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「……なるほどな。ワシのジョークか」
ツァハリアスの顔から表情が消えた。
いつも好々爺前とした柔らかなものを湛えていただけに、その落差には薄寒さすら感じる。
誰が見てもわかる。
絶対に怒っている。
そしてツァハリアスはちらりと私の方を見た。
はいごめんなさい。うちのポンコツがすみません。でも叱らないであげてください。ふざけてるわけじゃないんですたぶん。普段は真面目な子なんです。今も大真面目です。それがなおさらいけないんでしょうけど。
よほどかそうして謝ってしまいたい気に駆られたが、それも妙な話だし、すでに落ちつつある兄の威厳をさらに落としてしまう事になる。
私はただ、ツァハリアスの冷え切った視線に耐えるしかなかった。
「……じつは、な」
ツァハリアスが語りだす。
視線は依然、私を捉えたまま。
「しばらく前から、気づいてはおった。ミセリア嬢だけがただひとり、ワシの授業で笑顔を浮かべておらんことはな……」
馬鹿な。
私ひとりだけ、だと。
では私以外の全員は、あのオヤジギャグで笑っているというのか。
いや違う、馬鹿なのはそこではない。
ツァハリアスが兄の世迷い言を真に受けて普通に対応している点だ。
ジョークの方向性など、授業を止めてまで発言するほど重要なことだとは思えないのだが。
いやいや、ツァハリアスはこれでも教師という職務に並々ならぬ誇りを持った立派な方だ。
そんな、オヤジギャグが受けていないからといって、それだけであんな全ての感情を失ってしまった殺し屋みたいな顔をするはずがない。
「ワシももう、長いことこのスタイルで教鞭をとってきた。それなりに自信もある。しかし、もしかすれば、時代が変わりつつあるという事なのかもしれん。
いつの日か、ワシのジョークセンスは古いものとして、悪い意味で笑われてしまう時が来るかもしれん。今はその過渡期ということなのかもしれんな」
そう言われると大事のような気がしてくる。
が、根本的な話として、別にジョークは授業に直接関係しない。
現にフランツなどの他の教師たちはそういうやり方はしていない。もっと粛々と授業を進めている。
何にしても、兄の頓珍漢な意見であったが、思っていたほどおかしな言い分でもなかったようだ。
私は安心し、少し気を抜いた。
「うむ。うむ。これは参考になるな。実に重要な意見、まことに助かった──
──などと言うと思ったか! 貴様の役目は何だ! 学生たちの学習する様子を査察する事のはずだ! ワシのジョークなどどうでもよいわ! というか、余計な御世話だ!
ハインリヒ・マルゴー! 廊下に立っとれ!」
「ぴっ」
油断していて変な声が出てしまった。
恥ずかしくて顔を覆っていた両手は、ツァハリアスの様子が思っていたものと違った事で徐々に下がり、口元を覆う程度になっていた事が幸いし、その声は周りに聞こえるような事はなかった。隣に座るグレーテル以外には。
「……ちょっと、貴女なんていうか、そうやってちょいちょいポイント稼ぐのやめてもらっていいかしら。あざといわよ」
「……おっしゃる意味がよくわかりません。何のポイントですか」
「……それはその、何かいい感じのポイントよ」
知らない間に何かいい感じのポイントを稼いでいたらしい。
貯まったらいい事でもあるのだろうか。
そうして内緒話をしているうちに、ハインツはまたしても項垂れた様子で廊下へと出て行った。背中に哀愁が漂っているが、今度は可愛いとも可哀想とも思わなかった。
しかし廊下に立っている、という罰がこの世界でも存在したことは驚きだったが、ツァハリアスの口調や雰囲気からして、それが本来は学生に対する罰であろう事は疑いようがなかった。
ツァハリアスはまたしても、兄を教え子として扱うという慈悲を掛けてくれたわけだ。
実にすばらしい教育者だ。
今後はおやじギャグに愛想笑いを浮かべる事も惜しまない。
私は感謝と尊敬の眼差しを老教師に向けた。
「……何考えてるのかなんとなくわかったけど、そういうの余計傷つくからやめてあげた方がいいわよ」
◇
次の授業は魔法実習だ。
「お話は聞いておられるかとは思いますが、本日はよろしくお願いします、オットマー先生。私の事は居ない者として対応していただいて構いませんので」
「ああ、わかった。居ない者にしてはいささか自己主張が激しいようだがな。ツァハリアス先生から聞いてるぞ」
「……お恥ずかしい限りで」
「そう思うんなら改めろよ。お前、学生の頃からまったく変わってないじゃないか」
実習担当のオットマーも学生時代の兄を知っているらしい。
年齢は兄とそう変わらないように見えるし、その頃から教師であったようには思えないが、先輩後輩の仲とかだろうか。
「ま、俺の授業はミセリア嬢は見学だから、そう面倒な事はやらかさないだろうけどな」
「はい。存じています。私も醜態をさらさずに済みそうです。他家の子女たちへの授業の様子に限ってしまいますが、今回はきちんと査察しますよ」
「そう願いたいな。しかし、惜しいよな」
「……惜しい、と申しますと?」
オットマーの言葉を聞いた兄の雰囲気が変わった。
「お前の妹君だよ。以前にちらと見た事がある程度だが、魔力の質、密度、量のどれをとってもこれまで見た事が──ああ、お前ら兄弟を除いてだが、見た事がないほどの逸材だ。
あれで身体が弱いとかでなければ、国一番の魔法使いにもなれただろうにな」
あっ、と思った時にはもう遅かった。
「──オットマー先輩! やはり貴方は尊敬すべき先輩だ! 在学中もその慧眼には感服していましたが、今その想いを全く新たにした気分だ!」
「嘘つけお前あの頃そんなこと一回も」
「そう、おっしゃる通り、ミセルの才能は我ら兄弟など足元にも及ばないほどの素晴しいものなのです!
あまりに卓越した才能ゆえに、その天使のごとき微笑みは薔薇さえも霞ませ──」
「才能関係ないじゃ」
始まってしまった。
グレーテルが驚きつつも呆れた視線を投げてくる。
当然私は顔を覆った。
しかし、やはり学生時代の付き合いの成せる技なのか、オットマーは勢いに押されながらも反論を挟んでいる。兄は全く聞いていないので意味はないのだが。
「──というわけなのです! そう、黄金とは!」
はいパターン入りました。
ここからまた長くなるな、と他人事のように考え、手の指の隙間から様子を窺っていたところ、オットマーと目があった。
「ミセリア嬢! 止めてくれ! たぶん君なら止められるだろう!?」
「……止めようと思った事もありませんでした。止められるものなのでしょうか」
「……止めようと思った事もないって驚きね。いつもこんな長ったらしい話大人しく聞いてるの? よほど暇なのね。マルゴーって王都と時間の流れが違うのかしら」
大人しく聞いているわけではなく、皆無視してそれぞれの事を進めていくだけなので、別に暇を持て余しているわけではない。
ただ王都に来てわかったが、マルゴーの領民は王都民と比べても特別に若く見える傾向にあるようだった。
時間の流れが違う可能性はないでもない。
とにかく、兄は落ち着きさえすれば大人しくなる。
おそらく周りの話など全く耳に入らないだろうが、なんとか今すぐ落ち着かせる方法はないだろうか。
オットマーの様子を見る限り、私の言葉なら聞くかもしれない、という感じだ。
ならば私の言葉で、今すぐ気分が鎮静化するような事を聞かせてやればいい。
私は少し考えた後、大仰に身振りを交えて誰にともなく演説を続ける兄に近づき、囁いた。
「……もし、お兄様。あちらの校舎の窓から、ツァハリアス先生が見ておりますよ」
「──というわけだよいやほんの少しだけ長い挨拶になってしまったようだが授業の邪魔をするつもりはないので今日はよろしくお願いします」
瞬間的に姿勢を正し、乱れた髪を撫でつけながらそう言い切るハインツをオットマーは呆れたように見た。
「……ツァハリアス先生に何されたんだよ」
「廊下に立たされていただけですよ」
オットマーはツァハリアスから話は聞いていると言っていたが、具体的にどういう罰を課したのかまでは聞いていなかったようだ。
「じゃああれだ。俺の授業をもし次邪魔したら、車道に立たせてやるからな」
「やめてください。死んでしまいます」
ハインツならば馬に蹴られた程度では死なないのでは。
とはいえ車道は綺麗ではないので、出来れば兄にはそんな罰は受けてほしくない。帰りは一緒の馬車に乗りたくなくなってしまう。
「……似たもの兄弟ね、貴女たち。そういえばマルゴーってもう1人女の子いなかったかしら。その子は大丈夫なの?」
「……グレーテルが言っている意味がよくわかりませんが、我が家は真人間の集まりです。あと妹は世界で二番目か三番目に可愛い子です」
「……ちょっと聞き捨てならないワードが今ふたつもあったんだけど?」
「……世界一可愛いのは私で、二番目はグレーテルか妹かで迷うところです、という意味です」
「……そういうことなら、まあいいわ。もうひとつの聞き捨てならないワードも聞き流しておいてあげる」
◇
その後、学園長からの正式な発表によれば。
父兄による査察を行なうにはまだまだクリアしなければならないハードルがいくつも存在する事が浮き彫りになったため、計画は一時凍結する。
差し当たり、父兄が授業に介入できなくするための柵か何かの建設を検討している。
それらの準備が整い次第、再度試験運用を行なう。
という事で決着がついた。
柵越しの査察とか、動物園と変わらないなと思った。
いや、この場合の「動物」は見学する側なのだろうが。
なんかやたらと黄金が好きな人がいるみたいですね(




