5-10
「──『隠者』よ。貴方に任務を授けます」
秘密結社アルカヌムの3つある拠点のうちのひとつ。
4年ほど前、エレミタはそこで『女教皇』からとある命令を受けた。
名目上は最高幹部22名が同格とされている結社ではあるが、非公式ながら立場の上下はある。
その中でもこの『女教皇』は『愚者』や『魔術師』と並んで、別格の存在である。
その理由は、彼女たちこそがアルカヌムを結成したとされているからだった。
アルカヌムの歴史は古い。
もちろん表側の歴史書に出てくる事はなかったが、大きな事件や政変の影には必ず結社の姿があった。
インテリオラ王国ではそれほど目立った活動はしていないが、オキデンス王国はもはや事実上結社の支配下にあると言えるし、メリディエス王国でも最近の政変は全て結社の手が入っている。
そんな結社の生みの親だ。
それが未だ健在であるなど、普通に考えれば有り得ない事ではある。
しかし少なくとも、エレミタが物ごころついた頃には『女教皇』はすでにこの姿でこの椅子に座っていた。
「難しい任務になりますが、貴方になら任せられるでしょう。いえ、貴方にしか出来ません。
大陸の北の果て、マルゴー。その調査、請けてくれますね、エレミタ」
ぼんやりとしか認識できない仮面の向こうで、『女教皇』がかすかに笑う。
確認のようだが、実際は強制だ。
結社に育てられたエレミタにとって、『女教皇』の言葉は絶対だった。拒否権などない。
失敗すれば命はない。
いや正確に言うならば、失敗するくらいなら自ら命を断て、とそう言われた。
これは当然の事だ。
敵に捕まるようなヘマをして、結社の情報を抜かれるわけにはいかない。
だがエレミタにとっては無用の心配だ。
これまでエレミタはミスなどした事がなかった。
マルゴーとやらは世間では恐れられた場所のようだが、いかほどのものか。
どれほど領軍が強かろうが、どれほど警備が厳しかろうが、見つからなければどうということはない。自分のスキルは隠れる事に特化している。問題は何もない。
◇
ただ、具体的に何を調査すればいいのかを知らされなかったのは少々困った。
『女教皇』が言うには、結社の悲願たる「異界の扉」。それを開く鍵になり得る「異界の魂」がマルゴーにはあるという。
その異界の魂が誕生したのは、この時より十年ほど前。
それを知覚出来るのは『女教皇』だけであり、これまでは間違いがないか彼女自身が慎重に調べていたようだが、ようやく確信を得たとの事だった。
あるいは潜入調査が得意なエレミタが成長するのを待っていたのかもしれない。
先代の『隠者』から名を継いだのはつい最近の事だ。
エレミタは常々先代より自分の方が優れていると思っていたが、どうやらそれは『女教皇』も同じだったようだ。
とにかく、マルゴー領に潜入し、異界の魂を調べてくるのが今回の任務だ。
雲をつかむような話だが、一応ヒントはある。
『女教皇』の話では、異界の魂を持つ者は、その魂に秘められた異界の知識を披露せずにはいられないらしい。
偶然や無知によるミスを装い、事あるごとにその知識を周囲に伝え、広めていく。
そういう存在であるようだ。
であれば、必ず周囲から浮き、目立っているはず。
そういう人物を探し出し、可能なら攫う。
不可能なら、気付かれぬようマークする。
エレミタにとっては簡単な任務だ。
そのはずだった。
◇
「──なるほど。この程度か。それだけ洗練された動きをしていながらこの程度の力しかないのなら、マルゴーの者じゃないな。よかった、父上か兄上の回し者かと思ったよ。
で、君はどこの人なのかな。そういえば、その仮面も少し興味があるな。
よし、こうしよう。
君は仮面を置いて去る。もちろん、ここで僕と会った事は口外しない。そうしたら見逃してあげよう。
どうだい。悪い取引じゃないと思うんだが」
何とか警備を掻い潜り、ようやく辿り着いたマルゴー家の屋敷の屋根で出会った青年は、恐ろしいまでの使い手だった。
まず、気づいたら片腕を折られていた。
パニックになりかけながらも咄嗟に飛びすさると、片足に衝撃が来た。
おそらく何かがかすっただけだと思われるが、直撃していれば足も折れていただろう。
そしてあのセリフである。
どうやらエレミタの正体まではわかっていないらしい。
しかし、だからと言って安心はできない。ここで捕らえられてしまえば結社まで辿られてしまうかもしれない。
仮面を置いて去ると言うのも論外だ。
顔を見られてしまうし、仮面から結社の存在に気付かれるかもしれない。
任務は明らかに失敗だ。
仮面を破壊しつつ、自害するしかない。
いや、まだだ。
まだ不意打ちを食らっただけだ。
相対しての戦闘ならば、まだ勝ち目はある。
これでも結社では最速で幹部まで上り詰めた男なのだ。
◇
「──おーい。どこ行ったんだい。さっきのはたぶん致命傷だから、放っておいたら死んでしまうよー。
まあ、僕としては仮面も手に入ったし別にいいんだけど。でも、何かの間違いで父上か兄上に僕の事を漏らされたら事だな……。
仕方ない。探して止めを刺すか。【感知】によると……この辺りにはもういないのか。ずいぶん足が速いな。一応森の方まで見に行ってみるかな──」
青年は屋根から去って行った。
全く歯が立たなかった。
腕を折られた初撃。あれは不意打ちなどではなかった。
彼は普通に攻撃をしただけだった。ただエレミタが全く反応できなかったというだけで。
相対して戦闘し、嫌というほどそれがわかった。
見てから回避するのは不可能だ。見えた時にはすでに攻撃を食らっているからだ。
勘で避けるしかない。
しかしそれでは全てを回避する事は出来ない。
避けきれない攻撃をいくつももらい、ついには致命傷を受けてしまった。
そこで体勢を崩し、屋根から転げ落ちた隙を利用して、最後の力を振り搾り【隠遁窟】を発動した。
このスキルは発動時に対象にした全ての者を、外部から認識できなくするスキルだ。
術者が大きく動くと解除されてしまうため、隠密行動に使う事は出来ない。
しかし身を潜めるだけならばこれ以上のものはない。相手ではなく自分に対して発動するスキルであるため、自分が抵抗しないのなら必ず成功するところも、格上を相手にしてやり過ごすのに適している。
もっとも、その相手が【隠遁窟】さえ見破るほどの眼力を備えていたなら、スキルが成功したところで無意味だが。
だが今回はそうではなかったようで、無事に青年の【感知】も潜り抜ける事ができたらしい。
青年がいなくなり、そのプレッシャーから解放されたエレミタは、自分が屋根から落ちてきたその場所を首だけを巡らせて見まわした。もう身体の方はぴくりとも動かない。
屋根から地面まで落ちていたらそこで死んでいたかもしれないが、ここはどうやら屋敷から張り出したバルコニーのようだ。
出血し、ぼうっとする頭で考える。
エレミタは自分は強いと思っていた。
もちろん、『剛毅』や『戦車』のような脳筋と直接ぶつかれば勝てはしない。しかしそうだとしても時間稼ぎくらいは出来るだろうし、そうしている間に場を整え、自分に有利な戦況に変えて逆転するくらいなら造作もない事だ。
ところがそんなエレミタでも、あの青年の口ぶりからすると、マルゴーの人間と比べると見て分かるほど劣っているらしい。さすがに一般人よりは強いと思いたいが、少なくとも青年の言うところの「父上や兄上の手の者」とは比べるべくもない。
エレミタはこれまで、結社の任務最優先でそれ以外の情報はすべてシャットアウトしてきた。
しかし、マルゴーに連なる者が異常に強いという程度の事なら、少し調べればすぐにわかるはずだ。エレミタのような工作員を多数抱えている結社であればなおさらだ。
そして『女教皇』はその結社の全てを掌握しており、当然エレミタの実力も熟知している。
つまり彼女は、エレミタがマルゴーに勝てない事を誰より知っている。
捨て駒にされたのだ。
別れ際の、失敗すれば命はない、という言葉。あれはエレミタを鼓舞するためのものではなく、そのまま直球で「失敗して死んでこい」という意味だったのだ。
エレミタの死を呼び水にして、何かを釣り出そうとしたのだろうか。
それはあの青年か、それとも別の何かか。
いや、もはやどうでもいい事だ。
血を流し過ぎたらしい。ぼうっとするのを通り越して、意識が朦朧としてきた。
おそらくもう、助からない。
このまま死ねば、いずれ供給する魔力を制御できなくなり、スキルは自動的に解かれるだろう。
そうすれば、誰かがエレミタの死体を発見するはずだ。
せいぜいあの仮面とこの死体を調べ、結社まで辿りつくといい。
育ててもらった恩を忘れた事はないが、捨て駒にされた怨もまた、死んでも忘れないだろう。
◇
「──誰か知りませんけど、ベランダで寝るのはよくないですよ。あれ、お腹押さえてますね。お腹痛いんですか? 痛いの痛いの飛んでけーとかしたら治りますか? って、そんなの治るわけないですね。
え、治った? じゃあ仮病なんじゃないですかまったく。いいですか。仮病で人の気を引こうというのは美しい行ないではありませんから、やめた方がいいですよ。
それより、早くどこかへ逃げた方がいいです。ここは私のベランダなので、たぶん家の誰かに見つかったら酷い目にあわされてしまいますから──」
兄上がサイコパス系の敵幹部みたいになってる(




