないものを飲もうとするな。お前の体は、私に管理責任があると言ったはずだ」
(……でも、あんな顔してまで俺を守ろうとして、……ちょっと可愛いとか思っちゃったじゃねえか、クソッ!)
めるは、その様子をじっと観察していた。そして、おもむろにスケッチブックを取り出し、ペンを走らせる。
「……ふふ。独裁者様の頸動脈、怒りで怒張してるね。すごく綺麗なバイオレットのオーラだ。君、いい『飼育者』に捕まったね」
鷹宮の内側で、形のない独占欲が静かに鎌首をもたげていた。自分にすら懐かない「妻」が、この得体の知れない青年とは医学用語を交えて楽しそうに密談している。その光景が、彼の冷徹な理性をじりじりと侵食していく。
「不破と言ったか。……資料の提供が済んだなら、さっさと帰れ」
めるは立ち上がり、帰り際に鷹宮の耳元で囁いた。
「……氷の独裁者様。その『ガワ』、早く剥製にしないと、中身が溢れちゃうよ。背面にある『印』……君も、もう気づいてるんでしょ?」
鷹宮の瞳が、鋭く細められた。
めるが夜の闇に消え、リビングに残されたのは、静寂と、飲み干された「青い茶」の残骸。そして、凍りつくような視線を向ける鷹宮と、蛇に睨まれた蛙状態の悠斗だけだった。
(やばい、やばい、やばい! めるのやつ、最後にとんでもねえ劇物を置いていきやがった! 『印』ってなんだよ! 叔父さんの目が、もう完全に『検品』する側のそれなんだよ!)
悠斗は後退りしながら、何とかその場を逃れようと出口を探す。
「あ、あの……! 鷹宮さん。『資料』も帰ったことですし、僕もアトリエの片付けが残っているので、これで失礼し……」
「待て」
低い、抗えない声が悠斗の足を止めた。
「……蓮、こちらへ来なさい」
(う、出た。叔父さんの『呼び出し』。怒鳴られるより、この低いトーンの方がよっぽど怖いんだよ……!)
悠斗は置物のように硬直していたが、鷹宮の静かな視線に抗えず、一歩ずつすり足で近づいた。鷹宮はその細い手首を掴むと、拒絶を許さない力で自分の至近距離へと引き寄せた。
「……背面に、印、か」
鷹宮の低い声が、悠斗のうなじをかすめる。悠斗は反射的に身を強張らせた。
「あ、あの……! 鷹宮さん。めるの言うことは全部デタラメです。あいつ、脳のシワが人より多いせいで、たまに幻覚を見るんですよ」
「そうか。だが、彼は私のことを『飼育者』と呼んだ。……配偶者に対して、あまりに不敬な物言いだな。……蓮、こちらを向け」
肩に置かれた手の重みに、悠斗は逃げられないことを悟った。 鷹宮は悠斗を正面から見据える。その瞳は冷たく澄んでいるが、その奥には底知れない独占欲が潜んでいた。
「お前は以前、私に『夫としての義務を果たせ』と詰め寄ったことがあったな。……私は責任として結婚を選んだ。ならば、お前の心身を隅々まで把握し、管理することもまた、私の義務であり権利だ」
(うわ、出た! 腹黒エリート特有の『正論を武器にした理詰め』だ!……っていうか、蓮さん、あんた、とんでもねぇ事を俺に残しているんじゃねえか!)
「制作で汚れただろう。……脱げ。私が手ずから清めてやる。記憶がないというのなら、夫婦としての『距離感』を改めて身体に教え込む必要があるようだ」
「き、清めるって……!大、大丈夫です。僕、自分で洗えますから! 物理的にも、プライバシーの観点からも!」
悠斗は必死に自分の服の襟元を握りしめ、後退りした。
(待て、落ち着け、俺は医学部だ。こういう時こそ冷静に……!脳内データベースを検索して『いかにして服を脱がずに済ませるか』……いや、駄目だ!『服の脱がせ方』は載ってても『脱がない方法』なんて一行も書いてねえ!)
悠斗の内心の葛藤をよそに、鷹宮は動じない。それどころか、悠斗の乱れた襟元を整えるような仕草で指先を滑らせた。その手つきは驚くほど優しく、それゆえに拒絶の言葉が喉に詰まる。
「嫌か? ……以前の蓮なら、もっと貪欲に私を求めていたはずだが」
鷹宮の指先が、悠斗の鎖骨をなぞる。
「今のお前は、まるで初めて他人に触れられた子供のように怯えているな。……その無垢な瞳で見つめられると、壊してしまいたくなる。あるいは、永遠に檻に閉じ込めておきたくなる」
(叔父さん……今、なんて言った? 怖っ!でも、その顔……なんか悲しそうじゃん……)
「……拒むな。これは管理であり、慈しみだ」
(慈しみって……その慈しみのせいで、俺の坐骨結節付近のホクロが白日の下に晒されようとしてんだよ!……女の子と手を繋ぐのに3ヶ月かかる俺に、この至近距離で、叔父さんフェロモンは致死量なんだよ!)
その時、悠斗のポケットの中でスマホが震えた。
激しいバイブ音と共に、スピーカーから勇壮な『運命』のメロディが張り詰めた空気を切り裂く。
(い、石橋さんだ! 命の恩人……!)
「で、電話! 石橋さんからです! ほら、仕事熱心なマネージャーを待たせると、事務所との契約問題に発展して、違約金が……!」
悠斗は隙を突いて鷹宮の腕をすり抜けた。
「あ、石橋さん! お疲れ様です! ちょうど今、僕も芸術的な……その、解剖学的アプローチの真っ最中で……!」
『蓮さん! 聞いてください! 興奮して夜も眠れません!』
電話越しでもわかる石橋の絶叫が、静かな部屋に漏れ聞こえる。
『例の「生命の循環」……あのゴミ袋……いえ、最新のパッキングで納品された作品ですが、某有名コレクターがとんでもない金額を提示してきました! 弊社始まって以来の、震えるような成約額です!』
「え、マジですか……?」
(あのメスで刻んだだけのオブジェが!?)
『それだけじゃありません! そのコレクターが、「これを作った本人に直接会って、その執念の源を聞きたい」と仰っているんです。明日の昼、会食をセットしました! 拒否権はありませんよ!』
「会いたい……? 僕に……?」
悠斗が呆然としていると、横から冷たい手が伸びてきて、スマホをひったくられた。
「……夜分に失礼。鷹宮だ」
鷹宮の声は、電話越しの石橋を瞬時に凍りつかせるほど低かった。
「蓮は今、私の『管理下』にある。明日の会食には、私も同席させてもらう。……異論はないな?」
石橋の「ひぃっ、もちろんです!」という悲鳴を最後に、鷹宮は通話を繋げたまま、スマホを悠斗の胸元へと突き返した。
(っ……!?叔父さんが同行? 無理無理、あの威圧感の塊が隣に座ってたら、飯の味どころか、えんげの仕組みすら脳からホワイトアウトしちまうだろ!)
悠斗は冷や汗を流しながら、この絶体絶命のシチュエーションを打破できる「助っ人」を脳内で検索した。
(落ち着け、俺。この猛攻を分散させるには、ターゲットを増やすしかない。……湊がいれば安全だが、あいつ、今は設計の最終課題で『図面と心中する』って遺言を残して音信不通だ! こうなったら、毒を以て毒を制す……めるの変人パワーに賭けるしかない!)
「石橋さん、待ってください!明日の会食、僕のアドバイザーも同行させます。不破めるです。僕の作品の深層心理における内臓の躍動を解説するには、彼の変態的……いや、専門的な知見が不可欠なんで!」
『えっ!?アドバイザー!? あ、あの、蓮さんがそう仰るなら……わ、わかりました! 分刻みのスケジュールですが、なんとか全員が入れる個室を……。よし、こうなったら創業百年の老舗料亭の奥座敷を押さえます!』
石橋はもはや半狂乱で電話を切った。リビングに再び静寂が訪れる。
鷹宮は、悠斗が必死に防波堤を築こうとした意図を全て見透かしたような、冷ややかで、それでいてどこか愉しげな微笑を浮かべた。
「……あの魂の主治医も揃うのか。……いいだろう。お前が彼と何を語り、私にどんな背信を見せるのか、特等席で見届けさせてもらう」
鷹宮はそれだけ言うと、立ち去り際に、悠斗の頭を一度だけ、乱暴に、けれど慈しむように撫でた。
「……明日は早い。早めに休め。……お前の背中のことは、明日じっくりと確かめてやる」
(……じ、じっくりって!叔父さん、怖いよ!……って、待てよ。今の撫で方、俺が生きてた時によくやってくれたやつじゃねえか。叔父さんの手、あんなに熱かったっけ!?……ダメだ、このままじゃ、ホクロを検品される前に俺の心拍数が保たねえ!)
悠斗は、去っていく鷹宮の背中を見送りながら、自分の立てた作戦が「助け」になるのか、それとも「地獄の火力を上げるだけ」になるのか、激しく不安に襲われていた。
第5章を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
更新をお待たせしてしまいましたが、いつもお付き合いくださり感謝の気持ちでいっぱいです。
波乱の予感しかしない第6章ですが、また次の日曜日に投稿させていただきます。
来週もまた、このカオスな空間でお会いしましょう。




