19-7
しばらくの間、学園内をバレンシア、街の様子を『死神』たちに調べさせてみた。
その結果を記した調査報告書が『悪魔』の手によって作成され、今私の手元にある。意外とマメというか、書類仕事も出来るようだ。初対面時の粗野な印象とは真逆である。まあ粗野な態度は今も変わっていないのだが。
報告書の内容は彼らに任せた街の様子の分だけであったが、やはり噂が活性化し始めたのは今年度に入ってからのようだった。
マルゴーというのは特殊な家だし、しばらく前に父がオーガキングの首を王都に持ってきたりしたことで話題性もあったし、元々その手のやっかみ込みの悪い噂は流れていた。
そのせいで変化の起きた時期を特定するのは非常に難しかったらしい。なので厳密には「たぶん年度替わりの頃」というくらいしかわからず、実際に街の噂などはその少し前から蔓延しつつあったという。
「……仮に学園内での噂の蔓延が生徒会の代替わり以降に起きているとすると、先に動き始めたのは学園ではなく街の方。あの生徒会長閣下がおかしくなったとしても、それは後から巻き込まれた形である可能性が高い、というわけですね」
だとすると、先走って生徒会長の脳天にチョップを落としても何も解決しない恐れがある。何も解決しないどころか、生徒会長の脳天が陥没するだけで終わってしまうかもしれない。いや斜め45度の角度で打ち込むから陥没するのは脳天ではないか。
「……黒幕は別にいる、ということですね。どこの誰なのでしょう……」
私は調査報告書から顔を上げ、窓から夜空を見上げた。
そこには空を覆い隠さんばかりに巨大な月が鎮座し、静かに王都を見下していた。
月というのは地球の衛星である。
この世界ではどうか知らないが、衛星軌道はほぼ真円であり、地上から月までの距離が時間や場所によって変化する事はない。
しかしながら、例えば南中高度にある月と地表付近にある月ではその大きさがかなり違う。ように見える。
これは「月の錯視」と呼ばれる現象で、その名の通り錯覚だ。
実はこの現象、私が覚えている限りでは正確な理由は解明されていなかった。
真上よりも真横の方が見かけの距離が長いから同じ大きさでも地表付近の月のほうが大きく見えるとか、真上には比較対象が他に無いが地表付近には建物や自然物などの比較対象があるから大きく見えるとか、あるいはそれらの複数の原因の複合で起きているとか。
窓の外に見える巨大な月も、その月の錯視によるものだろう。
月の位置は地表付近ではないが、窓枠というキャンパスに切り取られた状態である。この窓枠が比較対象となって、月が大きく見えている──いやいや、それにしたって大きすぎでは。窓半分埋めているのだが。なにこれ。
私は席を立ち、窓を開け放って改めて空を見上げた。
「どうかされましたか、お嬢様」
「……ディー。何か、月大きくありませんか? あんなんでしたっけ」
「……大きい、でしょうか。私にはいつも通りに見えますが……」
ディーも窓際に立って月を見る。
そうかいつもあんなんだったか。いやそんな事はないはず。普段からあれだけ異常な大きさをしていたら、いくらなんでもこれまでに違和感を覚えていたはずだ。
ということは、ディーには月が普通に見えているが、私にだけ巨大に見えているということだろうか。
そういえば、以前に聖シェキナ神国でバーチャル宇宙の旅をしてみたときも、若干月が大きいように感じられた、ような気がする。
あれは確か進級の少し前の事だったな。
月の異常はあの時すでに始まっていたのか。
そして、その異常は私にしか認識できていない。
これはもしかして、例の結社でお馴染みの認識阻害の仮面と同じような効果が発動しているのだろうか。
それも、月への認識を阻害するということは、おそらく地表の全人類を煙に巻くほどの規模で。
ちょっと途方も無い話である。
仮に私だったら出来るだろうか。
無差別に認識を阻害するというのはおそらく無理だな。直接出会った相手に対して、この美しさで魅了するということなら全然余裕で可能だろうが。
あ、なるほど。
その方向なら余裕であるなら、この月(仮)も、空を見上げて月を認識した者のみを対象として認識阻害を掛けているだけなのかもしれない。
だとしたら、そこまで大規模でもないか。私と同じ程度だ。美しさで魅了するか、認識阻害で幻惑するかの違いでしかない。
ならいいか。か弱い私と同レベルなら、大した問題でもあるまい。
月の話はひとまず置いておこう。今すぐ重要なものでもないし。
「……気のせいだったかもしれません。時々ありますよね、月が大きく見える時」
「ああ、ございますね。月の精霊のイタズラとか言われていますが」
まさかの新説登場だった。
なるほど、魔法の蔓延する世界だし、そういうのもあるのか。
仮にその説が正しかったとしたら、今の状況は月の精霊とやらが私だけにイタズラを仕掛けているということなのか。いじめかな。いや、わかるよ。これもきっと私が美しすぎるせいなのだろう。好きな子には意地悪したくなっちゃう的なあれ。
精霊さえも魅了してしまうとは、なんとも罪なことだ。
まあ月の精霊とか見たことも無いし、居るのかどうかも定かではないが。




