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しばしクラスメイトと歓談していると、すぐに始業の時間が来る。
この、いかにも普通の学校生活といった雰囲気は以前にはなかったものだ。
ふたりきりで見つめ合って過ごす事もなくなり、グレーテルは寂しそうだったが、私としても2番目か3番目に美しい顔と見つめ合う時間は貴重だったので、そのうち時間を取って再び一日のルーティンに組み込んでいきたいと考えている。
時間になり、教室に入って来たのは担任のフランツだ。
彼は細々とした連絡事項を話していたが、いつもの事なので私は聞き流す。
それよりも、少し前の席のユールヒェンの後ろ姿に見とれていた。
私の物よりも少しだけくすんで見えるその金髪は、いつも通りロールを巻いて左右に揺れている。
しかし、そのロールに入れてもらえなかった、ほんの一筋の細い房が、緩くウェーブをかけながら背中に垂れていた。
侯爵令嬢ともあろう者が自分で髪結いをするとは思えないので、あれは担当した侍女のミスだろう。
よくよく見なければ気が付かない程度のものだが、私はそれに気が付いた。
というのも、その一筋の髪の毛が朝の光をきらりと反射していたのだ。
普段であれば、侍女によって完璧に結い上げられている縦ロール。
そこから外れてしまった、ほんの一筋の光。
それは、完璧な造形をあえて一ヶ所崩すという、実に高度な芸術的テクニックにも似た光景だった。
ゆえに、国家レベルの美しさを持つユールヒェンの後ろ姿は、今この瞬間だけは世界レベルにまで押し上げられていた。
単に世界レベル、あるいは宇宙レベルに届きうる美貌を見たいだけならば、横を見ればグレーテルが居る。最近はあまり鑑賞する時間も取れていないので、自分以外の美しさ成分が足りていなかった事も見とれていた理由のひとつではある。
しかし、これはそういう物とは少し違う。
これは今、この瞬間にしか見られない、自然が生み出した奇跡の美なのだ。
前世で言うと、ダブルダイヤモンド富士とか、そういうカテゴリーに属するやつである。
と、まあ、フランツのホームルームは大半を聞き流していたわけだが、兄に関する話は出なかったように思う。
さすがの私でも、自分に関係あるワードが出ていたら気が付いたはずだ。
フランツが教室を去るまでずっとユールヒェンの後ろ姿を見ていられたということは、フランツは兄について何も語らなかったということである。
兄は今日のところは学園長への挨拶くらいで済ませるつもり、だったのだろうか。
教室を出ていくフランツを目で見送り、再び前を向くと、ユールヒェンはもう席を立っていた。
ああ、惜しい。
きっともう、あの美は二度と見られないだろう。
たとえ再び彼女が席に座っても、あの一筋の髪は今の完璧な位置にはならないだろうし、陽射しの角度も変わっていってしまう。
サービスタイムは終わりというわけだ。
「……ねえミセル。もしかしてああいう髪型好きなの? ロールヘアっていうか。……私もしてみようかしら」
「いいえ? 特にこれといって好きな髪型とかはありませんよ。その人にいちばん似合うように髪を結うのが最も美しいと思います。
グレーテルは今の髪型がいちばん似合っているので、特に変える事もないと思います」
とはいえ、意外性というのも時にはいいアクセントになる。
たまになら髪型を変えてみるのも新たな美との出会いになるかもしれない。
「……やめとくわ。私には今のこれが似合ってるのよね?」
「ええ。間違いなく」
「ならそれでいいわ」
結局この日はハインツの話も姿も出ては来ず、帰り際になってようやく合流し馬車に同乗して帰った。
残念だがグレーテルは王家の馬車だ。
晩餐の席で兄に今日一日何をしていたのかについて聞いてみたが、明日分かるからとはぐらかされてしまった。
一応、ゲルハルトとは会えたようで「個人的には気に入らないが、見る目はあるようだし仕事だし仕方なく仲良くする」みたいな事を言っていた。
本来そこに私も同席すべきだったのだろうが、兄からは学業を優先するよう言われてしまったし、どうすればよかったのか。まあ父の手紙にあった「王家との橋渡し」という役割は、私とグレーテルの関係さえあれば本人が特に動く必要もないものなので、別に構わないのだろうが。
要は私と言う存在によるお墨付きのようなものだ。
あとは兄がそれを崩壊させるような事をしていないのを祈るばかりである。
◇
翌日、前日と同じように登校し、同じように王家の馬車と行き会い、今度は私がグレーテルの乗る馬車に移動して、兄とはそこで別れた。
そしてホームルームの時間になると、フランツがハインツを伴って教室に現れた。
「皆さん。おはようございます。今日は皆さんにひとつ、重要なお知らせがあります。
以前より父兄の方々から、我が子が日々どのように学んでいるのか、学園でどのように過ごしているのかを知らせてほしいと何度か打診が来ておりました。
我々もそのために教育日誌をつけており、手紙にして送ってはいるのですが、そこにはどうしても教師の主観が入ってしまう事になり、客観性に欠けます」
そんなことをしていたのか。
私は何恥じる事もない授業態度だと思っているので問題ないが、かつてフランツを馬鹿にしていたクラスメイトなどは顔を青ざめさせていた。
「そこでこのたび、学園長と検討した結果、実際に父兄の方に授業風景を査察してもらうのはどうかという案が出ました」
となるとどうやら、兄は昨日一日学園長とその話をしていたようだ。
「と言いましても、父兄の皆さんはほとんどが立場ある貴族や、王国への貢献目覚ましい大商人の方ばかりです。時間を合わせて学園を査察するなど現実的ではありません。
それぞれご都合のよろしい時に予定を組み、個別に査察していただくのがいいのではとの結論になりました」
要は授業参観だが、授業参観というと普通は学校側にとってもかなり大きなイベントのはずだ。何度もやるのは大変だし、だからこそ一度だけ、決められた日に行なっていた。と思う。
学校側の負担を考えないのであれば、それぞれに仕事の都合もあるだろう父兄の事情を優先するのは理に適ってはいる。
前世で言えば、そんな事をしたらほとんどの父兄は週末の休日を希望することになってしまうだろうが、今世においては女神とやらが安息日を設けていないせいか、これといって決まった休日などはない。何となく色々な職業の休みが固まっている日はあるものの、それも絶対ではない。
「今回はそれに先駆け、発案者でもあるマルゴー辺境伯代行のハインリヒ様に、試験的に査察をしていただく事になりました。査察対象は当然、ハインリヒ様の妹君のおられるこのクラスです」
でしょうね。
つまり私だけ授業参観という罰ゲームだ。そんなの聞いたこともない。
そうして連絡事項を話し終えたフランツが去り、入れ替わりに社会科の老教師が入ってきて、この日最初の授業が始まった。
老教師はいつものように軽快な──と本人は思っている──ダジャレを飛ばしながら、気分よく授業を進めていく。
教室の後ろでは私の兄であるハインリヒ辺境伯代行が査察中なのだが、まったく気にしていないかのようだ。
寿命の長いこの世界で、あのように老境に見える彼だ。きっと長い人生経験を積んでいるために、そうした緊張などとうに克服しているのだろう。
あるいは、学園長同様にこの老教師もかつてはハインツに学園で教えていたのかもしれない。
そうしていつも通りの授業を受けていると、突然ハインツが発言した。
「──ツァハリアス先生。少し、よろしいでしょうか」
ああ、そういう名前だったか。覚えにくいので覚えていなかった。
しかし紹介もされていないのに知っているとは、やはり兄もツァハリアス先生の生徒であったらしい。
「ふむ。何かねハインリヒ君。君にこうして質問を受けるのは随分と久しぶりな気がするな。ははは」
そりゃそうだろう。兄が卒業してからもう何年も経っている。
兄を覚えていたのは驚きだが、彼はもう学生ではない。ツァハリアス先生の認知能力は大丈夫なのか。
「……先生。私は今、学園生のハインリヒではなく、辺境伯代行としてここに来ているのです。そのやりとりは懐かしくもありますが──」
「わかっとるよ。ならば、言わせてもらうがね。
辺境伯代行だろうと国王代行だろうと本人だろうと、ここは学園で、今は授業中だ。つまり、この場の主役は学生たちであり、教師であるこのワシだ。査察か何か知らんが、部外者に過ぎない者の発言は本来許されておらん。
君が学生ではなく、辺境伯代行として発言したいというのならなおさらだ。立場ある者なら、然るべき手順を踏み、十全な根回しをしてから行動することだ。
少なくともワシは学園長から、査察をする者は授業中に発言していい事になっているとは聞いておらん」
私はハッとした。
同時に、数秒前にツァハリアスの認知能力を疑った自分を引っ叩きたい衝動に駆られた。
いや引っ叩くと美しい顔に痕が残ってしまうので──という話はともかく。
ツァハリアスはまったく、これっぽっちもボケてなどいない。
彼はただ、この学園で教育者として長年やってきたその矜持にかけて、授業中の部外者の発言を許せなかっただけだ。
その上で、元教え子である兄の立場も配慮し、一度は部外者ではなく教え子として対応してくれたのだ。
学園内では外のいかなる立場や役職も考慮されないという、学園独自のルールを忘れて久しかった兄はそれに気付けず、ツァハリアスの叱責を受けてしまった。
ツァハリアスは老齢だ。
頭髪はすでに大部分が抜け落ち、顔には深い皺が刻まれ、腰もやや曲がっている。
しかし上級貴族、それも軍事力という権力とはまた別種の脅威を持った兄相手に、毅然とした態度で一歩も引かずに啖呵を切った彼の姿は、自らの職務に誇りを持つ者としての気品と美しさに溢れていた。
「──っ! それは……おっしゃる通りです。大変失礼しました……」
普段家族には完璧な一面か、振り切っておかしな一面しか見せる事のない長兄の、叱られて項垂れる様という珍しい光景が眼前に展開されている。可愛い。
「いや、すまんな。ワシとて君を貶めるつもりはないのだ。ただ卒業生である君には、この学園の誇り高い理念を忘れていてほしくなかっただけだ。まあ、我が儘のようなものだな。
今回は査察自体、初めての試みということもあるし、わざわざワシの話を止めてまで発言しようとしたのだ。よほど重要なことなんだろう。
今後の参考になるかもしれんし、かまわんから続けてくれ。担当教諭として特別に発言を許可しよう」
「……格別のご配慮、痛み入ります。では」
項垂れていた兄は顔を上げ、それからもう一度頭を下げ、話し始めた。
「ツァハリアス先生のジョークが素晴らしいものである事は疑う余地もありませんが、世界一美しい我が妹は先ほどからまったく笑っておりません。ここはひとつ、授業内容はさておき笑いの方向性については一考の余地があるのではと──」
全く重要でもないどうでもいい内容だった。
私は申し訳なさと恥ずかしさで思わず顔を覆った。
真面目な顔をしているので今日は完璧な方かなと思っていたが、振り切っておかしな方だった。
「……この空気でアレが言えるなんて、凄いわね貴女のお兄様。ある意味尊敬するわ」
「……やめてくださいしんでしまいます」
 




