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竜人たちは長年、地下に広がる大空洞で暮らしてきた。
大空洞は世界に2つあり、北の大空洞に住む竜人たちはダムア帝国、南の大空洞に住む竜人たちはイブダー王国という国をそれぞれ作り、時に争い、時に協力し合って歴史を紡いできた。
2つの大空洞は細い回廊で繋がれており、見ようによっては全体が瓢箪のような形状をしている。
大空洞の大地に繁茂する植物は、例外なく葉から淡い緑の光を放つ。
これは大地の神──トゥルバの加護によるものだとされており、その光を体内に取り込む事で竜人や竜族もトゥルバの加護を得られるのだと信じられていた。
ゆえに彼らは農耕によって植物を育て、家畜化した竜族を養い、自然の恵みを得ることで生計を立てていた。
そう、この大空洞において、正しき植物はトゥルバの加護を得て緑の光を放つ。
しかしそうではない植物も存在した。
それは大空洞の蓋、天井から垂れ下がる悪しき樹木だ。
この樹木は魔樹と呼ばれており、通常の植物とは違い緑の光は発しない。その代わり、竜人や竜族、通常の植物にとって害となる不可視の毒素を放っている。
この毒素を浴びると竜人や竜族は体調が悪くなり、思考力が鈍り、身体能力も著しく低下する。植物であればみるみるうちに枯れてしまう。
ゆえにこの毒素は悪魔の元素、魔素と呼ばれ恐れられていた。
ただこの魔素も、偉大なるトゥルバの力の前では無力だ。
生い茂る植物が発する緑の燐光に遮られ、竜人たちが暮らす大地にまで魔素が下りてくる事はそうそうない。
とりわけ、北の大空洞はこのトゥルバの力が特に濃い地域だった。
ダムア帝国とイブダー王国の争いの火種は常に北の肥沃な大空洞だった。トゥルバの力が強いがゆえに作物も家畜もよく育ち、帝国民も身体が丈夫で強い個体が多かった。
イブダー王国はそれを手に入れようと何度も戦を仕掛けたが、その国力の差を覆す事は出来なかった。
これはダムア帝国は知らないことだが、イブダー王国の貧しさには理由があった。
トゥルバの力が薄いこと。そして魔素が濃いこと。
イブダー王国には伝説に語られる『地上』、すなわち、汚されし楽園へと通じる道が封じられていたからだ。
汚されし楽園はその全てが完全に魔素に汚染されていると言われている。
ゆえにその封印からも常に魔素が滲み出しており、南の大空洞を、イブダーの地を蝕んでいるのだった。
イブダーに伝わる古文書にはこうあった。
かつて竜人や竜族、そして正しき植物たちは皆、太陽の祝福を受けし地上に住んでいた。
しかしある時、はるか高みより悪しき大岩がやってきて、地上に闇をもたらした。
大岩は闇の中で毒を撒き散らし、地上の楽園を汚し、あらゆる生き物が住めない土地に変えてしまった。この時の毒が魔素である。
竜人たちは連れていけるだけの竜族、持っていけるだけの植物を手に、セトのトンネルを通って大空洞へと避難した。
セトのトンネルはすぐさま封印したが、いつ地上の汚れが大空洞までやってくるかわからない。
封印を監視する、竜の王族のみをその地に残し、他の竜人たちは大空洞の世界に散っていった。
これによれば、封印を守るイブダー王国こそが原初の竜の王族の末裔であるのは明らかだ。
にも関わらず、北の大空洞へと逃れていった者たちは不遜にも帝国を名乗り、トゥルバの恵みを独占している。許される事ではなかった。
しかし、どうしようもない。
今代の竜王イブダーはダムア帝国に戦を仕掛けるような事はしなかった。
諦めたわけではない。が、そんな余裕はイブダー王国には無かったのだ。
十数年ほど前から、封印の向こうから漏れ出す魔素が急にその量を増していたからだ。
ただでさえ貧しいイブダー王国である。戦争など、到底起こせるものではなかった。
ところが、国民の飢えは当初懸念していたほど酷くはならなかった。
その理由は、戦争を仕掛けなかったからだった。
戦争という資源の消費しかしない愚行さえ起こさなければ何とかやっていけそうだった。
これまでの歴代の竜王たちは一体何をしていたのだろうと、竜王イブダーは頭を抱えた。
そんな時、転機が訪れた。
北の大空洞で、突然トゥルバの力が失われてしまったのだ。
ダムア帝国が何かをしたわけではない。というか、大空洞で何かが起きたわけではない。
その時の様子を見た者の話では、トゥルバの力が突然に上へと吸い寄せられていき、天井に生えていた魔樹を一瞬で枯らせると、そのまま天井に吸い込まれるようにして消えていったという。
◇
「『──地上で、何か恐ろしいことが起きておる。トゥルバ様のお力を、それもこの地に満ちるすべてのお力を必要とするほどの、恐ろしいことが……』」
ダムア帝国の預言者はそう言った。
「『地上? 地上というのは、まさか天井のはるか向こうにあるというあの……?』」
「『然様。汚されし楽園のことじゃ』」
「『あれは単なる伝説じゃあ……』」
「『いや、汚されし楽園は存在する。それは、たった今トゥルバ様のお力が昇っていかれたことからも明らかじゃ』」
「『待ってくれ、本当に汚されし楽園があったとして、トゥルバ様は一体何のために……?』」
「『……フム。それは儂にもわからぬ。だが……おそらくは、祝福の地を我らの手に取り戻すためじゃろう。長年の我らの信仰を汲んで、トゥルバ様が我らのために立ち上がってくださったのだ』」
南のイブダー王国で魔素濃度が急激に上昇しているという話は預言者の耳にも入っていた。
その理由まではわからないが、理由がわからないということは、いつ他の地域でも同じ現象が起きるかわからないということでもある。
ゆえに預言者は、トゥルバの力が地上へ向かったのは、魔素に侵されつつあるこの大空洞を救うためであると考えた。
魔素は天井から垂れ下がる魔樹から滲み出してくる。
その天井のさらに上に何があるのかは伝説でしか語られていないが、おそらく魔素を生み出す邪悪な何者かがそこにいるのだろう。
伝説を信じるのであれば、それこそが楽園を汚し、竜人たちを楽園から追いやった元凶であるはずだ。
トゥルバがその元凶を倒してくれれば、もしかしたら竜人たちは天井の上、祝福の地に戻ることが出来るかもしれない。
預言者はダムアの民をそう諭し、トゥルバの勝利を願った。
しかし、トゥルバは負けた。
いや、実際に戦いがあったのかどうかさえ竜人たちにはわからない。
ただ、それまでは地下に満ちていたトゥルバの力が、もはや僅かしか遺されていないことだけは確かだった。
天井に昇った膨大なトゥルバの力は失われ、地下大空洞にはほんの僅かなエネルギーしか還ってこなかった。それが全てだ。
時を同じくして、それまでは地下でも最も魔素が薄かった北の大空洞に、じわりじわりと魔素が増え始めた。
トゥルバの力が衰え、しかもこのまま魔素濃度も増大してしていけば、北の大空洞はいずれ竜人の住める場所では無くなってしまうだろう。
南のイブダー王国は魔素が濃く、民が貧しい生活をしている事は知っている。
近年は何故かさらに魔素濃度が上昇し、作物が育たなくなっている事も。
しかし、それは今やダムア帝国でも同じだ。
それどころか、魔素濃度こそイブダー王国よりも低いが、トゥルバの力がほとんど失われてしまったダムア帝国では、もはやあらゆる作物も竜族も育たない。
ならば、まだトゥルバの力が残っているだけ南の方がマシだ。
ダムア帝国の長、竜帝ダムアはイブダー王国へ民を移す事を決定した。
しかし、イブダー王国にはダムアの民を受け入れる余裕はなかった。
また、そのような義理もなかった。
イブダー王国の長、竜王イブダーは言った。
「『傷つき、疲れ果てた同朋にこのような事を言うのは心苦しいのだが、我が国もギリギリでやっておるのでな……。無条件で移民を受け入れる事は出来ぬ』」
当たり前の話だ。
戦争という暴力に訴えてきたのは、確かにイブダー王国の罪だろう。
しかし、これまで肥沃な土地でぬくぬくと暮らしてきたというのに、ちょっと苦しくなってきたからと言って助けてくれというのはさすがに虫が良すぎる。
「『……ふむ。そちらの預言者殿のお話では、偉大なるトゥルバは地上の汚れを祓おうとして返り討ちに遭ってしまった、という事だったな。しかしどうにも、私には偉大なるトゥルバが負けてしまわれたとはとても思えんのだ。
そこで、どうだろうか。貴方がたダムアの民が実際に地上に出ていって、本当にトゥルバが負けてしまわれたのか確認し、もしそうであれば仇を討ってみせるというのは。何、心配せずとも我が国には地上へと通じる封印されし道がある。もちろん、その間は戦えない民は我が国で責任を持って保護しようじゃないか。
悪い話ではないと思うのだが、どうかね』」
ダムア帝国は、これに頷くしかなかった。
そして同時に、何故イブダー王国が常に高濃度の魔素にさらされていたのかも理解した。
セトのトンネル。
これを封じていたからなのだ。
ダムアの兵は騎竜を伴い、セトのトンネルを抜け、汚されし地上へと進軍し──
もし、イブダー王国の伝承をよく知る者がいたならば、こう言っただろう。
──ああ、なるほど。あれが伝承にある、はるか高みよりやってきた悪しき大岩というやつか、と。




