一、いつもの朝
泡沫戦記
一、いつもの朝
「─ちゃん、姉ちゃん!起きて!」
外から聞こえる野鳥と弟の呼び声で目を覚ました恋春。彼女の心は、長い物語の最後を見ていたかのような満たされた思いでいっぱいである。普段ならば家族の誰よりも早く起床し、朝の支度を行うのだが、今日はどんな反乱分子があったのか誰よりも寝坊助になってしまった。弟の夏樹が大寝坊の恋春を起こしにきているのはその為である。あまりにも気持ちのいい目覚めなものだから、むしろ普段が寝不足なのだろうかとすら感じてしまう。そんなふわふわとした思考をしながらいつまでも呆けている恋春を夏樹が叱責する。
「もう!いつまでもぼーっとしてないでさあ、とっくに朝ごはん出来てるからね!」
夏樹は頬を膨らませ、野外に繋がる障子を換気の為に開けると呆れた顔をして恋春の部屋を出ていった。
「…うん、いま行くよ。」
そんなことを言いつつも、体は全く答えない。
恋春はしばらく布団の中でごろごろしてから、ようやく安心感溢れる寝床からのそのそと這い出てきた。
大きな伸びをして一つあくびを吐くと、布団を畳んで部屋の隅に重ねて置いておいた。ふと外へ目線をやればすっかり日が上り切ってしまっているようで、夏樹が開けていった障子の隙間から春の陽気が部屋に入ってきている。
「んーなんだか、いつもよりよく眠れた気がするなあ。」
陽気の中をかなりとろい足取りで、家族の待つ大部屋へと足を進める。
春は冬とは違って寒くない為に心地よく目覚めることができる。その上、布団から出ても凍えない。寒くない、たったこれだけの変化であっても恋春にとっては、昼間の行動予定が大きく変わってくる。つまりそれほど気温は大事な要素になってくるのだ。彼女の名にもあるように春生まれなことも相まって春という季節をこよなく愛する恋春は、この頃が一年の中で最も幸せそうだと母が語る。
さて恋春一家の住むこの築三十年の屋敷はかなり古く、廊下を歩くだけで木の軋む音が聞こえるほどである。昼間に下の兄弟達が雑巾掛けをする時などは屋敷が悲鳴を上げているかのように、ギーギーと苦しそうな声を上げるものだ。
恋春の部屋は屋敷の東側にあり、廊下の端に当たる。皆で食事を囲む広い部屋へ行くにはこの長い廊下をずっといくしかない。裸足で歩いてもひやっとしない暖かい廊下を進んでいく程、兄弟達の賑やかな声が大きく聞こえてくる。朝から全力な彼らの声を聞いているだけで、恋春まで何となく吊られてしまう。
「あら、おはよう恋春。ずいぶん寝てたわねえ。大丈夫?調子悪くない?」
恋春の大寝坊は母の心配すら誘う。母の笑子は手に持っていた椀を一度置くと急足で恋春の元へと寄り、恋春の額に手を当てた。発熱の心配をしていた笑子は額から特に熱が伝わってこないことに安心したのか、眉間に入っていた力がすっと抜けた。恋春は体調不良を完全否定する快活な声で言った。
「うん、何ともないよ。お外があったかくなったでしょう?だからかなあ、すごくよく眠れたの。」
「そうなのね、元気なら良かったわ。さあ恋春も顔洗っておいで。みんなでご飯にしましょ。」
恋春が席に着くと、みんな揃っていただきますをした。この一家では食事は皆で揃ってするのが決まり。そのため、なかなか起きてこない恋春をずっと待っていたのだ。
「もらいー!」
外で雨が降り始めたことに気がついた母が慌てて洗濯物を取り込みに席を立った一瞬の隙に、ぼうっとしていた恋春を差し置いて皆で囲んだ中央の膳より卵焼きが一つ誘拐された。犯人は次女の千秋。唖然とする恋春をよそに、当の本人は小悪魔のように口角を上げ、歯を見せてにやにやしている。
「あっこら秋!まだだめだって!」
千秋は恋春の視界で卵焼きを美味しそうに眺めると、一口で平らげた。たったそれだけ。普段ならばこれっぽっちの事で声を荒げたりしない恋春だが、盗まれたのが母の卵焼きなのならば話は別だ。笑子が妊娠した為に最近は恋春が朝食を作っているこの一家では、調子の良い日に作られる母の手料理が争奪戦と化す。今はこの場にいないが、一家の大黒柱であり五人兄弟の父でもある剛が時折この争いに混ざるほどこの争いは重要かつ困難である。大事なことはいかにして好物をすばやく手中におさめるか。それが今回においはなんと恋春が敗者になってしまったのである。母の数々の手料理の内、恋春が愛してやまないのが今回の争いの発端となった卵焼きである。優しい出汁の香るふわふわの卵焼きをいとも簡単に盗まれてしまった。恋春が呆然としていたとはいえ、争奪戦の規則である『母がいること』が満たされていない為、この争奪戦はそもそも行われてはならないはずだ。だが千秋は規則を破って独自に争奪戦を始めてしまったのである。これには優しいお姉ちゃんと評判の恋春もご立派。
「千秋、覚悟はできてるんだね?」
ゆらり立ち上がると般若のような形相で千秋の方を見た。あまりの恐怖に千秋は息を呑む。しかし、そう易々と罪を認めないのがこの女。どれだけ好物を盗まれた姉が怖かろうが、勇敢に立ち向かう。
「で、でも!顔に書いてあった!あたしに食べてほしいって、書いてあったよ!」
「でもじゃない。そういうことじゃないの私が言いたいのは。今、母さんいないじゃん。なのにどうして始めちゃったのかなあ?みんなだって卵焼き食べたいのに待ってたはずだよ?」
この一家のへんてこ家訓に記してある規則であれどきちんと守る真面目な恋春とは対照的に、自由人で平気で規則を破る千秋は皆が揃っていなかろうが争奪戦を始めてもいいだろうと思ったのだろう。こんなことでそんなに怒ることはないだろうとヘラヘラしている千秋。しかし、恋春は千秋の想像よりもかなり腹を立てている。
「決まりを守らない悪い子には罰を与えないと…」
「ば、罰ってなに…?」
突然無口になり俯いた恋春の様子に怯え出した千秋。
「よし、全身こちょこちょの刑だ!」
「ぜっっったいにやだ!お姉ちゃんのこちょこちょはやだよ!息できなくなるんだもん!」
「待って千秋。」
「やだったらやだ!」
千秋は執行人から逃げるべく、母の帰りを大人しく待っている下の兄弟達の後ろを通っえ回り出す。それを早歩きで追いかける執行人恋春。彼女の目は獲物を狩る猛獣のように光り、千秋以外を視野に入れていない。両手を胸の前にやって、指を曲げ十本の指を交互に、それも奇妙に動かしながら追いかけるその姿は妖怪か熊かである。
「あはははっ姉ちゃん、熊みたい!」
夏樹には恋春の姿が熊に見えたようであまりの面白さに腹を抱え、大口を開けて笑っている。仕舞いにはひっくり返って足をばたつかせるまでに。
「ちょっと!お兄ちゃんも手伝ってよ!」
恋春と同じように真面目で正義感の強い三女の舞冬は、般若と千秋の追いかけっこに終止符を打つべく立ち上がったのだが──止める方法が見つからない。自分たちの背を時計の進む方に旋回し続ける二人の通行を阻止しようものなら、それこそ熊に喰われたような大怪我を負うに違いない。もしくは捕まった千秋と共に、通行を阻害した罪を償わなければならないかもしれない。そうなって仕舞えば、空乃によるこちょこちょ被害者が更に一人増えてしまう。舞冬が必死に考えた末に思いついたのが『兄に助けを求める』という策。しばらく練った割には単純のように思えるが、そこには幼い舞冬なりの立派な考えがあるのだ。舞冬は床をバシバシ叩いてツボにはまっている夏樹の耳を引っ張り、無理やり聞かせる。
「いい?お兄ちゃん?あなたにはこれからあることをしてもらいます。私とお兄ちゃんの命が掛かってる大事なことよ。名付けて『お兄ちゃんにまっかせなさい大作戦』。」
凄んだ割には安直すぎる命名に呆れる夏樹。幼いのだから勘弁してやってほしいところだが…。とにかく幾ら賢くてませた少女だろうが、まだ五つの舞冬には難解且つ魅力的な命名など出来るはずがない。更に言ってしまえば八つの夏樹でさえ無理だろう。何といっても夏樹は、自由人な千秋が軽く引くほどに言葉遊びが苦手なのだから。
「それで、ぼくは何をしたらいいの?姉ちゃんに食べられてこいなんてのは絶対嫌だからね!」
「ふふん、聞いておどろけ!舞冬のすばらしい作戦にびっくりしてまたひっくり返っちゃうかもよ?これから舞冬が、恋春お姉ちゃんの後ろにバレないように近づいていくから、お兄ちゃんには恋春お姉ちゃんと千秋お姉ちゃんの間に行ってほしいの。」
「いやいや姉ちゃんには食われたくないって言ったじゃん!今言った作戦じゃあぼく、ただの囮じゃん!」
「そうだよ?」
「そうだよじゃない!」
声を上げる夏樹に引き寄せられるように、恋春がそちらを向く。顔を向けることなく鋭い視線だけが注がれる。二人は恋春の視線に恐怖し、瞬き一つすらしないその瞳から光を放っているような気さえしてしまった。二人は硬く抱き合いガタガタと震える。
「お、おお、お兄ちゃんがおっきい声出すから気づかれちゃったじゃん!こっ、こ、れじゃ作戦できないよ。」
「そそそ、そんなことよりこれどうするの?天才舞冬さん。こ、これからぼくたちはね、ねね姉ちゃんに食べられるんだよ?」
「なーつーきーぃ?さっき熊だとか言ってたのぜぇんぶ聞こえてるからねぇ?女の子にそんなこと言っちゃいけないの知ってる?」
捕食者の如く鋭く光る瞳は、標的を千秋から夏樹に変えた。瞳をかっ開いたままただ夏樹だけを捉える。
「ちょっと待って、話したらわかるよ!きっと…
あのね、ちょっと口が滑っちゃっただけなんだよ。ほんとだから、信じてよ!ただ思ったことを言っただけなのっ!あっぶな!!」
夏樹が話し終わるのを待つ前に恋春の魔の手が、彼の脇腹へと伸びた。すんでの所で避けたものの、夏樹が避けたことが気に入らない恋春は再び手を伸ばす。
「ちょ!ほんとに待ってって!許して、ゆるしてっっ!!」
「さっきも言ったけど、女の子に熊って言っちゃだめなの。これから他の子に言わないように、言ったらどうなるのか教えてあげる。痛いことはしないから安心して。」
音程の一切変わらない恐怖を感じさせる恋春の声を合図に、たった今姉弟の攻防戦が始まろうと言う時に外から母の呼び声がした。
「恋春?ご飯食べ終わったのなら、手伝ってちょうだーい!」
「はーあーい!母さん手伝いに行ってくる千秋はちゃんと反省してね。規則は破っちゃだめ。んで夏樹は後で、話そうね。」
「わ、わかった。もうこんなことしないって約束する!」
恋春はにっと笑って見せると、「母さん大丈夫?」と叫びながら外へと出ていった。
「ぼく後で食べられるのかな…」
恋春の意味ありげな発言に怯える夏樹。大抵恋春の言う『後でお話し』が優しいものだった試しはなく、大体千秋が叱られている。
「恋春お姉ちゃんって怒ったらとっても怖いよね。そうだ!春華が生まれたらお姉ちゃんとして教えてあげなくっちゃ。」
「そうだね。もう絶対お姉ちゃんは怒らせない、これも『かくん』にしよう。そうしなきゃ、またこちょこちょされる。」
気の利く夏樹が桐の箪笥から半紙と筆を持ってきて拙い字で綴った。『恋春を怒らせないこと、女の子に熊って言わないこと』と。そんな所に笑子が戻ってきた。
「お母さん戻ってくるの早かったね。」
「姉ちゃんは?」
「恋春がね、後やってくれるみたいなの。」
それはほんの数分前の出来事。末の子を妊娠中であり大きな腹の笑子を気遣って、恋春が全速力で走ってきた。
「うわっ結構降ってるじゃん!母さんが風邪ひいたらいけない!」
「少しくらい平気よ。すぐ終わらせちゃえばなんてことないわ。それより恋春、裸足じゃないの。そっちのが風邪ひいちゃうわ。」
誰かが命の危機に晒されているかのような慌て様な為に、草履すらも履かずに土間を飛び出してきたのだろう。長女としてしっかりしている恋春だが、焦ると優しい反面人のことばかり気にして、自分の事が疎かになってしまう。とりあえず草履を履いておいでと恋春に伝えると、本人は気づいていなかったようで酷く驚き大慌てで草履を身につけすぐに戻ってきた。
「恋春。気遣ってくれるのは嬉しいけれど、まず自分のことちゃんと出来てるか確認しなきゃだめよ。周りの人はそれからでも大丈夫だから。あなたすぐ焦っちゃうから心配だわ。」
「でも私がもたもたしてたらその間に…」
「いい?恋春。浮き輪を付けてない人が、慌てて溺れてる人を助けようとして川に入っても一緒に溺れてしまうわ。それじゃあ意味ないでしょう?だから周りの人を助ける前に自分の事ちゃんと確認すること、分かった?」
恋春は大きく頷いた。
「じゃあ母さん、後は私がやっとくから母さんはお部屋戻ってて。もちろん自分のことはちゃんと終わってるよ。」
「ふふ、ちゃんと分かってるわね。その調子で自分の事も大事にしてね。じゃあ洗濯物お願いね。」
「任せといて!」
笑子は恋春の抜けたところは話さずに、ことの転末を子供達に話してやった。
「さっすが姉ちゃん。」
「ところで、さっきから何を書いているのかしら?」
「これね、これは─」
千秋が事の経緯を話すと、笑子は少し笑ってから優しく諌めるように言った。
「お姉ちゃんの言う通りねぇ。今はまだ難しいかもしれないけれど、決められたことはちゃんと守らなくっちゃだめよ。」
舞冬が腰に手を当てて胸を張った。
「ほぉらやっぱりね!」
「ぼくだってわかってるって。女の子には優しくしなくっちゃいけないことくらい。でもさ、宗一にいちゃんはそうじゃないじゃん。」
夏樹が舞冬に反論するように声を上げると、続いて千秋も宗一郎の話題に首を突っ込んだ。宗一郎は恋春と同い年のいわゆる幼馴染に当たる男児だ。姉弟が声を揃えて『女の子に優しくない』というあたり、彼はそこそこに餓鬼である。
「宗ちゃんはまねしちゃだめよ。」
母なるもの女性への対応がままならない紳士たりえぬ者を子供達のお手本にするわけには行かない。
「しないよ。」
家族に男兄弟がいないために夏樹は宗一郎に懐いているが、一通り長女に教育されている夏樹は自ら己を潰すような哀れなことはしない。つまりはわざわざ宗一郎の真似事をしない。
「また宗ちゃん遊びに来るかなぁ。」
「やっとあったかくなったから宗ちゃん呼べそうね。」
(よし、これで全部だ!)
竹で編まれた大柄で底の深い籠に干された衣類を全部取り込んでしまうと、恋春は大きく伸びをした。先程まで本降りだった雨は今やすっかり止み、ついには太陽が顔を出してきた。草木に落ちた露を照らす光を見上げると包まれるような暖かさを感じられる。
「んもうー取り込んだ側から晴れるじゃん!また干さないと…でもちょっと休憩」
もう一度干し直すという仕事を放棄し、恋春は雨に濡れた衣服を乾かす為にもう暫く外にいることにした。籠を縁側に置くべく持ち上げようとするも、「おもい…」と呟いてしまうほどの重量をしている。家族六人分の洗濯物が、再び濡れてしまったのだからそのはずだ。腰を曲げて地面に触れているかいないか程だけ籠を持ち上げると、なんとか縁側の上に乗せることができた。
「腰痛くなっちゃった」
齢十一にして腰の痛みを感じるとは。父は医師であり、大抵家にいない。それに加えて母は臨月。現在家事の多くは恋春がこなしておりら彼女は小さな主婦であるのだ。本人は家事をすることに慣れているので特に苦労などは感じていないのだが、体が小さい故高いところ、重いものに対しては弱い。何の変哲もない竹籠如き成人ならばなんて事はないのだが、未熟な少女の体にはまだ苦しい。縁側に腰掛けて服を乾かすという建前で日向ぼっこをしている。特に目的もなくぼんやり遠くの方を眺めていると、どこかから小さな声が聞こえた。
「こっち、こっち!」
声は近くの草むらより聞こえてくる。どうやら声の主は女の子のようだ。恋春が声の出所を発見して草むらを覗き込んだ途端、腕を思い切り引かれバランスを崩した。そのまま地面に倒れ込んだ恋春は雨上がりの泥に襲われた。
「うわっ!」
恋春が顔を歪めながら体を起こすと目の前には少女が慌てふためいている。少女は本来人間に向いているはずの耳の代わりに狼に近しい獣のそれを頭に生やし、ぱくぱくと開閉する口元には鋭い牙を宿している。全体的に灰色かつターゴイズの瞳を持つ少女は、ただの人間には到底見えない。
「わーわー!ごめんなさい!どうしよう、お召し物をこんなに汚しちゃった…」
「洗えばどうってことないからそんなに気にしないで。そうだ!あなたも家上がっていく?体が濡れてるみたいだし」
「うえぇ!?いいの?…って違う!あたしはさっさと戻らないといけないからそれには及ばないよ。」
狼の少女は名乗ることもせずにナヨナヨした顔をなおし、泥まみれの恋春の腕を乱暴に掴んだ。
「ちょ、ちょっと!急になに…」
「ごめんね。恋春ちゃん。」
「どうして私の名前知ってるの?」
少女は質問には答えなかった。それどころか恋春が一度瞬きをして次に目を開けたときには、すでに見知らぬ場所にいた。辺りは青青とした木々が生い茂り、風が吹くたび不気味に笑っている。恋春は自分の周囲を見渡した。刹那の前には自宅の前に確かにいたというのに、知らぬ間に知らぬ土地に来てしまった。次第に不安につつまれていく恋春。すると少女が恋春に声をかけた。
「大丈夫なんて言って安心できないと思うけれど、取って食うわけじゃないから安心してほしいな。あたしはただ君の力を必要としてるだけなの。」
「私に力なんてないよ。そもそも狼さんどう見たって人間じゃないでしょ?小さい頃母さんから聞いた妖怪に似てるもの。」
「幸って呼んで。」
幸は淡白に話した。会話が成り立っているのかと言われれば今の2人のそれは会話とは言えないものだろう。
「少し歩こうか。君に話さないといけないことがたくさんあるから。」
そう言い残すと幸は、恋春の返答も待たずに進み出した。木々の間にぽっかりできた細い獣道をまっすぐに歩き出した。もちろん恋春がそう易々と着いていくはすがない。なんの情報もない土地を、知らない人の案内で進めだなんて。11歳の少女でなくとも疑いの目を向けないはずない事実だ。しかし幸は止まることを知らないのでズンズン森の奥へと行ってしまう。後ろを振り返ることだって一度たりともしない。ただ一直線に歩いているだけだ。恋春は可能ならすぐにでも回れ右して屋敷に帰りたかった。だが行く先も帰り道もわからない恋春にそんな選択肢があるはずなどなく、結局幸についていくしかなかった。




