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第3章 赤の符号と、不純な傑作

午前中のカフェで作戦会議を終えた悠斗と湊は、一度鷹宮邸へと戻っていた。午後に控えた例の作品の納品のためだ。

「いいか湊、これは性的な興味じゃない。純粋に個体識別の観点からの報告だ。頼む、一回だけでいいから確認してくれ!」

「うるせえ!黙ってプチプチ巻け!お前は中身が悠斗でも、見た目は蓮だよ。その顔でケツ出そうとするな!」

緊急手術現場さながらとなったアトリエで、悠斗は湊に詰め寄っていた。

悠斗はこの一週間、蓮の体を検体として徹底的に調査した。そして、ある驚愕の事実に突き当たったのだ。

「いいから聞けよ!この『蓮』って体、俺の死んだ体と全く同じ場所に真っ赤なホクロがあるんだよ。左の臀部、坐骨結節のやや外側。位置も、色も、形状も、ミリ単位で一致してる。これ、ただの偶然じゃ片付けられないだろ!?」

「知るかよ!お前のケツのホクロの位置なんて覚えてねーよ!俺を巻き込むな!」

湊は顔を真っ赤にして、悠斗が差し出す「生命の循環」のオブジェを、逃げるように緩衝材で包み始めた。

結局、梱包材が足りなくなり、作品の半分はプチプチ、もう半分は家政婦の野村さんが愛するキッチンからこっそり取ってきた黒いゴミ袋という、およそ芸術品とは思えない異様な姿でパッキングされた。

「……これ、本当に事務所に持っていくのか?蓮ってやつ、超繊細なアーティストだったんだろ? 殺されるぞ」

「背に腹は代えられないんだよ。違約金なんて払えないし、この『蓮』の評判を落とすわけにもいかないからな」

悠斗はゴミ袋に包まれた「生命の循環」を抱え、湊と共に所属事務所へと向かった。


事務所の応接室。

待ち構えていたのは、チタンフレームの眼鏡の奥に鋭い光を宿した男・マネージャー石橋だった。彼は悠斗が差し出した「ゴミ袋」を見るなり、眉間に深い皺を刻んだ。

「蓮さん。いくら記憶が混乱しているとはいえ、これは……あまりに作品への敬意が足りないのではないですか?」

石橋は溜息をつきながら、忌々しそうにゴミ袋を引き裂いた。中から現れたのは、悠斗がメスで削り、医療用の糸で結紮(けっさつ)し倒した異形のオブジェだ。

石橋の動きが止まった。

(やばい、不燃ゴミと間違えられたか!?怒られる……。やっぱり美術品を外科手術の手法で直すなんて……)

悠斗が冷や汗を流した、その時。

「……素晴らしい」

震える声で、石橋はメガネを外し、食い入るように金属の縫い目を見つめている。

「今までのあなたの作品には、どこか浮世離れした美しさがあった。……でも、これは違う。このパーツ同士を縛り上げている糸の結び目……この無機質で圧倒的な『正解』を感じさせる規則性!まるで、バラバラになった神の肉体を無理やりこの世に繋ぎ止めたような執念を感じるわ!」

「えっ、あ、はい。一応、大動脈弓の構造を意識して固定したというか……」

「大動脈弓!そうよ、それよ!『生命の循環』に欠けていたのは、このグロテスクなまでの生命力だったのよ!蓮さん、あなた化けたわね!」

石橋は興奮した様子で悠斗の両手を握りしめた。

「次の作品もこの路線で行きましょう!次は『神経系』、あるいは『脳神経の束』をテーマにした立体造形を。締め切りは来月末、期待しているわ!」

(神経系……いける。それなら解剖学の教科書がそのまま設計図になる!)

予想外の絶賛に、悠斗は安堵して事務所を後にした。隣で見ていた湊は、「芸術の世界ってのは分からねえな……」と遠い目をしていた。

だが、悠斗の平穏はそこまでだった。

駅前で湊と別れようとした瞬間、ポケットの中のスマホが、冷酷なまでに短い振動を刻んだ。

『19時に迎えの車をやる。遅れるな。鷹宮』

「げっ、叔父さん……」

「……地獄からの召喚状だな。頑張れよ」

湊に哀れみの視線を向けられ、悠斗は逃げ出したくなる衝動を必死に抑えた。

アーティストとしての危機は去った。だが、次に来るのは「夫」としての、より過酷な正体不明の心理戦だ。


迎えの車は一分の狂いもなく19時ピッタリにきた。

後部座席に座る鷹宮の隣に、悠斗は縮こまって乗り込む。車内には、彼が愛用しているであろうサンダルウッドの香りが微かに漂い、それがかえって悠斗の緊張を煽った。

(落ち着け、俺。石橋マネージャーだって騙せたんだ。食って、適当に相槌を打って、帰る。それだけだ)

「石橋から連絡があった。作品を仕上げたそうだな」

不意に飛んできた低い声に、悠斗の肩が跳ねる。

「あ、はい。なんとか……。喜んでもらえたみたいで、良かったです」

「記憶がなくとも、指先は覚えているということか」

鷹宮の視線が、悠斗の細い指先に落とされる。その視線は、単なる確認というよりは、何か異物を鑑定するような冷徹さだった。悠斗は慌てて、指先を膝の上で握りしめた。

到着したのは、都心の喧騒を忘れさせるような、落ち着いた雰囲気の老舗懐石料理店だった。

完全個室。対面で座る鷹宮は、酒を一口も飲まずに、次々と運ばれてくる繊細な料理に箸をつけた。

「食べないのか。ここは、お前が以前『一度連れて行け』と執拗にねだっていた店だぞ」

(えっ、蓮さん、こんな高い店ねだってたの!?性格出るなあ……)

悠斗は意を決して、目の前のお造りに箸を伸ばした。そこには、蓮が「生臭い」と吐き捨てていたはずの光り物や、濃厚な白子が並んでいる。

「うまっ……あ、いや。美味しい、です。この白子、クリーミーで鮮度抜群ですね。ビタミンB12も豊富そうだ……」

パクパクと完食していく悠斗を、鷹宮は箸を止めてじっと見つめていた。その瞳の奥に、得体の知れない光が宿る。

「……蓮。お前は以前、生の魚を『死体の一部を食っているようで反吐が出る』と言って、私の前で皿をひっくり返したはずだが」

「げっ。……あ、あはは。そうでしたっけ?記憶がないせいで、味覚の神経回路が……その、再構築されたのかもしれません。はは」

(やばい、ボロが出すぎだ! 医学用語で誤魔化すな俺!)

冷や汗を拭う悠斗に対し、鷹宮はそれ以上追及せず、ふっと視線を窓の外の夜景に逸らした。その横顔に、一瞬だけ、深い孤独が影を落とす。

「……悠斗なら、今頃『叔父さん、これ最高!』と馬鹿みたいに笑って食っていただろうな。あいつは……お前と違って、分かりやすい奴だった」

「……」

悠斗の胸が、ぎゅっと締め付けられた。

目の前の男は、血の繋がらない妻の前でだけ、死んだ甥への執着を漏らす。自分がいなくなった世界で、この鉄面皮の叔父が、どれほど空虚な穴を抱えているのか。それを知っているのは、中身が悠斗である自分だけなのだ。

「……悠斗君も、きっと喜んでると思いますよ。こうして、あなたの思い出の中にいられることを」

気づけば、蓮のトーンではなく、いつもの悠斗の口調で喋っていた。

鷹宮の視線が、鋭く悠斗を射抜く。

「……お前が、あいつの何を知っている」

鷹宮が立ち上がり、テーブルを回って悠斗の背後に立った。逃げる隙も与えず、冷たい手が悠斗の顎を強引に持ち上げる。

「言葉遣い、食の嗜好、そしてその他人を思いやるような……不快なほど澄んだ瞳」

鷹宮の顔が、鼻先が触れそうなほど近づく。

(待て待て待て、近すぎる! 叔父さん、これは明らかに公衆衛生上のソーシャルディスタンスを著しく逸脱している! パーソナルスペースへの不法侵入だ!)

「……お前、何者だ。蓮の皮を被った化け物か?」

「っ……ちが、僕は……!」

「答えろ。……誤魔化しは許さないぞ」

鷹宮の指先が、悠斗の耳裏から首筋へと、熱を帯びたまま滑り降りる。

(ひぃっ! 頸脈動脈が破裂する! 叔父さん、至近距離でのそのフェロモンはもはや毒性物質だぞ!)

悠斗の脳内では、手繋ぎ3ヶ月という鉄の掟が、警報を鳴らしすぎてショートしていた。

(落ち着け……俺は医学生だ。こういう時こそ冷静に……。この首筋のタッチ、さっきの石橋マネージャーのゴミ袋剥ぎ取りより心臓に悪い……!)

その時だった。悠斗の脳裏に湊と話した『お尻のホクロ』の件がフラッシュバックする。

もし、この男が『蓮』の体の隅々までを知り尽くしていたとしたら。

自分と同じ場所にホクロがあることを、彼が知っていたとしたら。

(待てよ。もし叔父さんがそのホクロを知ってて、『お前、悠斗と同じ場所にホクロがあるな』なんて言い出したらどうする!?『はい、実は僕のケツも同じ仕様です!』なんて言えるか! どんなカミングアウトだよ!)

悠斗は恐怖と、正体不明の期待、そして「絶対にケツのホクロだけは死守せねばならない」という謎の使命感に震えながら、自分を見つめる鷹宮の瞳から目を逸らすことができなかった。

二人の呼吸が重なり、沈黙が部屋を支配する。

手繋ぎを飛ばして一気に首筋まで詰め寄られた悠斗のノンケ・プライドは、もはや風前の灯火だ。

悠斗の新しい人生は、平和な共同生活などではなく、この美しくも冷酷な男による剥製への執着に飲み込まれていく予感に満ちていた。

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