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「誰もいらっしゃらないようですが……」
外のフランツに声をかけた。
天幕の中では太陽の高さはわからないので具体的な時間は不明だが、昼食を取ってからかなり時間が経っている。
ゴールした学生を労うという美しい私にぴったりな仕事をするのが楽しみすぎて、時間が経つのがゆっくりに感じている可能性もあるにはあるが。
「ええ……。これは少々おかしいですね……。森には各所に他の先生方が潜んでいるはずなので、よほどの事でもない限りは大丈夫だとは思いますが……」
返事をしてくれたフランツの声は少々落ち着きがなく聞こえた。
気のせいではなく、やはり実際に遅いようだ。
教師陣が監視しているのなら、確かに多少の不測の事態が起きても問題ないのかもしれない。
何かがいたとしても野生の草食動物くらいだろうが、そうは言っても例えば鹿の成獣のようなものでも一般人が相手にするのはとても危険だ。
この世界の鹿はどうやら大変巨大らしく、前世で言うところの最大級のヘラジカくらいのものが通常サイズだったりする。
小さい頃、その頭部の剥製が壁にかけられていたのを見て驚いた事がある。
いや、危険は野生動物だけとは限らない。
この世界の森には毒性を持つ草花も普通に生えている。問題なのはその毒の強さだ。口にすると体調を崩すとか、触れるとかぶれるとかそんなレベルの毒物ではない。何かの拍子にそれらの汁が身体についてしまったら、そこから肉が腐ってしまう事もあり得るほどだ。その手の物は体内に入ると高確率で即死する。
自然は危険がいっぱいだ。
そうグレーテルに話すと、呆れたように「王都の近くにそこまでの人外魔境があるはずないでしょ」と言われてしまった。
その素人の思い込みこそが危険だというのに。
屋敷にいた時、私は日常的に近くの森のパトロールをしていた父や兄からそうした話をよく聞いていたから詳しいのだ。
であれば、たとえ教師陣が見守っていたとしても、完全に安全だとは言い切れない。
もちろんこの周辺は事前に王都の騎士団が調査をしているはずだし、そういった不測の事態も見越した上でのカリキュラムであろうが、不測の事態とは予測不能だからこそ不測なのだ。見越せている時点で不測でも何でもない。
去年までは大丈夫だったから今年も大丈夫、というのは、雄大な自然を前にしては何の担保にもならないのである。
「フランツ先生、皆さんが心配です。様子を見に行かれた方がよろしいのでは……」
「……しかし遅いとは言っても、例年の最下位の班のタイムを少し回ったくらいです。まだ何かあったと断言できるほどの異常では……。
それに、こんな所へ貴女がたを残していくわけにはいきません」
確かにまだ異常事態が起きたと断言できるほどの状況ではない。
だが、妹であるグレーテルが苦い表情ながらも「優秀だ」と言うゲルハルトが居て、例年の最下位のタイムを下回るというのは少々考えづらい。
全学年合同であり、かつ毎年行なっているのであれば、ゲルハルトもすでに何度か経験している行事のはずなのだ。
そう私の考えを伝えると、フランツは悩んだ。
「大丈夫です、フランツ先生。私もグレーテルも高貴なる家の子女。であればこそ、この身を優先するわけにはまいりません。
ルーサー先生もおりますし、どうか他の学生の皆さんの安全を第一にお考えください」
今日はちょくちょく私の言葉に茶々を入れてくるグレーテルだったが、これには何も言わなかった。
彼女も同じ気持ちなのだろう。もしかしたら、口では悪しざまに言いながらも兄君の事を心配しているのかもしれない。
フランツはややも逡巡していたが、やがて「すぐ戻ります。後をお願いします、ルーサー先生」と言い残して森へ向かって行った。
遠ざかっていく足音を確認し、静かになってから私は言った。
「さて。これでようやく私たちだけになりましたね」
もはやこの場には私たちを病弱な令嬢だと思っている者は誰もいない。外のルーサーも私が病弱な令嬢の振りをしていることはよく知っている。
であれば、多少無茶をしたところで咎められることはないはずだ。
しかし、仮にも王女であるグレーテルをその無茶に付き合わせるのはどうだろうか。
本人の申告通り、優秀な血を引く王族である事もあって、グレーテルもおそらく私と同程度──やんちゃな子供程度には動けるとは思う。
とはいえ実際に荒事をした経験などないはずだ。まあ私もアングルス領での一件以来だし豊富というわけではないが。
そう考えながらグレーテルの顔を見つめていると、その顔が不意に赤くなった。
「……え、えっ? ちょ、まさかこんなところで!? 外には非常勤治癒士がまだいるし、それはさすがに不謹慎じゃ……」
「別にこんなところで何かするつもりはありませんけど……」
ここにいても始まらない。
やはり私たちも様子を見に行ってみるべきだ。先生方を信用していないわけではないが、何かが起きていたのだとしたらその詳細は知っておきたい。
あまり会話はしてくれないが、クラスメイトたちの顔はすでに全員覚えている。つまり顔見知りと言える。会話はしてくれないが。
そんな彼らが何らかの危険な状態になっているのだと考えたら、やはり心配になる。
それにこの学園にはいずれ、妹フィーネも入学する事になる。
その時にもこの行事があるのだとしたら、予測しきれない中でも可能な限り情報は集めておきたい。
「では、私たちも森に向かいますよ、グレーテル」
「いきなり森で!?」
「──ちょい待ち。お嬢、何を考えてるのかだいたいわかるけど、さすがにそれは見過ごせないな」
「なななな何考えてるのよ非常識治癒士! 見過ごせないって、じっくり見てるつもりなの!? 変態!」
「何で僕が罵られて──あー、そういう……。
違うでしょ。お嬢はたぶん、自分たちも森に入って異変の調査でもするつもりでいるんじゃないかな?」
「──っ! 紛らわしいのよ貴女は!」
怒られた。
他に何かあるのだろうか。
「あの、グレーテル。変態とは一体──」
「なんでもないわよいいでしょもう!」
「そうですか。いいならいいです。では行きましょう」
天幕を出ようと入口の布を開けた。
が、すぐに外のルーサーに閉じられてしまった。
「そんなコントに釣られるわけないでしょ。お嬢はダメ。そこでフランツ先生を待っていなさい」
ルーサーの言葉には、純粋に私の身を案じているような声色が乗っていた。
今のルーサーは非常勤とは言え学園の治癒士でもある。
私たちが授業を受けていた間も、何人もの学生を癒していたりしたのだろう。
そこで教師としての何かが目覚めたのかもしれない。
それ自体は素晴らしい事だし喜ばしいのだが、今は少々面倒だ。
しかし幸い、私とルーサーとの間には特別なつながりがある。
「わかりました。特別手当を支払います。ですから──」
「……はぁ。その、お金さえ払っておけば言う事を聞いてくれるって考えちゃうようになったのは良くないな。って言っても、それも僕らの責任か。
お嬢、こればかりはいくらお金を渡されても聞くわけにはいかないよ。それに、報酬を支払うっていうならお嬢は僕の依頼主になる。傭兵としては、依頼主を危険な場所に近づけるような真似は出来ないな」
ルーサーの言い分は実に常識的で筋が通っている。
前回アングルス領には連れて行ってくれたじゃないか、と言おうかと思ったが、連れて行ってくれたのはユージーンとレスリーであり、現地のルーサーは確かに渋い顔をしていた。
それに引き換え、彼の言う通りお金で全て解決しようとした自分自身の卑しい考えはとても恥ずかしく思える。
しかしクラスメイト達が心配なのも事実だ。
「ルーサー様。確かに今の私の言い分は恥ずべきものでした。ですが、やはり皆さんの事が心配なのです。ルーサー様は心配ではないのですか」
私の不安とルーサーの不安を混同するかのように訴えかけるこの言葉はずるい言い方だとわかってはいた。が、言わずにはいられなかった。
ところがルーサーはそんな私に優しく語りかける。
「もちろん、僕も心配さ。お嬢以外の学生にも、何人か知り合いが出来たしね。非常勤の僕にも気さくに話しかけてくれる子もいる。歳の離れた友人ってやつかな。
彼らの事は心配だけど、それ以上に信頼できる人もいるからね。だから今回はその人たちに任せて、僕らはここで待っていよう。そして疲れてここに辿り着いた子がいたら、その子たちを癒してあげるんだ。それが僕らの役目だよ」
確かに先生方は信頼できるとは思うが。
しかしルーサーはいつの間に教師陣とそんなに仲良くなったのだろう。
髪だけじゃなくて中身までピンクな王女さまがいるらしいっすよ(




