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私が人体の神秘と自身の発育不全について悩んでいる間、グレーテル、いや、イェソド・マルグレーテは何かを確かめるように手のひらをニギニギしていた。
私が悩んでも意味がないという真理に到達した頃、イェソド・マルグレーテは満足したようににんまりと笑い──おもむろにドレスの胸元に手をやった。
まずい。破る気だ。
それをさせるわけにはいかない。
私は以前にグレーテル本人に言われた言葉をそのまま返す事にした。
「ちょおい! お待ちなさいグレーテル!」
ついでに、ここ数日練習していた水平チョップもお見舞いしてやる。
これは元々調子のおかしい生徒会長を直すためのものだったが、その原因が明らかになった今、もちろん対象も生徒会長ではなくグレーテルになっている。
私の水平チョップがイェソド・マルグレーテの側頭部を襲う。
「けぺっ!」
つい先ほど聞いたような声を漏らし、グレーテルの頭部から銀色の丸い何かが少しはみ出る。どこかで見たことがあるようなないような光景だ。幽体離脱とか魂が抜けるとか、そういう感じ。
銀色の丸い何かが抜けるにつれて、グレーテルの髪も端からピンクに戻っていく。
しかし、丸い何かはすぐにグレーテルの頭の中に戻り、髪も再び銀色に染まっていく。
そうはさせない。
「ちょおい!」
人間には手が2本あるのだ。
私は先ほどとは逆の手で水平チョップをお見舞いする。
私の手のひらは今度はグレーテルの額側を痛打し、後頭部から銀色の光が漏れる。
しかしやはり、その光はすぐにグレーテルの頭部に戻ってしまい、三度髪も銀色に染まる。
「ちょおい!」
だがその時にはすでに先に打った方の手もスタンバイ状態に戻っている。
気合の声と共に放たれる水平チョップ。そしてはみ出る銀色と明滅するピンク。いや明滅しているのは銀色の方か。
「ちょおい!」
明滅するということは、銀色は性懲りもなくグレーテルの中に戻ろうとしたということだ。
当然、私はチョップをお見舞いする。
しかしその都度銀色はグレーテルの中に戻ろうとし、私はチョップをお見舞いする。
これはイェソドと私の我慢比べのようなものだ。
間もなく、巨大な月は中天にかかる。
おそらくそこがイェソドの力が最も大きくなる瞬間だろう。
イェソドはその瞬間にこそ、グレーテルの身体を依代として最大のパフォーマンスを発揮できるはずだ。
であればその瞬間さえ外してやれば、グレーテルのイェソド化を妨害してやる事が出来るはず。
「ちょおい!」
「けぺっ!」
「ちょおい!」
「けぺっ!」
◇
「ちょおい!」
「けぺっ! ──っはっ!? ミセ、んんっ、ミセル、ちょっと待って!」
「ちょおい!」
「あいたぁ!」
おや。
今一瞬、作られたグレーテルの声が聞こえた気がする。
イェソドに支配されたグレーテルはいちいちそんな事をしない。作られたグレーテルの声ということは、それは本物のグレーテルの声ということだ。ややこしいなもう。
「しまった、誤ちょおいでしたか」
「誤ちょおいって何よ! ていうか、なんかものすごく頭が痛いんですけど? もしかしなくてもミセル、私の頭に何度も今の手刀を……?」
「いえ。頭痛はおそらくイェソドに取り憑かれた後遺症でしょう」
間違いない。
グレーテルは少々青ざめた表情で頭痛を堪えるように頭に手をやった。
「……いや明らかに痛いのは中身じゃなくて表面──ぐうっ!」
そしてまた、急に野太い声で呻く。
しまった。
そういえば、銀色の光がグレーテルから出ていったのを見ていない。
おそらくグレーテルの中に一時隠れていたのだろう。なぜそのような事をしたのかといえば。
「──ふはは! この時を待っていたぞ! 見よ!」
見ない。見なくてもわかるからだ。
今、月が中天に昇りきったのだ。
イェソドが一時身を隠したのは、私のチョップのタイミングをずらすため。
私を油断させ、月が中天にかかるこの瞬間にチョップを受けないようにするためだ。
「ちょおい!」
「ふはっ! 無駄だ!」
咄嗟に放った私のチョップはイェソド・マルグレーテの手に止められてしまった。
最大にまで高まった月の力で、グレーテルの肉体を支配したのは確かなようだ。
月が中天にある限り、イェソドの支配からは逃れることは出来ない。例え毎日魔イナスイオ素でリフレッシュし、魔顔ローラーを隠し持っていたとしてもだ。
おそらく、イェソドは月が中天にあるうちにグレーテルへの支配を磐石なものとするつもりだろう。
裏を返せば、今はまだ完全ではないということ。そうでなければ私のチョップを止める必要はないはずだからだ。
具体的にイェソドの中で中天というのがどこからどこまでを指すのかはわからないが、一瞬ということはあるまい。しかし、そう長いとも思えない。
ある程度の短時間で事が為せるのだとすれば、あまり時間はない。
私は私のチョップを掴んだままのグレーテルの手を、もう片方の手で掴む。
「──くっ! 何のつもりだ、離せ!」
「用が済んだら離しますとも」
イェソドが全力を出せるのは、月が中天にあればこそ。
そして今、月が中天にあるのは、この王都に限定された状況に過ぎない。
王都から遠く離れた場所ならば──そう、例えば辺境のマルゴーならば、月は中天よりずれた位置にあるはずだ。
手を繋ぎ合う私とグレーテルの足元に、魔力の渦を発生させた。
まるで底なし沼にはまったかのように、私とグレーテルの身体は足先から順に飲み込まれていく。
「な、なんだこのおぞましい密度の魔イナスイオ素は! やめろ! 我を侵食するな!」
中天の月から慌てたように銀色の光が降りてくる。
それはまるでグレーテルの身体を持ち上げようとするかのように包み込むが、所詮は銀の粉。重力に従って沼に沈んでいく身体を引き上げるには及ばない。
「半端な時期ですが、ちょっとだけ帰省いたします。月を中天から外してしまえば、貴方もグレーテルを支配し続けることは出来ないはず」
「違う! もはやそんな話では……! よせ! もう出る! 出るから! この王じょ、じゃない王子から出ていくから! だから手を離せ!」
「そう言って、グレーテルの身体ごと逃れて一体化するつもりでしょう。そうはさせませんよ。あと、グレーテルは王女です」
すでに私とグレーテルは腰まで渦に飲み込まれている。
なんかいつもよりだいぶ遅いな。銀色の光が邪魔してるからかな。
「だから! もうそんな次元の話はしていない! やめろ! マジでやめろ! 本当にひとつになってしまう! ああ! あああ……!」
マジ、という言葉は江戸時代からあるそうですね。知った時はびっくりしました。今とはちょっとだけ用法が違うようですが。




