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「……一応聞いておきますけれど、これは何の真似ですの?」
無表情で抑揚のない声音で、タベルナリウス侯爵令嬢が言った。
自分の足元に叩き付けられた手袋を見ながら。
あの、色を失った様子はおそらく、怒りを通り越して一時的に全ての感情が抜け落ちてしまったとかだろう。
しかし怒っているのはルイーゼも同じだ。
こちらはただ、クラスメイトに迷惑をかけたくないだけだというのに。
何故それでこちらが怒られなければならないのか。
しかも教師でもクラスメイトでもない、他のクラスの大貴族に。
正直なところ、親の七光りで偉ぶっているお嬢様が、格下をいじめる口実に適当な理由をでっちあげたようにしか思えなかった。
そんな理不尽な存在に屈するわけにはいかない。
女手ひとつでルイーゼを育ててくれた母が亡くなる前は、それなりに苦労をして生きてきたつもりだ。
当然学校などに通った事はなく、家庭教師もいない。
しかしいつか何かの役に立つからと、読み書き計算や王国の歴史などの基本的な知識は母に与えてもらった。母は昔はどこかの貴族の家で働いていたとかで、そこらの町人よりずっと物を知っていた。
ルイーゼに勉強を教える分、母が働ける時間は少なくなる。
そのため生活は困窮していた。時にはルイーゼも子供ながらきつい日雇いの仕事で金銭を稼がなければならなかったほどだ。
しかしそうした無理がたたってか、ルイーゼの母は夭折する事となった。
そして現れた、身なりの良い自称『義母』の女性。
ルイーゼの母が貴族家で働いていたのは事実だった。
そしてルイーゼは、他ならぬその貴族の隠し子であるという。
身勝手な実父には思うところがないでもないが、いずれにしても未成年のルイーゼひとりでは生きてはいけない。
ルイーゼを引き取る用意があるという自称義母の申し出を受け、正式にヘロイス子爵家の長女となった。
貴族としての生活は、ある意味では大変だった。
特に大変だったのは何のためかもわからない礼儀作法の勉強だ。人が生きていくためにこんなものがどこで役に立つのか全く理解できなかった。
しかしそれを含めたとしても、大人に混じって働いていた平民時代の方が遙かに苦労していた。
読み書き計算などの教養も、母に教わっていたおかげでさほど苦労する事は無かった。
新しい母は自分の子供でもないルイーゼにもよくしてくれた。
学園に通わせなければ貴族社会で孤立する事になってしまうと実父を説得してくれたのもこの人だった。
学園に通う事に特に価値を見いだせなかったルイーゼだったが、優しくしてくれる義母が行った方がいいと言うので通う事になった。
礼儀作法についてはまだ怪しいところがあるが、もう矯正している余裕は無い。
また他人との距離感についても平民と貴族ではかなり認識に差があるが、その辺りも感覚的に理解するだけの時間が無かった。
そこだけが心配だから孤立しないよう気を付けるように、と義母に送り出された王立学園。
しかし義母が心配していたような状況にはならなかった。
ルイーゼが編入する事になったのは第二クラス。子爵家以下の貴族子女と、影響力の高い一部の平民の子供が混在するクラスだ。
そうした環境であるためか、思ったほど浮いてしまうような事は無かった。
クラスの皆は優しいし、ルイーゼに気を使ってくれる。
特に平民階級の商家の子などはいつも笑顔で話しかけてくる。
これまでの人生では見た事もない、素晴らしい環境と、素晴らしい仲間たちだ。
しかし学園にいるのは、素晴らしい仲間ばかりではないらしい。
伯爵以上の大貴族が在籍する第一クラス。
特にルイーゼに良くしてくれる大商人の子が言うには、ここには鼻持ちならないいわゆる典型的な嫌な貴族がたくさんいるらしい。
タベルナリウス侯爵令嬢はその筆頭だそうだ。
実際、ルイーゼも編入以降何度か廊下や食堂などで注意を受けていた。
やれ走ってはいけないとか大口を開けて笑ってはいけないとか、どれもこれもどうでもいいような些細なことばかりだ。ただ揚げ足を取りたいだけとしか思えない。
そして極めつけに今回のこの件である。
侯爵令嬢が言うには、ルイーゼがこうも自分勝手な行動をするのは、本来諌めなければならないクラスメイトの怠慢のせいなのだそうだ。
自分だけならばまだしも、仲間たちまで悪く言うとは。
侯爵令嬢からすれば第二クラスは確かに格下の集まりなのかもしれないが、だとしても何を言ってもいいわけではないはずだ。
「あら、侯爵家の娘さんともあろう人が、手袋の意味も知らないの?
これは決闘の合図よ。タベルナリウスさん。私はあなたに決闘を申し込むわ!」
ルイーゼの宣言に、場がいっそう騒然とした。
第一クラスの方から聞こえる言葉の中には、ルイーゼの宣言の内容よりも言葉遣いを責めるようなものも混じっている。本当にくだらない。
しかし手袋を投げつけられた当のタベルナリウス侯爵令嬢は相変わらずの無表情で手袋を見下ろしているだけだった。
これまでの感情的な物言いからは打って変わって静かな様子には不気味ささえ感じるが、自分から手袋を投げつけておいて取り下げるわけにはいかない。
決闘とは貴族にとって神聖で侵すべからざる行為であり、軽い気持ちでやっていいことではないからだ。
しかし同時に、決して許す事が出来ない時には躊躇せず手袋を投げるべきである。
ルイーゼは例の大商人の子からそう教わっていた。
しばらく足元の手袋を見ていた侯爵令嬢だったが、やがてようやく顔を上げた。
「──まさか、これをお止めにはなりませんわよね。オットマー先生」
手袋を投げつけた本人、目の前のルイーゼを無視するように教師に話しかける侯爵令嬢。
これはおそらく、侯爵家という実家の強大な力を背景に圧力をかけているのだろう。
こんな事態を前にして、止めないつもりなのかと。
侯爵令嬢たる自分が怪我をするかもしれないというのに、教師のお前はただ見ているだけかと。
冷めた視線で教師を睨むように射る侯爵令嬢の瞳からは、そんな言葉が聞こえてくるようだった。
送り出してくれた義母からは、この王立学園は素晴らしい所だと話を聞いていた。
だからルイーゼもどこかで期待していた。
教師が圧力に屈しない事を。
しかし現実は非情だった。
「いや、そりゃ止めるに決まってるが。聞いてるぞ、フランツだって止めたんだろ。むしろ止めない理由がない」
あろうことか、オットマーという教師は侯爵家に忖度して、ルイーゼの叩きつけた決闘を止めようとしたのだ。
そしてルイーゼに改めて向き直り、諭すように話しかけてくる。
「あー。ええと、ルイーゼ嬢。どこでそんな事を覚えたのかは知らないが、決闘というのは貴族にとっても重要な意味を持つ行ないだ。軽々しく口に出していいことじゃあない。この場には俺以外に未成年しかいないから俺が自動的に立会人になっちまうが、学園という閉じられた場所で起きた事だし、今のは見なかった事にする。だからだな──」
あまつさえ、侮辱された側であるルイーゼに矛を収めろと言ってくる始末である。
話にならない。
「オットマー先生。申し訳ありませんが、私は退く気はありません! たとえ大貴族と言えども、それが他人を虐げていい理由にはなりません!」
「──は? いや、今そんな話してたか? それとも俺たち教師が知らないところで誰か虐げてたりするのか、ユールヒェン嬢は」
「ありえませんわ。この娘の妄想です」
タベルナリウス侯爵令嬢はそう言い捨て、ため息をつきながらルイーゼが投げつけた手袋を拾い上げた。
どうやら観念したらしい。
「この通り、叩き付けられた決闘状は私ユールヒェン・タベルナリウスが確かに受け取りました。オットマー先生。立会人として、なすべき事をなさってください」
するとオットマーも諦めたように首を振り、力無く決闘の成立を宣言した。
そうして3人で話し合った結果、決闘は一週間後の放課後に行なう事となった。
一週間の猶予を言いだしたのはオットマーだ。侯爵令嬢もルイーゼを見ながら当然だと言う風に了承していた。
おそらく時間稼ぎだろう。その間に何か策を練ってくるに違いない。
しかし負けるわけにはいかない。
この決闘にはお互いの名誉だけでなく、この学園で過ごす全ての力無き人の無念もかかっているのだから。
おめめぐるぐる系ヒロイン。
今さら思ったんですが女性キャラの扱いが酷い作品ですね(




