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婚約破棄された令嬢が愛の力で婚約者を取り戻すお話

「僕はこの子爵令嬢ヴィナディクティアと結婚する! 君との婚約は破棄させてもらう! 」


 婚約破棄の宣言を受けて、子爵令嬢リプスティアは言葉を失った。

 あまりにも突然のことだった。リプスティアと伯爵子息クレディオールとは婚約していた。周りの者が羨むほど、二人は仲睦まじい婚約関係にあった。つい昨日も将来のことについて語り合ったばかりだ。別れるときに熱いキスをかわしさえした。

 

 その翌日の婚約破棄である。リプスティアはとても現実のことは思えなかった。何かの冗談かと思った。

 しかし状況はまったく冗談ではなかった。

 今いるのは、学園の夜会だ。多くの貴族の子息や令嬢が参加するこの夜会で、衆目を集めた上で宣言した婚約破棄が、冗談で済むわけがない。

 

 リプスティアは、クレディオールの顔をまじまじと見つめた。

 ゆるくウエーブのかかった金髪。すっきりした鼻梁に薄い唇。誠実そうな顔立ち。愛する人のその顔は、今はまったくの無表情だった。そこには新しい恋への熱は見えなかった。ただ全ての感情を押し殺そうとするような、冷たい決意だけが感じられた。

 彼の心のうちは窺い知れないが、この婚約破棄が本気であることだけは間違いないようだった。

 

 その傍らに寄り添うのは子爵令嬢ヴィナディクティア。クレディオールとは幼い頃から交友があった。リプスティアも、クレディオールとの付き合いを通して、彼女とはよく見知った仲だ。

 まっすぐな黒髪に黒い瞳の、清楚可憐な乙女だった。物静かで、どこか影の薄い印象だった。

 しかし今の彼女は、、これまでとはどこか違っていた。リプスティアのことを見下すように、口元に薄い笑みを浮かべて見ていた。その視線にゾッとした。今まで彼女が見せたことのない、妖艶さすら感じさせる不気味な目だった。

 

 あまりに異常な状況に、リプスティアは言葉を返すことすらできなかった。

 すると、クレディオールは踵を返し、ヴィナディクティアを連れて歩き去ろうとした。

 何か言わねばと思った。呼び止めなくては終わってしまうと思った。しかし、愛する人の初めて見せた拒絶に対し、リプスティアはどうしていいかわからなかった。何を言うべきか、ろくに考えることすらできなかった。

 口を開いても言葉は出てこなかった。彼女にできたのは、ただすがるように手を伸ばすことだけだった。

 

 こうして、突然の婚約破棄の宣言は終わってしまった。しばらくの間、会場にはざわめきすら生じなかった。ただ困惑のみが残った。

 

 

 

 まるで悪い夢を見ているようだった。

 行く先々で慰めの言葉をかけられた。リプスティアはぼうっとしながら、どうやら婚約破棄を告げられたのは夢ではなく、現実のことなのだと、少しずつ実感していた。実感するごとに、何かが失われたという喪失感ばかりが大きくなり、気持ちが沈みこんでいた。

 

 ふと気づけば、学園の中庭にあるテーブルについていた。授業はもう始まっている時間だ。人気はなく、静かだった。

 ぼんやりとしていると、クレディオールが通りかがるのを見つけた。

 授業の合間、教室の移動の時。遠回りになるのでこの中庭の近くを通る生徒は少ない。リプスティアはいつも、愛する婚約者クレディオールとここを通り、わずかな二人きりの時間を楽しんでいたのだ。

 リプスティアは無意識に、クレディオールと二人きりで会えるかもしれない場所に足を運んでいたのだ。

 

「クレディオール様!」


 リプスティアは呼びかけ、クレディオールの元に駆け寄った。


「リプスティア……」


 クレディオールは顔を曇らせた。リプスティアに対して、彼がこんなによそよそしい態度を取るのは初めてだった。

 リプスティアはクレディオールの手を取った。たくましい男の腕。いつもは力強く、それでいて包み込むように彼女のことを包んでくれるその手は、しかし今、何も返してはくれなかった。


「クレディオール様……婚約破棄なんて、なにかの間違いですよね? わたしたち、あんなに愛し合っていたではありませんか!」

「リプスティア。すまない。婚約破棄は本当のことだ。夜会で宣言した。いずれ君の家にも正式に通達が行くはずだ」

「そんな……そんな……どうしてですか!? わたしに何か至らなかったことがあったのでしょうか!? それとも、わが子爵家に何か問題があったのですか!? あなたのためなら直します。なんでもします。だから、だから……!」

「違う! 君の家にも、君自身も、何も間違いはない!」


 リプスティアの手を振り払い、クレディオールは叫んだ。その顔は苦しみに歪んでいた。

 

「全て、僕が悪いんだ。僕と結婚することで、君は不幸になってしまうんだ!」

「結婚することで、不幸になってしまう……? いったいどういうことですか?」

「君にはわからないことだろう。でも、僕は見てきたんだ。君が苦しむ姿を見るのは、もう耐えられない……!」

「何を言っているのかわかりません! お願いですクレディオール様! わかるように話してください!」

「僕は……」


 クレディオールが苦し気に口を開きかけたとき、呼び止める声があった。

 

「クレディオール様! こんなところにいらっしゃったのですか!」


 黒髪をなびかせ、子爵令嬢ヴィナディクティアがやってきた。

 今までは控えめで、誰かに静かにそっと付き従うようことの多い令嬢だった。しかし今は、自信に満ちた足取りだった。リプスティアから婚約者を奪ったというのに、物怖じする様子はまるで見られなかった。

 彼女はクレディオールの隣に付き、彼の手を取った。

 そこで初めてリプスティアの存在に気づいたように、彼女を品定めするようにじろじろと眺めた。そしてふっと、口元に笑みを浮かべた。


「あら、リプスティア様とご一緒だったのですね。クレディオール様、婚約破棄したその翌日に、前の婚約者とお会いするなど、ほめられたことではありませんわよ」

「ああ、すまない。その通りだ」

「さあ早く参りましょう。誰が見ているかもわかりませんわ」


 ヴィナディクティアがクレディオールの手を引く。彼は抵抗すらしない。

 二人が行ってしまう。夜会での婚約破棄の結末を思い出し、リプスティアは追いすがろうと手を伸ばす。

 だが、その足が止まった。止めたのはヴィナディクティアの視線だ。その視線はあまりに鋭く、底知れないほど深い敵意が感じられた。その異様さに、リプスティアは近づくのをためらってしまったのだ。


「リプスティア様。おかわいそうですが、あなたの婚約は破棄されてしまったのです。潔く受け入れなさいな。あまりしつこいと、クレディオール様に迷惑が掛かりますわよ?」

「ヴィナディクティア! あなたっ!」


 見下すように、嘲笑交じりで紡がれるヴィナディクティアの言葉。リプスティアは思わずカッとなり、食ってかかろうとする。

 だがそれを、身を盾にして阻んだのはクレディオールだった。


「クレディオール様……!」

「君が憤るのもわかる。だが、こらえてくれ。彼女は僕のことを助けてくれているんだ」


 つい昨日まで、クレディオールに守られるのはリプスティアだった。

 愛する人のたくましい身体が、今は自分を阻む壁となっている。そのことに、リプスティアの胸は絞めつけられた。

 昨晩の婚約破棄の宣言は、戸惑いの方が大きかった。事実として受け止めきれなかった。

 だが今は、違う。愛する人が失われたということが、どうしようもなく実感できてしまった。


「リプスティア。もう僕たちは会わない方がいい。どうか、僕のことは忘れてくれ」


 クレディオールは無表情にそう告げると、ヴィナディクティアを伴い去ってしまった。

 リプスティアは何もできなかった。愛する人から告げられた拒絶の言葉が、彼女のことを打ちのめしていた。

 かける言葉が見つからず、手を伸ばすことすらできなかった。ただそこでうなだれていた。

 

「おかしなことになっていますねぇ」


 突然背後から話しかけられて、リプスティアはびくりと震えた。

 振り返ると、そこには小柄で大きな丸い眼鏡をかけた令嬢がいた。

 

「突然失礼しました。わたしは子爵令嬢リシアシェール。ちょっとお話しませんか?」




 リプスティアはショックのあまり、頭がうまく働かなかった。リシアシェールに連れられるまま、中庭の一角にあるテーブルについて話をすることになってしまった。


「わたしは魔道具の研究をしていましてね。いくつか成果を出していて、その功績で授業を免除されているのですよ」

「はあ……」

 

 リシアシェールはテーブルに着くと、学園の給仕係にお茶を用意させた。聞いてもいないのに自分のことを語ってくる。気づけばすっかり話をする流れになってしまった。


「先日の夜会で怪しげな魔道具の発したと思しき、異常な魔力を感知しました。その原因を突き止めるために、今は聞き取り調査中なのです。リプスティア様にもぜひとも協力してほしいのです」

「夜会……」


 『夜会』と言う言葉にリプスティアは反応した。その言葉で思い出されるのは、愛する人の初めて見せた、感情を見せない冷たい顔。婚約破棄の宣言。

 胸が痛んだ。泣きそうになった。

 

「そうです夜会です。怪しげな魔道具のあるところ、おかしな事態が発生するのです。そしてあなたはその渦中にいたのです」

「なんのことですか……?」

「リプスティア様とクレディオール様のご関係が良好であることは、研究室にこもりがちなわたしの耳にも届いていました。それが突然の婚約破棄。夜会の場には怪しげな魔道具のものと思しき魔力。

何かあると思いませんか?」


 愛し合っていたはずのクレディオールから告げられた、突然の婚約破棄。

 初めて見た、感情を押し殺した愛する人の顔。豹変した子爵令嬢ヴィナディクティア。

 様々な異常なことが、リプスティアの頭の中でつながった。


「まさか、クレディオール様の婚約破棄は、何かの魔道具のせいと言うことですか!?」

「ええ、その線を疑っています。当初は魅了系の魔道具が使われたと推測していました。それなら、急な心変わりにも納得がいきます」

「……魅了されると、あの時のクレディオール様のように、感情を表さないようになるのでしょうか?」

「魅了の種類にもよりますね。当人は魅了の魔道具使用者に恋しているつもりでも、傍から見れば魂が抜けたように見えることがあります。

 でも、あれは違いそうです。魅了の魔道具は、多くの場合、対象者に幸福感をもたらします。クレディオール様は終始お固い顔をしていらして、とても魅了されたようには見えませんでした。どちらかと言えば、精神操作系の魔道具で無理矢理動かされていたような印象を受けました」

 

 夜会の時も、さきほどの別れ際も、クレディオールは無表情だった。あれは魂が抜けたというのとは違う。むしろ、意識的に感情を押さえているようにも見えた。

 リプスティアは、自分の苦しみばかりに目を向け、彼のことについて考えることができていなかった。もしかしたら、魔道具によってクレディオールは望まぬ行動をとらされ、苦しんでいるのかもしれない。彼がそんな状況に陥っていると思うと、胸が痛んだ。それはリプスティアにとって、彼を失うこと以上の痛みだった。

 彼の様子をつぶさに思い出していくと、気が付くことがあった。


「さきほどクレディオール様は、『僕と結婚することで、君は不幸になってしまう』とおっしゃっていました」

「結婚することで、不幸になってしまう……? 妙な言い方ですね。まだ起きていないことを、まるで見てきたかのようじゃないですか」

「ええ、実際見てきたかのような口ぶりでした。それに、確かこうも言っていました。『君が苦しむ姿を見るのは、もう耐えられない』、と」

「最近、苦しくなるようなことでもあったんですか?」

「いいえ! あの夜会のこと以外では心当たりがありません!」


 リシアシェールは腕を組んで考え込んだ。


「妙ですね。言っている内容も気になりますが、そんなことを言うこと自体がどうにも腑に落ちません。もしかしたら、魅了や精神操作の類ではないのかもしれません」

「そうなんですか?」

「そうですよ。だってそれじゃあ、自分と結婚したらリプスティア様が不幸になるから、遠ざけようとしているみたいじゃないですか。ヴィナディクティア嬢に魅了なり精神操作なりされているのなら、そんな言い方はしないでしょう」


 リプスティアは席から立ち上がった。

 婚約破棄されて、クレディオールの愛は失われたのかと思った。

 だが、もし。まだ彼が、リプスティアのことを愛してくれているのなら。リプスティアのことを想って、やむをえず婚約破棄をしたのなら。

 こんなところでお茶している場合などではなかった。

 リプスティアはリシアシェールにぐっと顔を近づけると、必死に問いかけた。

 

「リシアシェール様! どうか教えてください! どんな魔道具が使われたのか、どうすれば突き止められるのですか!? そのためならわたし、どんなことでもしてみせます! なんでもおっしゃってください!」

「お、落ち着いてくださいリプスティア様! まずは席に座ってください、お願いします」


 なだめられ、リプスティアは席に着く。

 ひとつ大きく深呼吸して、手をつけてすらいなかった紅茶を口にする。心休まる心地よい香りだった。だが、彼女の熱くなる気持ちを抑えるほどの効果はなかった。

 

 リプスティアがひとまず落ち着いたと見て、リシアシェールは口を開いた。

 

「実は調査は行き詰っていたのです。異常な魔力を感知してから、夜会の会場内で軽く聞き込みをしましたが、これと言った収穫はありませんでした。

 魔道具の使用者と思しきヴィナディクティア嬢に聞いたところで答えないでしょうし、その効果を受けた可能性の高いクレディオール様も同様でしょう。

 でも、リプスティア様が協力してくださるのなら、打つ手はあります」

「なにをすればいいんですか?」

「罠を仕掛けましょう」


 ニッコリと、邪気の無い笑顔で。リシアシェールは、そんな提案をしたのだった。




 翌日の放課後。学園に設えらえた談話室でリプスティアは一人待っていた。

 午前中の授業の休み時間。ヴィナディクティアの机に、手紙を入れておいた。そこにはこう書いた。

 

「先日の婚約破棄について調べる中、あなたの不正に気付きました。二人で話し合いたいと思います。本日の放課後、談話室A-5でお待ちしています。 子爵令嬢リプスティアより」


 そして今、手紙で指定した談話室で待っているのだ。

 結局のところ、聞き込みによる調査は行き詰っていた。そこで乱暴な手だが、魔道具の使用者本人と思われるヴィナディクティアに、ゆさぶりをかけることにしたのである。

 

 はたして、ヴィナディクティアは来るのだろうか。リプスティアはそこまでは期待していなかった。

 後ろ暗いことがあれば、彼女は何らかの動きを見せるはずだ。リシアシェールは今、ヴィナディクティアの動向を監視している。そこで何らかの手掛かりをつかむのが本命だった。


 談話室で待つ間、リプスティアの頭を占めるのはクレディオールの事だった。

 彼がもし、魔道具で意思を捻じ曲げられているとしたら。彼の見せた、感情を見せないあの表情。あれはリプスティアへの愛を隠すためのものだったのではないか。

 

 彼のことを愛していた。ずっと見てきた。それなのに、彼が苦しんでいたことにすら気づけていなかったのなら……リプスティアは自分のことを許せないと思った。なんとしても、彼のことを救いたいと思った。

 決意を新たに、ひとまずは落ち着こうと、淹れておいた紅茶を口にした。さっき淹れたばかりのはずだったのに、すっかり冷めていた。どうやら考え事をしていたら、思ったより時間が過ぎていたようだった。

 

 その時、ドアをノックする音が響いた。

 まさか、ヴィナディクティアが来たのだろうか。あるいは、リシアシェールが何かの報告に来てくれたのかもしれない。

 

「どうぞ」


 リプスティアが入室を促すと、ドアが開いた。颯爽とした足取りで、黒髪をなびかせ、一人の令嬢が入ってきた。

 子爵令嬢ヴィナディクティアだった。

 リプスティアは礼儀として、席を立ち貴族の礼をした。

 

「ごきげんよう、ヴィナディクティア様」

「ごきげんよう、リプスティア様」

「どうぞお座りください」

「ええ、そうさせていただくわ」

 

 自分も席に着きながら、リプスティアは不審の思いが沸き上がるのを抑えられなかった。

 なんの証拠もなく、婚約破棄の不正を指摘する内容の手紙を送った。彼女の身が潔白であるなら、名誉を傷つけられたと憤っていることだろう。逆にもし、後ろ暗いことがあるのなら、警戒して恐れながら来ることだろう。

 そもそも、あんな手紙での呼び出しだ。何らかの罠を疑うのが当然だ。

 

 だが今のヴィナディクティアは実に堂々としていた。わずかな緊張は感じられる。こちらを見る目に警戒する様子もうかがえる。だが、怒りも恐れもない。まるで何が起きようと構わないと思っているような、そんな自信が感じられるのだ。

 

 リプスティアはホストとしてヴィナディクティアに紅茶を出した。自分の紅茶も淹れ直した。

 お互いに紅茶を一口して、話の準備が整ったところで、ヴィナディクティアは手紙を取り出した。


「おかしな手紙をいただきました。これは本当にリプスティア様の出したものですか?」

「ええ、間違いなくわたしの出したものです。先日の突然の婚約破棄、不正があったものと考えています。異常な魔力が感知されたとの知らせから、夜会の場で何らかの魔道具が使われた可能性を考えています」


 リプスティアはいきなり本命に切り込んだ。

 この談話室には、あらかじめリシアシェールが音声を記録する魔道具や、魔力の流れを感知する魔道具が仕込まれている。会話はあとで確認できる。何らかの魔道具を使えば、その魔力が記録として残る。

 ヴィナディクティアが本当に来るのは予想外だった。だがそれなら、リプスティアは正面から問い詰める覚悟を決めていた。それでヴィナディクティアから少しは秘密を引き出せるかもしれない、リシアシェールと協力して記録を調べれば、彼女の企みを暴けるかもしれないのだ。

 

 リプスティアの真剣なまなざしを受け止め、しかしヴィナディクティアは余裕を持った態度を崩さない。

 

「まったく、未練がましいですわね。あなたは婚約破棄を言い渡されたのです。あなたの愛は終わったのです。潔く諦め、新しい縁談でも探しなさいな。こちらで用意して差し上げてもよろしくてよ?」


 嘲るようなヴィナディクティアの言葉。先日はそんな彼女の態度に、リプスティアは激昂しかけた。

 だが今。リプスティアの心が揺らぐことはなかった。


「いいえ、その必要はありません。わたしの愛は終わってなどいません」

「まだわかりませんの? クレディオール様はあなたを捨てたのですよ! いい加減、受け入れなさい!」

「いいえ。クレディオール様は、『僕と結婚することで、君は不幸になってしまう』とおっしゃいました。ご自分のことではなく、わたしのことを案じてくださっています。わたしたちの愛は、まだ終わっていないのです」

「クレディオール様が、そんなことを……!?」

「クレディオール様がなぜ婚約破棄したかはわかりません。でも、何か事情があるのです。そして彼は苦しんでいるのです。なら、わたしはそれを知らなければなりません。だから教えてください。なぜあなたは彼と婚約することになったのですか?」


 リプスティアのひたむきな問いかけを受け、初めてヴィナディクティアの余裕の態度が崩れた。

 その顔は苦しみと悲しみに歪んでいた。

 ヴィナディクティアは席を立つと、リプスティアに人差し指を突きつけ叫んだ


「あなたがそんなだから、みんな不幸になるのです! あなたが諦めないせいで、あんなひどいことになったのです! あなたが、あなたが、あなたが! あなたが、全部、悪いんです!」


 憎悪に染まった声だった。怨嗟のこもった眼差しだった。

 だがリプスティアにはそれほどの憎しみを向けられる理由に思い当たらない。クレディオールとヴィナディクティアは幼少のころから交流があったことは知っていた。彼女がクレディオールに惹かれていることも気づいてはいた。だから、彼女がリプスティアのことを快く思っていないことはわかっていた。

 だが、この憎しみの深さは、密かに思っていた男性をとられたというだけでは説明のつかない、根深いものを感じさせられた。

 

 リプスティアがその理由を問いただすため、口を開こうとしたとき、唐突に談話室の扉が開いた。

 

「そこまでです! この談話室から異常な魔力を感知しました! お二人とも動かないでください!」


 その声とともに入ってきたのは、子爵令嬢リシアシェールと、その婚約者にして王国の騎士である青年・プロティードだ。

 リシアシェールたちの乱入は予定通りの事だった。

 談話室にヴィナディクティアを呼び込む。リプスティアが話をする。

 頃合いを見て、リシアシェールが婚約者の騎士プロティードと共に入室して、強制的に身体検査を行う。

 

「違法な魔道具を部屋に置いておいたりはしません。きっと肌身離さず持ち歩いているはずです!」


 それがシアシェールの推測だった。この罠によってヴィナディクティアの企みを暴くのだ。

 だがこれは、リスクの高い方法だった。もし、ヴィナディクティアが違法な魔道具を持っていなければ、名誉を傷つけられたとして激しく糾弾してくるだろう。貴族の名誉を傷つけたとなれば、軽い処分では済まない。その時は、すべての咎をリプスティアが負うつもりだった。

 これはそうした、一か八かの罠だったのだ。

 

 会話が激化したので、危険を感じてリシアシェールたちは来てくれたのだろう。

 この突然の闖入者に対して、ヴィナディクティアは驚きに目を見開いた。

 だがそれも一時の事だった。すぐに、あの余裕に満ちた微笑みを取り戻した。


「なるほど。罠であることは予想していましたが、騎士まで連れてくるとは思いませんでした。リプスティア様らしからぬ狡猾さ。確かめに来てよかったです。次はこの部屋には(・・・・・・・・)来ないことに(・・・・・・)しましょう(・・・・・)


 ヴィナディクティアは、懐からアミュレットのようなものを取り出した。

 彼女の手で包めるほどの小ささ。螺旋にねじれ、中央が細くなった紫色のガラスの筒。上面と底面には銀で作られた装飾でおおわれている。

 ガラスの筒の中には、銀色にきらめく粒が入っていた。どうやら砂時計のようだが、何かがおかしかった。リプスティアはその異常の理由に気づいた。中の砂が、重力に反して上側に張り付いているのだ。

 そしてなにより、異質かつ強大な魔力が感じられた。

 ヴィナディクティアはそれを逆さにした。すると、中の銀色の砂がさらさらと、『下から上へ』と昇って行った。その異常な動きと共に、異質な魔力は高まっていった。


「何をしても無駄です! この部屋には魔力感知の魔道具が仕掛けられていて、記録は別室のしかるべき場所に保存されています! それが強力な精神操作系の魔道具で、この場の人間すべてを服従させることができたとしても、逃げることはできません!」

 

 リシアシェールが制止の声を上げる。傍らで、騎士プロティードが剣の柄に手をかける。

 だが、ヴィナディクティアは止まる気配を見せない。

 なにかが、まずい。

 リプスティアはは立ち上がると、とっさにその紫の砂時計に触れた。


「なっ!? ダメですリプスティア様! 発動中の魔道具に触れるなんて……」


 リシアシェールの制止の言葉はすぐに聞こえなくなった。

 



 辺りの風景は一変した。

 そこは学園の談話室ではなく、砂嵐の真っ只中だった。

 辺りを包むように、銀色の砂が螺旋に渦巻いている。いつの間にか談話室の床ではなく、足元もまた銀色の砂で満たされていた。足元の砂も一つとして止まることなく、やはり渦巻くように動いている。だがその流れに足を取られることはなかった。砂が動いている感触すら伝わってこなかった。

 銀色の砂の渦巻く流れの中、その動きから外れているのは、魔道具に触れているリプスティアとヴィナディクティアの二人だけだった。

 

「正気ですか!? 発動中の魔道具に使用者以外が触れるなど、魔道具が暴走してもおかしくないのですよ!」


 ヴィナディクティアは驚きの声を上げる。

 だが、リプスティアの驚きはもっとずっと大きなものだった。


「ここは一体……この魔道具は、いったい何なのですか!?」

「あなたも巻き込まれてしまった以上、今さら隠し立ては無意味でしょう。この魔道具は我が家に伝わる秘宝『螺旋に乱す砂時計』。時間を遡ることのできる魔道具ですわ」

「時間を遡るですって!?」


 ヴィナディクティアへ仕掛ける罠の相談の最中、リシアシェールその可能性に触れてはいた。

 

「クレディオール様は、まだ結婚もしていないのに、そのあとに起こることを見てきたように語ったことについてですが……例えば彼が、未来から戻ってきたなら、その発言にも矛盾はありません。でも、何年も先の未来から戻ってこれる魔道具なんて、実在しているとは思えません。

 おおかた、ありもしない未来の出来事を見せて本物と信じ込ませる、精神操作系の魔道具でも使ったんじゃないですかね?」


 時間を遡るなんて信じがたいことだった。

 だが、リプスティアは直観した。砂時計の中の銀色の砂。それが時の流れを意味するものなのだ。今、目の前で渦巻く銀の砂は、おそらく時間の流れであり、その流れの外にある自分たちは、きっと時の流れを外れ、遡ることができる。

 銀色の砂の流れを見ていると、なぜかそんなことが、実感として理解できてしまうのだ。


「教えて差し上げます。この魔道具を使って、わたしとクレディオール様は十年後の未来から来たのです」

「十年後の未来!? それも、クレディオール様と!?」

「あなたと結婚したことをきっかけに、クレディオール様の伯爵家は、急激に没落するのです」

「そ、そんな!? ありえません! クレディオール様の伯爵家も、わたしの子爵家も、今は順調に領地を治めています! それが急に傾くなんてこと、あるはずがありません!」


 その言葉を受け、ヴィナディクティアは泣きそうな顔になった。

 

「黙りなさい! とにかく、あなたが結婚したことによって、クレディオール様は大変な苦労をすることになるのです! 領地はやせ細り、新事業に手を付けても失敗し、何度も何度も打ちのめされるのです! すべてあなたが悪い! あなたが悪いのです!」


 リプスティアは学業優秀な令嬢だった。学園でもその成績は上位にある。幼い頃から領地の経営についても両親から学び、それなりの知見はある。

 そんな彼女が、結婚した途端に家を傾けるほどの失敗をするなど、想像もつかなかった。

 だが、ヴィナディクティアは頑なで、リプスティアの否定の言葉など受け付けない様子だった。

 仕方なく、先の話を促すことにした。


「……それで、どうなったのですか?」

「十年後、あなたは死病に罹り、命を落としました。クレディオール様は深い絶望に沈みました。そんなあの人の姿を見るに見かねて、この魔道具『螺旋に乱す砂時計』で時を戻ることを申し出たのです」

「あなたの家には、こんな魔道具があったなんて……」

「本来、十年もの時を遡るような魔道具ではありませんでした。でもわたしはやり遂げたのです。あの方を、ずっとずっと、愛してきたのですから……」


 ヴィナディクティアの瞳が夢見るようにきらめいた。

 彼女の話は信じられない事ばかりだった。

 だが、それならば説明はついた。

 

 クレディオールは実際に、十年後の絶望を見たのだ。

 家の没落する中、クレディオールだけでなく、その伴侶であるリプスティアも相当な苦労をしたはずだ。彼はその姿を見続けてきたからこそ、これ以上、彼女の苦しむ姿を見たくないと、関係を断つことにしたのだ。

 なんて優しい人なのだろう。そして、なんて悲しい結末なのだろう。共に愛し合っているというのに、別れるしかないなんて……。


「なんとかならないのですか? 婚約破棄以外で、悲しい未来を避けることをできないのですか!?」

「なんて未練がましい! まだそんなことを言うのですか!?」

「クレディオール様が本当にしあわせになれるのなら、わたしは身を引きます! でも、あの方は苦しんでいるのです! 家が没落を免れようと、彼が苦しむのでは意味がありません!

 ヴィナディクティア様! 彼を愛しているのなら、彼が本当に幸せになる方法を、一緒に探しましょう!」


 リプスティアの必死な声に、ヴィナディクティアは顔を伏せ、身を震わせた。

 

「ヴィナディクティア様……?」


 リプスティアが声をかけると、ヴィナディクティアは弾かれたように顔を上げた。

 その瞳は憎しみに燃えていた。その顔は歪んでいた。怒りと憎しみと悲しさを、全てを限界まで混ぜたような、それは恐ろしい顔だった。

 狂おしい憎悪を目の当たりにして、リプスティアは息を呑んだ。


「あなたがそんなだから、私は救われないのです! あなたなんて、あなたなんて、あなたなんてーっ!」


 ヴィナディクティアの叫びと共に、辺りの銀の砂はより一層の流れを増し、そしてはじけるように散って消えた。



 砂の消えた後に見えるのは、暖かな明かり。顔が映りそうなほど磨き上げらえた床。ドレスと礼服。周囲から向けられる視線。ざわめき。

 これは憶えている。よく知っている。リプスティアは、自分が夜会の会場にいると、すぐさま理解した。服装もドレス姿だ。どうやら記憶を持ったまま、精神だけが過去に戻ってきたようだった。

 

 目の前にはクレディオールがいた。傍らにはヴィナディクティアがいた。

 クレディオールの感情を殺した顔を見て、全てを悟った。心臓がどくんと大きな鼓動を打った。

 これはあの夜会だ。婚約破棄を告げられた、あの夜会まで時を遡ってきたのだ。

 

 ヴィナディクティアを見た。彼女の瞳は語っていた。


『もう一度、婚約破棄を告げられて、今度こそ諦めなさい』


 ヴィナディクティアから知らされた未来。リプスティアと結婚すると、クレディオールの家は没落する。彼は大変な苦労をするだろう。

 彼女の言う通り、婚約破棄を受けて、彼から離れるべきなのだろうか。そうすれば少なくとも、家が没落する悲劇だけは避けられるのかもしれない。


 でも、だめだ。

 だってリプスティアにはわかってしまった。

 前の時はわからなかった。感情を押し殺したクレディオールの顔。その瞳に、深い悲しみがあることに、このとき初めて気づいたのだ。

 婚約破棄したところで、クレディオールは救われない。そのことをリプスティアは確信した。

 夜会という人々の前で宣言された婚約破棄は、容易には覆らない。言わせてはならない。どうにかして止めなければならない。


 だが、どうすればいいのだろうか。

 クレディオールは今にも口を開きそうだ。言葉で遮っても彼の決意は変わらないだろう。あるいは魔法でも使えば止めるだけならできるかもしれない。だが、そんなやり方は間違っている。何も解決しない。


 考える時間はなかった。クレディオールの口が開く。婚約破棄が宣言されてしまう。ヴィナディクティアが笑みを深めた。

 

 考えるより体が先に動いた。

 リプスティアはクレディオールの胸元に飛び込み、首を抱き、そして唇を重ねた。

 何よりも熱い口づけだった。身体じゅうが燃え上がるようだった。

 この熱だ。この熱さこそが、絶対に失ってはならないものだ。

 とっさに取った行動だった。だがこれこそが正解なのだと、熱せられた全身で感じた。

 

 リプスティアはそっと唇を離した。愛する人の顔が目の前にあった。クレディオールの顔は戸惑いに満ちていた。


「クレディオール様、わたしのことを見てください!」


 クレディオールがじっとリプスティアを見つめた。たちまち、クレディオールは目を潤ませた。深い悲しみがその顔を占めた。

 

「ダメなんだリプスティア……僕たちはこんなことをしてはならないんだ。僕と結婚すると、君は不幸になってしまうんだ……」

「そんなことはありません!」

「ああ、リプスティア。君にはわからないだろう。僕は見てきたんだ。知っているんだ。僕と結婚することで、辛い目に遭う君の姿を……!」

「確かにわたしには未来のことなど分かりません。つらいことがあるのでしょう。苦しいこともあるのでしょう。でも!」


 リプスティアは両手でクレディオールの頬を挟むと、下がりかけていた視線を彼女の方に向けさせた。

 そしてまっすぐに彼の瞳を見つめ、心の底から叫んだ。

 

「あなたと離れ離れになるよりつらく苦しいことなど、この世にあるはずがありません!」


 リプスティアは愛する人の胸に顔を押しあて、力一杯抱きしめた。


「あなたのことを愛しているのです。どうかおそばにいさせてください……」

 

 クレディオールは、しばらく手を彷徨わせていた。視線もまた、定まらなかった。

 だがすぐに、あきらめたように目を閉じた。そして、愛する者をその胸の中に、力強く抱きしめた。


「ああ……そうだ。その通りだ。僕が間違っていたんだ。すまない、リプスティア。君のことを愛している……愛しているよ……」


 二人はお互いを確かめ合うように、強く、強く抱きしめ合った。

 愛し合う二人を止められるものなど、誰にもいないように思えた。

 だがそこに、声をさしはさむ者がいた。


「リプスティア! あなたはっ!」


 目を向けると、そこにはヴィナディクティアがいた。

 クレディオールに寄り添ってたはずのヴィナディクティアは、いつの間にか二人から離れた場所に立っていた。

 その手には禍々しい魔力を放つ魔道具『螺旋に乱す砂時計』がある。

 異質な魔力の高まりを感じる。今にも発動しそうだった。

 

 だが、リプスティアは動かなかった。止めようとすら思わなかった。

 ヴィナディクティアが何度時間を遡り、何をしようと、二人が引き離されることはない。今はそのことを、何より信じることができた。

 そのまっすぐな瞳に見据えられ、ヴィナディクティアはひるんだ。顔を青ざめさせ、その顔は絶望に染まった。

 その時だ。

 

「きゃあっ!?」


 悲鳴を上げ、ヴィナディクティアは倒れた。『螺旋に乱す砂時計』もその手から落ちた。


「違法な魔道具の使用は、この私が許しません!」

 

 その背後には、メガネの令嬢リシアシェールがいた。どうやら彼女は、雷系の魔法を使って、ヴィナディクティアを気絶させたようだった。


「さあプロティード、来てください! 違法な魔道具使用者を確保するのです!」

「ああもう! 君はなんでそう、いきなり勝手にそんなことをするんだ! これで勘違いだったりしたら承知しないぞ!」


 リシアシェールの婚約者にして騎士・プロティードが鎧姿で駆けつけてきた。

 おそらく、ヴィナディクティアは不測の事態に備えて『螺旋に乱す砂時計』をいつでも使える状態にしていたのだ。

 最初の婚約破棄の時は、実際に使用するところまで至らなかった。だからリシアシェールも、その魔力を感知してはいても、その発生源を特定できなかった。

 今回は起動寸前まで魔力を高め、しかし取り出しておきながら使用を躊躇った。だからリシアシェールに感知され、止められることとなったのだ

 

 こうして、リプスティアにとっての二度目の婚約破棄は、宣言されることなく終わったのだった。

 

 


「あの魔道具『螺旋に乱す砂時計』は、ヴィナディクティア嬢の家系の者にしか使えない特殊な魔道具でした。彼女の家の者であっても、実際に使用できた者は少なかったようです。

 本来はひと月に一回、だいたい三日ほどの時を戻るのが限界だったようです。それだけでもかなり強力な魔道具と言えます。

 それをあそこまで使いこなし、十年もの時間遡行を成し遂げたヴィナディクティア嬢は、異常な適性があったと言わざるをえません」


 リプスティアにとって二度目の婚約破棄が未遂に終わってから、一週間も過ぎたころ。

 学園の談話室には四人が集まっていた。

 子爵令嬢リプスティアとその婚約者である伯爵子息クレディオール。

 そして子爵令嬢リシアシェールと、その婚約者である騎士プロティード。

 

 あの事件の情報共有のため、こうして四人で集まったのだ。

 話はまず、リシアシェールによる魔道具『螺旋に乱す砂時計』の説明から始まっていた。


「強力かつ有用な魔道具だったので、長きにわたってヴィナディクティア嬢の家で秘匿され、有事の際には使用していたようです。彼女の家の爵位は長らく男爵でした。それが先代で子爵まで昇りつめたのは、どうやら彼女の父が、あの魔道具を有効活用した結果だったようです。

 まさに家を支える秘宝だったのです。それがまさか夜会の現場で使用しようとして発覚することになるとは……世の中、何が起こるかわからないものですね」


 魔道具の説明をそう結び、リシアシェールは紅茶を口にした。

 次に口を開いたのはクレディオールだ。

 

「それで、彼女の罪はどうなるんだろうか?」

「彼女の罪は、『夜会の場で違法な魔道具を使用しかけた』ということだけです。現時点では、半年ほどの自宅謹慎と言うことに話がまとまりそうです。ただ、魔道具についてはあまりに危険であるため、魔法省が封印するという話が進んでいるとのことです」


 クレディオールの問いかけに答えたのは騎士プロティードだ。

 彼はこの件で直接ヴィナディクティアの捕縛したことで、彼女のその後の動向についても知っていたのだ。

 

「そうか。彼女は、僕を救おうとしただけなんだ。魔道具のことは彼女の家にとっては大きな痛手だろう。だが、彼女自身はあまり重い罪にならなくてよかった」


 クレディオールはほっと胸をなでおろした。


「まあ! 婚約者と引き離そうとした令嬢に対して、ずいぶんお優しいのですね」

「それがクレディオール様の素敵なところなのです……」


 驚くリシアシェールに対して、リプスティアが答えた。愛する人を褒めているのに、どこかリプスティアの声は暗かった。リシアシェールは首をかしげたが、きっとヴィナディクティアとは複雑な関係なのだろうと納得して、追及はしなかった。

 

 事件のその後のことについて話終え、四人はしばし紅茶を楽しんだ。

 そんな中、リシアシェールが疑問を投げかけた。


「実は、少し気になる事があるのです。まず、わずか十年でクレディオール様の家が没落してしまうということです。少し調べた限りでは、クレディオール様の家は堅実な領地経営をなさっているようでした。領民からの信頼も篤いと聞いています。それがたった十年で没落するなんて、普通はありえないことです。

 それに、『お二人が結婚して家が没落する』という、ヴィナディクティア嬢の言葉も気になります。これもまた不自然です。

 クレディオール様は人柄もよく成績優秀な方ですし、リプスティア様も優秀な令嬢です。結婚したら没落するなんて、因果関係がどうにもよくわからないのです」

「……だが、どれも本当のことだ。私の家は、リプスティアとの結婚をした時期から、落ちぶれていった。民の暴動を皮切りに領地はやせ細り、挑んだ新規事業はことごとく失敗し、坂道を転げ落ちるように力を落としていったんだ。まるで見えざる悪魔が、私の家の足掻きをひとつずつ潰していくようだった……」


 リシアシェールの疑問に、沈痛な顔でクレディオールがつらそうに答えた。

 騎士プロティードに肘で小突かれると、リシアシェールは慌てて頭を下げた。


「配慮に欠けた質問でした! 申し訳ありません!」

「いや、どうか頭を上げてほしい。家の没落は、僕が見てきた未来だ。そんな未来を至らないよう、目をそらしてはいけないことだ。いちいち暗い顔をしてはいられないな」


 クレディオールはパン、と両手で顔を叩いた。そして笑顔を見せた。痛々しくも、しかし力強い笑顔だった。


「まあ、なんて素敵な笑顔でしょう……って痛い! 何をするんですかプロティード!?」


 またしてもプロティードが肘でリシアシェールを小突いたのだった。プロティードは面白くなさそうな顔をしていた。婚約者が他の男を褒めるのが気に入らない様子だった。リシアシェールはそんな彼の心のうちがわからないのか、頬をふくらませた。

 

 婚約者たちの微笑ましいやりとりに、場の空気がわずかに和んだ。だがそんな中、リプスティアだけが暗い顔をしていた。

 

「どうしたんだ、リプスティア?」

「リシアシェール様。あなたは確か、魔道具『螺旋に乱す砂時計』の鑑定にも携わっていたのですよね?」


 心配したクレディオールには答えず、リプスティアはリシアシェールへと質問を投げかけた。


「ええ、わたしは事件に立ち会いましたし、興味もありましたからね。無理を言って直接関わらせてもらいましたよ」


 リシアシェールはそう謙遜するが、彼女は魔道具の世界では名の知れた研究者である。無理に参加したのではなく、請われて鑑定したことを、リプスティアは把握していた。

 だからこれからの質問に確実に答えてもらえると確信していた。

 

「『螺旋に乱す砂時計』を鑑定した結果、ヴィナディクティア嬢が使用したおおよその回数もわかったはずです。それはおそらく、数十……いえ、百を越える回数だったのではないですか?」

「! はい、そのとおりです。どうしてわかったんですか!?」


 リシアシェールの答えに、リプスティアは目を伏せた。その表情の暗さに、リシアシェールは何かを察したようだった。「まさか」と口中で呟くと、すぐさま立ち上がった。

 

「そ、そうでした! 用事があるのを思い出しました! 申し訳ありませんが、これで失礼いたします! ほらプロティード、行きますよ!」

「なんなんだ急に、まだ時間はあるはず……」

「空気読んでください! そんなんだから、女性にモテないんですよ!」

「な、なんだと!? 君にだけはそういうことを言われたくないぞ!」


 リシアシェールはプロティードを引っ張らるようにして、あわただしく談話室を去っていった。

 部屋にはリプスティアとクレディオールが残った。

 

「リプスティア、君はなにかに気づいたようだが、どうか教えてくれないか? 君のためにも、僕自身のためにも、家の没落は何としても避けなくてはならない。その手掛かりになりそうなことであれば、なんでも知っておきたいんだ」

「申し訳ありません。確証のあることではないのです。今はまだお話しできません。ですが……時期が来れば、必ずお話しします」

「そうか。君がそう言うなら……」


 クレディオールは納得がいかない様子だったが、顔を俯かせて暗い声で語るリプスティアのことを気遣い、それ以上の追求はやめた。

 しばらく、沈黙が続いた。

 そんな中、ぽつりとリプスティアが口を開いた。

 

「クレディオール様。教えてください。あなたの見た十年後のわたしは、どんなだったでしょうか?」

「ど、どんなと言われても……」

「そんなに不幸に見えましたか?」

「……ああ。不幸に見えた。落ちぶれ続ける家立て直そうとする僕を、君は献身的に支えてくれた。ずいぶんと苦労をかけた。資金は底をつき、毎日の食事も満足にできなかった。病に罹っても、ろくに医者に見せることもままならず……君は枯れ木のように痩せて細っていったんだ……」

「でも、わたしはあなたと別れたいとは言わなかった。そうですよね?」

「ああ、そうだ……僕のことを見限って別れれば、君だけは救われたかもしれない。でも君はそんなことを一言も言わなかった。僕が勧めても耳を貸さなかった」

「ならわたしはしあわせだったのです。死ぬまであなたと共にいられたのですから、あなたの見た未来のわたしも、しあわせに違いなかったのです」


 クレディオールは感極まったように目を見開いた。その瞳はうるんでいた。

 彼は愛するリプスティアを抱きしめた。


「ありがとう。そう言ってもらえると救われた気持ちになる。でも、あんなことになってはならない。決して、あんな未来はあってはならないんだ」


 抱きしめられるとしあわせな気持ちになる。暖かさに泣きそうになる。

 クレディオールは優しくて、まっすぐな人だ。

 きっと家が没落した未来でも関係ない。この人の隣にいられたのなら、自分はしあわせだったのだと、リプスティアは改めて信じることができた。


 だからこそ確信した。

 そんな二人の姿が、ヴィナディクティアを凶行に走らせたのだ、と。




 その日の晩。

 リプスティアは一人、寮の自室の窓から、明かりもつけず夜空を眺めていた。

 その頭の中を占めるのは、今日の談話室で得た確信。ヴィナディクティアが『なにをしたか』についてだ。

 

 クレディオールから、家の没落する過程については、婚約破棄不発の後、何度か聞いていた。


 モンスターの襲撃に対応中、兵力の薄い地で起きた領民の暴動が起きる。

 凶作に備え、備蓄しておこうとした食品ばかりが、タイミングを合わせたように急激に暴騰する。そしていざ凶作が訪れたとき、備蓄が足りず対応が後手に回る。

 新規事業に手を出せば、まるでそれを読んでいたかのように他の貴族に先に取られる。


 ……そんなことばかりだった。クレディオール様の家の没落は、まるで誰かの手により、ことごとく先手を打たれていたようだった。クレディオール自身も『まるで見えざる悪魔が、私の家の足掻きをひとつずつ潰していくようだった』とこぼしていた。

 

 すべては偶然かもしれない。だが、必然とする手段はある。

 『螺旋に乱す砂時計』だ。未来の情報を持って過去に戻る魔道具なら可能だ。

 その持ち主であるヴィナディクティアならばできることだ。もともと彼女の家は、『螺旋に乱す砂時計』で成り上がったのだ。未来を知ることで、敵対貴族を没落させることにも長けていたことだろう。

 リシアシェールによれば、『螺旋に乱す砂時計』は100回以上も使用した形跡があるという。そこまで繰り返し使用した理由も、その推測に合致することだった。逆に、100回以上も使用していながら、クレディオールが落ちぶれるのを『防げなかった』ことの方が、不自然とさえ言えた。

 

 ヴィナディクティアならば可能だとして、その動機は何か。

 愛する人の家を落ちぶれさせるなど、普通なら考えもしないだろう。だが愛する人の隣に、他の女がいるなら話は別だ。

 おそらくヴィナディクティアは、リプスティアとクレディオールの結婚と同時に攻撃を仕掛けたのだ。そして、結婚がきっかけで家が落ちぶれたと、クレディオールにそれとなく伝えたのだ。そうすることで、二人が別れるように仕向けたのだろう。

 

 全ては推測に過ぎない。だが、リプスティアはまず間違いないと、確信に近い思いを抱いていた。

 リプスティアには、ヴィナディクティアの考えが手に取るようにわかるのだ。なぜなら、彼女も同じだからだ。

 

 短い時間だったが、リプスティアもまた、愛する人を失う苦しみを知った。そして、リシアシェールと出会い、罠をかける誘いを持ちかけられると、躊躇うことなくその話に乗った。

 なんの抵抗もなく、罪悪感すら抱くことなく。人を疑い、害する作戦を実行したのだ。

 もし、クレディオールを恋敵にとられ、『螺旋に乱す砂時計』のような魔道具が自分の手にあったなら……自分はきっと同じことをしてしまう。リプスティアはそう考えずにはいられなかった。

 

 十年後の未来。リプスティアの死に絶望するクレディオール。

 ヴィナディクティアはこの未来を避けるために、過去に戻ることを提案する。その条件として、自分と婚約することを持ち掛ける。クレディオールはそれを承諾する。

 

 どれだけ打ちのめしても、二人の絆は崩せなかった。死別してもなお、クレディオールのリプスティアへの愛は変わらない。

 ヴィナディクティアはどんな想いだったのだろう。

 自分が同じ立場なら、どのように感じたことだろう。想像するだけで、リプスティアは胸が張り裂けそうな思いだった。

 

 ヴィナディクティアのやったことは絶対に許せないことだ。どんな理由があろうと、クレディオールをあそこまで苦しめるなんて、絶対に間違っている。それが頭ではわかっていても、彼女の気持ちがわかってしまうがゆえに、憎みきることができない。

 

 だが、どれだけ気持ちがわかろうと、どれほど報われぬことを悲しく思おうと……ヴィナディクティアを救うことはできない。

 リプスティアはクレディオールを愛しているのだ。彼を手放すことなどできはしなかった。

 そしてクレディオールもまた、ヴィナディクティアを救えない。隣にリプスティアがいる限り、彼がどれだけ手を差し伸べようと……それはヴィナディクティアを傷つけることにしかならない。

 

 ヴィナディクティアは諦めないだろう。『螺旋に乱す砂時計』を失っても、彼女の想いが終わったわけではない。これからも何らかの干渉をしてくるに違いない。10年後の未来を知り、それを最大限に活用してくる彼女は、リプスティアにとって強大な敵となる。

 いずれ戦う時が来る。その時は、ヴィナディクティアの為したであろうことを、クレディオールに話さなくてはならない。


 だから、今夜だけだ。

 彼女のことを悲しむのは、今夜だけにする。

 そう心に決めて、リプスティアは夜空の下、一人静かに涙を零した。

 

 

終わり

最後まで読んでいただきありがとうございました。

楽しんでいただけたなら幸いです。

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