交わらない愛
父のことが好だ。
家族としての「好き」じゃない。
一人の男性として、明かな恋愛感情で、好き。
自分の気持ちを自覚したときのことは、はっきりと覚えている。母が亡くなって、四十九日が過ぎた頃。自分にとって唯一の肉親が、いなくなったとき。
南桜は、そろそろいいかも、と思い始めていた。
父に、自分の気持ちを打ち明けてもいいかも。
桜は現在、高校三年。
父と血が繋がっていないことも、すでに知っている。自分は母の連れ子なんだ、と。
母は、二十歳のときに桜を産んだ。
実の父親がどんな人なのか、桜は知らない。名前も顔も知らない。どんな経緯があって母と別れたのかも知らない。
桜が物心ついたときにいたのは、すでに今の父だった。実の父親ではなかった。
桜は、昔から父が大好きだった。たまに叱られるけど、優しい。頑張ったときは、温かい手で頭を撫でてくれる。ギュッって抱き締めてくれる。
クラスの中には、自分の父親の悪口を言う子もいる。けれど桜は、父の悪口を言ったことは一度もなかった。
だって、大好きなんだから。
桜と同じように、生前の母も父が大好きだった。仲睦まじい夫婦だった。愛情を確かめ合うように、毎日抱き締め合っていた。毎日、キスをしていた。
「お父さん! 私にも!」
父と母が抱き合ってキスをしているところを見ると、桜は、必ず同じ事を要求した。
「桜は甘えん坊だな」
微笑ましい顔をして、父は、桜の頬にキスをした。抱き締めてくれた。
大好きなお父さん。誰よりも大好きなお父さん。
そんな父が実の父親ではないと知ったのは、桜が十一のときだった。
母の葬儀のとき。母は三十一の若さで病死した。
父が、実の父ではない。その事実を桜に告げたのは、父の親戚だった。彼の父方の叔母。彼と血が繋がっているなんて思えないくらい、意地が悪い人。
父の叔母は、葬儀の席で桜を呼び出し、こっそりと告げた。嘲るように。
「あんたは、お父さんとは血が繋がってないんだよ」
「あんたの母親は、お父さん以外の男の子供を産んだの。それがあんた」
「あんたの母親は、夫以外の男の子供を産むような女だったんだよ」
吐き出された無慈悲な言葉を証明するかのように、父の叔母は、戸籍を桜に見せてきた。
戸籍上で桜と線で繋がっているのは、母だけ。父とは繋がっていなかった。親子ではない、という証明。
嘲る父の叔母の前で、桜はボロボロと涙を流した。母を失った悲しみと、父が本当の父親ではないという絶望。頭がおかしくなりそうだった。
私の家族は、もういない。ひとりきりだ。
顔をクシャクシャにして、泣きじゃくった。
涙を流す桜の前で、父の叔母は楽しそうに笑っていた。人の不幸を楽しむ、下劣な笑顔。
葬儀のとき、父はずっと泣いていた。母の遺体を前に、泣き続けていた。その涙が、彼の気持ちを物語っていた。どれほど深く、母を愛していたか。どれだけ母が大切だったか。
泣き続ける父を見ていると、桜の心が激しく痛んだ。その痛みの正体が何なのか、自分でも分からなかった。悲しみと同時に、怒りを感じるような痛み。暴れたくなるような痛み。何もかも滅茶苦茶に壊したくなるような、痛み。
母の遺体が火葬され、遺骨となった。喪主である父は、悲しみに目を潤ませていた。大切そうに、骨壺を抱えていた。
桜は、母のことも好きだった。父と母のどちらが好きかと聞かれれば、父と答えただろう。それでも、母のことも大切で、愛していた。
それなのに。
桜の心の中で、強い怒りが芽生えていた。父の胸の中で大切そうに抱えられている、母の遺骨。それを、叩き落としたくなった。叩き落として、中身をぶちまけて、粉しか残らなくなるまで踏みつけてやりたくなった。
母の葬儀からしばらくの間、桜は、その感情を持て余した。母の遺骨を捨ててやりたいと思った。母の遺骨を大切に扱う父を、殴りたくなった。もちろん、そんなことはしなかったが。
桜は、母の四十九日が過ぎるまで、父に辛辣な態度をとり続けた。母の遺骨に手を合わせ、母への想いを告げる父に対して。ときに毒のような言葉を吐き、ときに罵った。吐き気のするような苛立ちをぶつけるように。
母の四十九日になって、遺骨が寺の仏壇に移された。
自宅から、母の遺骨がなくなった。
母が、完全に自宅からいなくなった。
その日、父は目に涙を浮かべながら、桜を抱き締めた。
「お母さんを助けられなくて、ごめんな」
桜を抱き締める父の腕に、力が入る。いつもより、抱き締める力が強い。
「これからは二人きりだけど、頑張って生きていこうな。お母さんの分も、頑張って生きよう」
父の肩は、震えていた。辛そうに。苦しそうに。死者とは一緒にいられない。別れのときがきた。その悲しみが、彼の声には込もっていた。
そんな父の体温を感じて。母を想う父の気持ちに触れて。
桜は、たった十一歳の感性で自覚した。自分の気持ちを。自分が、血の繋がらない父に向けている感情を。
お父さんの気持ちが、欲しい。愛されたい。もっと愛されたい。子供としてじゃなく。娘としてじゃなく。
お母さんのように、愛されたい。
──私は、お父さんが好きなんだ。
だから、父が母にキスをすると、自分にもして欲しいと要求した。だから、母を失って涙を流す父を見ていると、腹が立った。だから、母の遺骨を大切に抱える父を見て、苛立った。
嫉妬していたんだ。ずっと、お母さんに、嫉妬していたんだ。
自分の気持ちを自覚すると、桜は、父に辛く当たるのをやめた。母はもういない。父の心の中に住み続けているだろうが、もう、自分達の間には入って来られない。
二人だけの生活。毎日、二人きり。
成長するごとに、桜の気持ちは強くなっていった。父が好き。大好き。誰よりも好き。
父と桜は本当の親子ではない。それを桜が知っていることを、父は知らない。
だからしばらくは、この親子ごっこを続けよう。娘として父に甘え、抱き付き、キスをしよう。成人してから、本当のことを伝えよう。お父さん、私、知ってるんだよ。血が繋がってないって、知ってるんだよ。
本当の親子じゃないんだから、何だってできるんだよ。
中学生になってから、桜は、たったひとりにだけ打ち明けたことがある。父と桜が、本当の親子ではないことを。中学のときに友人となった、新田幸平に。
幸平の母親は、父の高校時代の同級生だそうだ。シングルマザーの家庭。その家庭環境に親近感を覚えて、知り合ってすぐに仲良くなった。
桜は、幸平を恋愛対象としては見ていない。ただの、親友と呼べる異性。気が合うだけではなく、誠実で優しかった。だから秘密を話した。
「私とお父さん、血が繋がってないんだよね。死んだお母さんの連れ子なの、私。まあ、お父さんは、私がそれを知ってるって、気付いてないけど」
だから私は、将来は、お父さんと一緒になりたいんだ。お父さんの子供を産んで、本当の家族になりたいんだ。
そんな本心は、もちろん口にはしなかった。いくら親友でも、そこまでは話せない。
──今は、まだ。
◇
桜が好きだ。
自分の気持ちを自覚したときのことを、幸平は、はっきりと覚えている。
あれは中学二年のときだ。昼休み。給食の時間。
給食は、クラスメイトそれぞれが、好きな席で好きなように食べる。ひとりで食べて、残りの休み時間を昼寝をして過ごす人がいる。同性の友人同士で集まる人もいる。付き合っている恋人と食べる人だっている。
幸平は、いつも桜と給食を食べていた。一年のときにクラスメイトになって、席が近くなって話すようになった。互いに片親だと知ってから、すっかり仲良くなった。親友と言っていい。周囲には付き合っていると思われているようだが、そんな事実はなかった。
桜は親友。ただの、仲の良い異性。幸平にとっては、それだけだった。
少なくとも、その日までは。
幸平は、桜に、どことなく大人びた雰囲気を感じていた。中学生とは思えない、精神的に大人びた雰囲気。クラスメイトが「誰と誰が付き合っている」とか「誰と誰の関係が怪しい」なんて話していても、特に興味を示すことはなかった。誰かのゴシップを冷やかしなどしなかった。
そんな桜が、その日、ふいに幸平に言ってきた。
「あのね、幸平」
「なんだ?」
「私のお母さん、私が五年生のときに死んじゃったんだけどね」
「うん、知ってる」
「それで、ね。私と幸平、両方とも片親でしょ? 私にはお父さん、幸平にはお母さん」
「ああ」
給食のパンにシチューを付けて口に入れる。パンに染み込んだシチューを味わいながら、幸平は桜の話を聞いていた。
「でもね、ちょっと違うんだ」
「違うって、親の性別がか?」
冗談めかしに言葉を返した。ウチのお父さん、本当はお母さんなんだ。そんな返答なんてあるはずがないと、知りながら。牛乳パックに刺さったストローに口を付ける。
「馬鹿」
桜は少しだけ笑うと、どこか切なそうな顔になった。
「あの、ね」
「うん?」
「私ね、お父さんと血が繋がってないの」
「……は?」
予想外の言葉だった。幸平は、牛乳パックに刺さったストローから、口を離した。
「どういうことだよ?」
「言葉の通りだよ」
幸平は以前、桜が父親と一緒にいるところを見たことがある。ショッピングモールで、一緒に買い物をしていた。普段の彼女からは考えられないくらいに、父親に甘えていた。腕なんか組んで、楽しそうだった。学校では見せない明るい笑顔の彼女が、そこにはいた。
「私とお父さん、血が繋がってないんだよね。死んだお母さんの連れ子なの、私。まあ、お父さんは、私がそれを知ってるって、気付いてないけど」
そう言った桜の口元は、笑みの形をしていた。しかし、目は笑っていなかった。切なそうに細められた目は、潤んでいた。長いまつげ。目尻から、滴がこぼれそうな目。
幸平の目の前にいるのは、自分と同じ歳の少女だ。十四歳。中学二年。けれど、その瞳は、年相応という言葉から大きくかけ離れていた。遠い場所にあるものを、求めるような。遙か遠くに離れてしまった恋人を、想うような。
愛し合いたいのに、愛し合えない。そんな痛みが宿った瞳。
桜は、父親のことが好きなんだ。親としてではなく、男として。
幸平はそのことに、すぐに気付いた。桜の表情。以前見た、父親と一緒にいるときの彼女の様子。自分の推測が正しいと判断するのに、状況証拠は十分だった。
気付いた瞬間に、幸平の喉や胸が苦しくなった。食べ物が詰まったような苦しさ。すぐに牛乳パックのストローに口を付けて、一気に飲んだ。だけど、その詰まるような苦しさが消えることはなかった。
胸焼けのような違和感。詰まるような苦しさ。呼吸は問題なくできる。ただ、心拍数が多くなっている。ドクンドクンッと刻む心臓の動きが、必要以上に速い。
幸平は、じっと桜を見た。そこに、親友だと思っていたクラスメイトは、いなかった。何でも気楽に話せる親友は、声を掛けることすら躊躇うほど美しくなっていた。
声を掛けることすら躊躇ってしまうのに、近付きたい。その頬に触れたい。唇に触れたい。
矛盾を孕む感情が、幸平の心の中で大きくなってゆく。
「そんなにビックリした?」
目の前の綺麗なクラスメイトが、微笑みながら聞いてきた。もう親友とは思えない、クラスメイト。でも、ただのクラスメイトじゃない。
「あ、うん。驚いた」
驚いたのは、桜と父親の血が繋がっていない、ということにじゃない。幸平の心臓の動きが、さらに速くなる。
俺は、こんな綺麗な女といつも一緒にいたのか。どうして今まで気付かなかったんだ? どうして、こんな綺麗な女と、今まで緊張もせずに話せていたんだ?
──その日の夜。家に帰って、幸平はようやく自覚した。俺は桜が好きなんだ、と。好きになったのだ、と。あの、潤んだ瞳を見て。
自分以外の誰かを想う、桜の表情。その姿が、綺麗すぎて。
桜と離れたくないと思った。一緒の高校に進学したい。だから、彼女と同じだけの学力を得るため、必死に勉強した。
自分の恋敵は、桜と一緒暮らしている。共にできる時間は、幸平が圧倒的に不利だ。
でも、自分にだって強みはある。
自分は、桜の父親という立場じゃない。桜の父親は、彼女を娘として見ているだろう。けれど、自分は女として見ている。これから先も長い時間を共にしていけば、逆転は十分にあり得る。
桜が、長い時間をかけて、決して叶わない恋に見切りをつけて。最終的に、一番近くにいる同世代の男の手を取って。
その「一番近くにいる同世代の男」に、自分がなればいい。
必死に勉強をした幸平は、無事に桜と同じ高校に進学できた。クラスは別々になってしまったが、今でも、昼休みの度に顔を合わせ、一緒に昼食を食べている。
大学だって、桜と同じところに進学するつもりだ。どこまでも追いかけて、いつでも一緒にいてやる。現実的とは思えない恋に、彼女の気持ちが冷めるまで。彼女の心に、入り込む隙ができるまで。
──高校三年になった。秋。十月三日。
今日は、桜の誕生日だ。幸平は、毎年、この日に、彼女を遊びに誘う。好きな人の誕生日を、祝いたくて。好きな人が歳を重ねる瞬間を、共有したくて。
しかし、毎年断られる。
「お父さんと過ごすから」
毎年、同じ理由で。
それは今年も変わらなかった。
毎年、少なくない落胆の気持ちを抱えながら、それでも幸平は諦めていなかった。来年こそは。いつか、桜の誕生日を一緒に過ごしてやる。毎年、一緒に過ごすようになってやる。
今年の桜の誕生日も、幸平は一人で下校した。
帰宅して、勉強。桜と同じ大学に進学するために、学力はできるだけ上げておきたい。
午後九時過ぎに、母親が仕事から帰宅した。
ここ数年、母親は、帰宅が遅くなることが多くなった。幸平が中学生になるくらいまでは、午後七時には帰宅していたのに。ある時期を境に、週に二日ほど午後九時や午後十時に帰宅するようになった。さらに遅いときは、午後十一時を過ぎることもあった。
「一応、昇進はしてるからね。その分だけ、仕事が増えたの」
母はそう言っていた。まだ社会に出ていない幸平は、そんなものなのか、と思うしかなかった。
母は帰宅すると、すぐに、幸平に話を持ち出した。
「幸平。少し大事な話があるの。勉強中断して、聞いてくれる?」
「ああ。何?」
座り込んで、母が話した内容。
それを聞いて、幸平は驚いた。再婚を考えている相手がいるという。
もちろん反対はしない。母は苦労しながら、女手一つで幸平を育ててくれた。そんな彼女が幸せになれるというなら、大賛成だ。
母は、まだ三十八歳。新しい人生を歩み始めてもいい年齢だ。
「で、相手の人はどんな人なの? いい人なんだよな?」
幸平の心配は、それだけだった。母の結婚相手は、どんな男なのか。変な男でなければいいが。
「幸平も、たぶん知ってる人」
母は、少し照れ臭そうに笑った。
「私の、高校時代の同級生でね」
その後に続いた母の言葉に、幸平は目を見開いた。
◇
若い頃は、男を見る目がない。
歳を重ねるたびに、新田由美はそんなことを思う。
現在、三十八歳。若くして産んだ息子の幸平は、もう十八になる。高校三年。
幸平には、元夫のような男にはならないでほしい。彼の成長を日々見守りながら、由美は常にそんなことを思っていた。
由美が幸平の父親と付き合い始めたのは、高校三年のときだった。今の幸平と同じ歳の頃。
元夫は、いわゆる不良だった。周囲の弱い者を虐げ、学校の授業も真面目に受けず、遊び歩いていた。
そんな元夫を、当時はなぜか格好いいと思っていた。今にして思えば、だが──若い頃は、強さを見せつける男に惹かれてしまうのだろう。自然の世界で生きている動物のメスが、強いオスを求めるように。たとえその男が、性悪であっても。
元夫は、性欲が旺盛だった。そのくせ、避妊の仕方はいい加減だった。避妊具を着けたことなど、一度もなかった。計画外に妊娠してしまうことも、思い起こせば当然だと言えた。
由美は、十九歳の若さで幸平を身籠もった。
腹の中に自分以外の命を宿したとき、由美の考え方は大きく変わった。動物のメスが求める強さではなく、我が子を守れる強さを求めた。働き、生活してゆく力。家族を支える力。
妊娠後に由美が求めた力の程度で言えば、元夫は最弱と言えた。バイトを始めても続かない。「朝起きるのがかったるい」などという冗談のような理由で無断欠勤をする。どんな仕事をしたところで、続くはずがなかった。
さらに元夫は、由美が妊娠中に、他の女を妊娠させた。動物のオスとしては強いであろう彼は、繁殖力も高かったわけだ。
由美はすぐに、元夫に見切りを付けた。家族どころか、自分ひとりの生活を支えることさえできない。そのくせ、外では無駄に繁殖する。そんな盛りの付いた獣のような男は、子育ての邪魔にしかならない。
離婚はあっさりと成立した。盛りのついた元夫は、妊娠してセックスを拒否する由美に興味を示さなくなっていた。
元夫の両親も交えて養育費のことを話し合ったが、期待はしていなかった。自分の生活費も稼げないような男に、養育費など払えるはずがない。その予想は、見事に的中した。養育費は、一度も支払われなかった。
由美は両親の助けを借りて幸平を産み、パートをしながら独学で勉強をした。介護福祉士の資格の勉強。パート先は、介護病棟のある病院だった。
二十五歳のときにケアマネージャーの資格を取ると、収入が安定してきた。元夫とは似ても似つかない優しい子に育ってゆく幸平が、心の支えになっていた。
幸平が中学二年のときの三者面談で、高校時代の同級生に再会した。南聡史。真面目で成績優秀で、優しい人だった。
高校時代は、聡史のことを地味な人としか思っていなかった。童顔で頼りない。その程度の印象。大人ぽくなったものの、相変わらず彼は、可愛いと言える顔立ちをしていた。
聡史も、由美のことを覚えていた。彼は、由美が自分のことを覚えていたのが意外だと言った。
「新田さん、美人だし目立ってたからね。俺のことなんて、覚えてないと思ってた」
優しく、どこか可愛い笑顔は、昔のままだった。聞くと、彼にも幸平と同じ歳の娘がいるのだという。
昔話に花が咲いた。思えば、高校生の頃は、馬鹿な彼氏を格好いいと言って周囲に自慢していた。それが今では、養育費も貰えずに一人で息子を育てている。あの頃の思い出は、黒歴史と言っていい。幸平を授ったことだけが、唯一の喜びだ。
由美の話を、聡史は優しげな表情で聞いてくれた。
「でも、息子さんが支えになってくれてるんだろ? それなら、結果オーライじゃないかな」
そう言って、聡史は続けた。
「俺も、シングルファザーなんだ。娘がいるから、妻を亡くしても、なんとか生きていられる。娘が、自分の支えになってくれているんだ」
聡史の言葉は優しさと誠実さに溢れていて、とても嘘には聞こえなかった。
昔の自分は馬鹿だった。こんな人がすぐ近くにいたのに、その魅力に気付けなかったなんて。
その日を境に、由美は、聡史と連絡を取り合うようになった。最初は、子供のことに関する相談や雑談。その話題は、いつしか、自分達のことに変わっていった。
由美と聡史が男女の関係になったのは、幸平が中学を卒業する直前だった。
二人ともこんな歳だし、子供もいるから、将来を考えた付き合いをしよう。でも、再婚するなら、子供達が手を離れる頃──高校を卒業してからにしよう。
二人で話し合って、そう決めた。
聡史の娘の秘密も教えてもらえた。彼の実の娘ではない。亡くなった妻の連れ子。
実の父親は、まだ十代だった娘の母親を唆し、妻がいながら逢瀬を重ねるような男だったそうだ。
その話を聞いたとき、由美は、もう亡くなっている聡史の娘の母親に、妙な親近感を覚えた。若い頃は、ろくでもない男を格好いいと思ってしまう。
同時に、感じてしまった。もしかしたら聡史は、由美に、亡くなった妻の面影を見ているのではないか、と。ろくでもない男に惚れ、妊娠し、一人で我が子を育てることとなった。そうなって初めて、本当の意味で強く生きられるようになった。
それでもいい、と思えた。たとえ聡史が、亡くなった妻の面影を見ていても。それでも彼は、自分を愛してくれている。血の繋がらない娘を愛しているなら、幸平のことだって、愛してくれるだろう。
何より、由美自身が聡史を愛していた。
──由美と聡史が付き合い始めて、もうすぐ三年になる。
幸平達も、もう高校三年になった。
今日は、十月三日。聡史の娘の誕生日だ。
つい先ほどまで、由美は聡史に会っていた。逢瀬を過ごすためではない。今後のことを話すため。
聡史が言っていた。今日──娘の誕生日に、彼女に全てを話すと。再婚の話も、出生のことも。
由美も、今日、再婚の話を幸平に告げると伝えた。
不安はある。互いに、ふたりだけの家族を築いてきた。母と息子。父と娘。そんな別々に築いてきた家族が、ひとつになれるのか。子供達は、賛成してくれるのか。納得してくれるのか。
少なくない緊張を抱えて、帰宅後に、由美は幸平に話を持ち出した。
「幸平。少し大事な話があるの。勉強中断して、聞いてくれる?」
「ああ。何?」
由美は、幸平に、再婚を考えていることを話した。再婚相手の名前や、どんな人なのか。彼に娘がいることも。
話を聞いた幸平は驚きで目を見開いた後、嬉しそうな顔になって賛成してくれた。
「俺は賛成だよ。全然文句なんてない。俺、桜と仲いいし。ひとつ屋根の下で暮らしても、やっていけるよ」
親しい友人と義理の兄妹になることが、そんなに嬉しいのだろうか。それとも、由美と聡史の結婚をそれほど祝福してくれているのだろうか。そんな疑問が由美の頭に浮ぶほど、幸平は喜び、賛成してくれた。
反対されなくてよかった。
あとは、聡史の報告を待つだけだ。
◇
南聡史は、桜を愛している。
何よりも大切な娘。
たとえ、血が繋がっていなくても。
愛した人の、忘れ形見。
聡史は今年で三十八になった。どこにでもいる会社員。二十代後半に見えるほど外見は若いが、中身はすっかり年相応だった。社会的地位も収入も、年相応。つまり、どこにでもいる中年。
どこにでもいる中年と違うところと言えば、たった一人の家族である娘と、血が繋がっていないことくらいか。
聡史は、二十一のときに結婚した。大学在学中の学生結婚だった。妻は、同じ歳の朱音。彼女の連れ子が、桜だった。結婚当時、桜はまだ一歳だった。
朱音は十九で桜を身ごもり、二十歳で産んだ。
桜の父親は朱音の上司で、既婚者だった。
上司との関係が明るみに出ると、当然のように、朱音は会社をクビになった。自主退職という名目ではあったが。
桜の養育費は貰えなかった。慰謝料を請求されない代わりに、養育費を請求しない。それが、上司の妻が出した示談条件だったそうだ。
そんな朱音の過去を全て理解した上で、聡史は彼女と結婚した。
「妻との関係は冷え切っていて、今は離婚に向けて話し合っている」
ありがちな、不倫男のセリフ。そんな上司の言葉を、若さ故に信じてしまった朱音。
その過去を責める気にはなれなかった。批難すべきは、まだ十代の朱音を唆した上司だ。そう思っていた。
結婚後、朱音は絵に描いたような良妻賢母になった。パートをしながらも家事は完璧。娘に対する深い愛情。男に騙され辛酸を飲まされた彼女は、その過去を経て、賢く貞淑な妻となった。
朱音と同じように、聡史も桜に愛情を注いだ。
聡史が朱音と結婚したのは、桜が物心つく前。
聡史と血が繋がっていないことを、桜は知らないはずだ。
それなら、桜は俺の娘だ。誰がなんと言おうと。そう、聡史は思っていた。
桜も、聡史の愛情を受け入れた。聡史によく抱き付いてくる、甘えん坊になった。
ある時、意地の悪い聡史の叔母が、朱音を侮辱したことがあった。桜が三歳のとき。若くしてシングルマザーとなったことに対して、ふしだらな女だ、と。
幸いなことに、その言葉は、桜の耳には入っていなかった。
とはいえ、殴りかかりたいほど腹が立った。愛する妻を侮辱されたのだから、当然だ。だが、聡史は堪えた。
俺は父親なんだ。感情に任せて暴力を振るう父の背中を、娘に見せるわけにはいかない。
その時以来、聡史は、親戚付き合いを極力避けた。毒のような言葉を吐く者達を避けることで、朱音や桜と幸せに暮らせた。
結婚後の夫婦生活について、朱音と話したことがあった。桜に自立心が芽生えるまでは、子供は作らないでおこう。話し合って、そう決めた。
聡史には不安があった。もし、自分と血の繋がった子ができたら、桜を差別して扱ってしまうかも知れない。
だから、桜に自立心が芽生え、親を煙たく感じるくらいの歳になるまでは、子供は作らないでおきたかった。
朱音も、聡史の意見を尊重してくれた。聡史との子を欲しそうにしていたが。
「あなたの子を産むときは、高齢出産になっちゃうね。でも、待ってる」
そう言って聞き入れてくれた。
しかし、その約束が果たされることはなかった。
桜が十一歳のとき。
朱音は、三十一歳の若さでこの世を去った。病死だった。
日に日に痩せ細りながらも、朱音は、聡史や桜の前では常に笑顔を見せていた。苦しい顔なんて見せなかった。辛そうな素振りなど、微塵も表さなかった。
ただ、息を引き取る三日前に、悲しそうに、申し訳なさそうに、聡史に言っていた。
「あなたの子、産みたかった。ごめんね、約束、守れなくて」
朱音が息を引き取とると、聡史はシングルファザーとなった。
朱音の死後、少しの間だけ、桜が反抗期のようになった。母親を亡くして寂しかったのか。悲しかったのか。
その両方だろう、と聡史は思っていた。だから、桜の吐き出す棘のような言葉にも激高せず、彼女を落ち着かせるよう務めた。
そんな桜の反抗期もすぐに落ち着き、彼女はすくすくと成長していった。もっとも、甘えん坊なところは、いつくになっても変わらなかったが。
桜が中学を卒業する少し前。聡史に、恋人ができた。
桜の友人の母親。聡史の高校時代の同級生だった。桜の中学の三者面談で、偶然再会したのだ。
付き合いながら、恋人──由美と話し合った。再婚するのは、子供達が高校を卒業してからにしよう。伝えるのは、子供達が十八歳になるまで待とう。成人を迎えるまで。それまでは、内緒にしよう。
──あれから数年。桜は高校三年になった。
今日は、十月三日。桜の誕生日だ。
聡史は会社から定時で退社し、由美と会った。逢瀬を過ごすためではない。彼女に、伝えるためだ。
「今日は、桜の十八の誕生日なんだ。だから、話そうと思う。君との再婚のことも、桜と俺の血が繋がっていないことも」
聡史は、心に決めていた。
桜の、十八歳の誕生日に。
由美と再婚する話と同時に、桜に、出生の秘密を伝えよう、と。
今はまだ自分の出生のことを知らないであろう、桜。けれどいつか、成人し、大人になったときに、戸籍等で知ることになるだろう。少なくない衝撃を受けるだろう。
それならば、せめて、自分の口から伝えよう。
聡史の話に、由美は頷いた。
「じゃあ、私も、帰ったら幸平に話すね。あなたとの再婚のこと」
二人で軽い食事をして、別れて、聡史は帰路についた。帰り道で、桜の誕生日ケーキを買った。
桜は十八になった今でも、誕生日は必ず聡史と過ごす。彼氏がいる気配はない。
でも、やっぱり、好きな男くらいはいるんだろうな。できれば、誠実な奴と付き合って欲しいな。実の父親のような不誠実な男に、騙されなければいいが。
父親としての心配は尽きない。
仮に桜が、朱音のような境遇になったとしても。許されない恋の末に、不義の子を産むことになったとしても。それでも聡史は、温かく迎え、支えるつもりでいた。最終的に幸せになってくれれば、それでいい。幸せになって、できれば、長生きしてほしい。少なくとも自分よりは、長く生きてほしい。
そんなことを考えながら、聡史は帰宅した。
「ただいま」
「おかえり! お父さん」
帰宅すると、いつものように桜が抱き付いてきた。いくつになっても、この子は変わらないな。甘えん坊で、すぐに抱き付いてくる。さすがに、中学生になった頃から、キスはしなくなったが。
「ただいま、桜」
抱き付いている桜の背中を、聡史はポンポンと叩いた。大きくなった。あと二年もすれば、二十歳になるんだ。朱音が桜を産んだ歳。
「桜。今日は大切な話があるんだ。聞いてくれるか?」
再婚のこと。そして、本当の親子ではないこと。
「何の話?」
聞きながら、桜はギュッと強く抱き締めてきた。
「大事な話だよ。だから、ちょっと離れて座ってくれないか」
「はーい」
桜は少し残念そうに、聡史から体を離した。甘えん坊で、まだまだ子供のような娘。血は繋がっていないけど、何よりも大切な娘。
リビングのテーブル席に、桜と向かい合うように座った。買ってきたケーキを皿に乗せて、紅茶を入れて。
ゆっくりと、丁寧に、聡史は伝えた。由美との再婚のこと。本当の親子ではないこと。
たとえ血が繋がっていなくても、俺は、桜が大好きだよ。何よりも誰よりも大切な娘だよ。
話し終える頃には、桜の瞳に、大粒の涙が浮んでいた。ボロボロと涙を流して、泣きじゃくった。
実の親子ではないということが、そんなに悲しかったのか。
想像以上に悲しむ桜の姿に、聡史は、ただただ戸惑った。必死に彼女を慰めた。いつものように、彼女を抱き締めて。
桜は聡史の胸の中で、何度も繰り返した。泣きながら、何度も何度も繰り返していた。
「お父さん、大好き。大好きなの」
◇
聡史と由美は、翌年の四月に結婚した。
二組の二人家族は、一組の四人家族になった。
それから二年後には、ひとり増えて五人家族になった。
増えた家族は。
産まれた赤ん坊は。
誰と誰の子供か──