13-8
「……絶対におかしいですわ。ジャン先生が不正など……」
ユールヒェンは軟禁状態にある自室の窓から、庭を眺めていた。
よく晴れた日にはあの庭にテーブルと椅子を出し、そこでジャンに勉強を教わったこともある。
ユールヒェンがまだ小さかった頃からジャンはすでに王城で働いており、中々授業の時間が取れなかったが、それでも彼に教えてもらった事は今尚ユールヒェンの中に生きている。
巷ではタベルナリウス侯爵家が金で文官の役職を買ったと陰口を叩かれている。
しかし、事実は少しだけ違う。
王城に勤める文官の地位をその手にしたのは、紛れもなくジャンの実力によるものだ。
◇◇◇
ジャンは元々、王都の平民街に住む孤児だった。
しかも平民街の中でも、特に貧しい者たちが住むという区画の出身だ。
ユールヒェンはそのような場所に近づくことを許されていないので直接目にしたことはなかったが、ジャンから聞く話からすると、あまり良い場所ではないように思われた。
平民街の貧民区画には、女神教の教会があった。
これは表向き、貧困にあえぐ民や恵まれない子どもたちを助けるために設立されたとされているが、実際はそうではない。
身寄りのない子どもたちに洗礼を与え、希少なスキルを持っている者がいないかを探るのが目的だった。
そのために王都に居を構える様々な貴族が資金を出し合い、この教会を運営しているのだった。
貧民区画の教会でのことであるから見学者もおらず、洗礼の結果は神官と本人以外はほとんど知る事はない。
また神官も洗礼の結果をみだりに他人に伝えるのはあまり推奨されていない。洗礼の場に居てたまたま目にしてしまったのならともかくだ。
ただ、不思議な事に資金を提供している貴族の家には、人知れずその情報がもたらされたりもするというわけだ。
孤児だったジャンも当然、この教会で洗礼を受ける事になった。
しかし、残念ながら彼は目ぼしいスキルを授かる事が出来なかった。
それ自体はさほど珍しくもない。
元々平民は貴族に比べスキルを授かりにくい傾向にあるため、極めてありふれた事だった。
スキルを授かる事が出来なかったという事実は、その人間のその後の人生を決定しうるものだ。
スキルとは神から授かる才能そのものであり、それがないということは、平凡な人生しか送れないという事でもある。
しかしジャンは諦めなかった。
教会に勤める神官にねだって読み書きを教わり、教会にあった本を全て読んだ。貧民区画は読み書きが出来ない者がほとんどなので、教会には神官の持っていた高度な内容の本しか無かった。ジャンはそれを全て読み、理解しようと努めた。
ジャンが十になった頃、その姿が若きタベルナリウス侯爵の目に留まった。
タベルナリウス侯爵も王都の他の貴族の例にもれず、この教会に陰ながら出資をしていたのだが、当時すでに商人でもあった彼はこの投資に有効な費用対効果を見出だせないでいた。
貧民区画に住む住人たちは、そのほとんどが有用なスキルを持たずに生まれてくる。
もちろん、王都に住まう貴族として、同じ王都に住む恵まれない者たちに施しを与えるというのは理解できるし構わないのだが、それならそれで大々的に行なってタベルナリウス侯爵家の名声を高める効果も狙いたいところだった。
しかし貧民区画の教会への寄付はその特性上、内容を公開するわけにはいかない。
寄付の額自体は侯爵家からすれば大したものでもないが、それは複数の貴族家で折半しているからであり、万が一有用な人材が発見されたとしても独占することは出来ないことを意味していた。
まだ若かったタベルナリウス侯爵は、もう教会への寄付を止めて手を引くか、あるいはいっそ他の貴族に圧力をかけて教会をまるごと買収してしまうか、どちらかにしようと考えた。
この時教会を訪れたのは、その見極めをするためだった。
もっとも、実際は場末の教会と言えども一貴族が買収するのは困難である。教会自体は大した規模でなくても、神官が神殿から派遣された人材である以上、当然総本山である聖シェキナ神国と繋がっているからだ。
侯爵とは言え、一国の貴族家がどうにか出来る相手ではないし、どうにかするだけの金銭など容易に用意出来るものではない。そんな事が出来る者がいるとすれば、それは大陸中に根を張る聖シェキナ神国に匹敵する力を持った者だけだ。
タベルナリウス侯爵は知らない事であったが、この教会で得られた情報も全て、出資貴族たちに渡されるよりも先に聖シェキナ神国に送られているのだった。
そうして偶然ジャンを見かけた侯爵は、彼の非凡な能力に目をつけた。
彼は侯爵が訪れた神官の部屋で本を読んでいた。
その本が難解であることは侯爵もよく知っている。見覚えのあるタイトルが背表紙に書かれていたからだ。学園の図書館にも同じものが置いてあった。
まさかこの年齢であの本の内容を理解しているとは侯爵にはにわかには信じられなかったが、しかし理解していないようにも思えないページのめくり方だった。
スキルとは神より授かる才能の事である。
が、才能だけで全てが決まるわけではない。
少年の年齢は目算で8歳ほど。栄養が足りておらず、成長が遅い事を考えても12歳にはなっていないだろう。
5歳で洗礼を受けたとすれば、最大でも7年ほどの短期間であの本を読めるようになった事になる。それも、碌に教育も受けられない貧民区画の孤児がだ。
それは神より授かる才能をも凌駕する、場合によっては神に弓引く事になるかもしれない「可能性」だった。
神を奉ずる教会から生まれた、神に弓引く異端児。
侯爵はここに、教会へと投資を続けてきたその成果を見た。
侯爵は神官に、こう告げた。
今日ここに来たのは、あのジャンという少年を引き取りたいと申し出るためだ、と。
そうしてジャンはタベルナリウス侯爵家の従僕となり、侯爵によって出来得る限りの学びの機会を与えられ、平民であるにもかかわらず学園にも通い、非公式ながら主席で卒業し、見事に王城勤めの文官の地位を勝ち取ったのだった。
◇◇◇
ユールヒェンは詳しくは知らないが、ジャンはかつて、父アブラハムに返しきれない恩があると言っていた。
あの言葉が嘘だったとは思えない。
そんなジャンが、父を裏切り不正を働くなど。
ユールヒェンが窓越しに中庭を睨みつけながら悶々としていると、不意に部屋をノックする音が聞こえた。
「誰ですか?」
返事がない。
しかし、ノックをした者の気配は変わらずそこにある。
侯爵家の使用人であれば、ユールヒェンが問えばすぐさま返事を返すはずだ。
その前に、何も問わずともノックの直後に名前と用件を告げるのが常である。
ユールヒェンは不審に思いながらも、よもや王都の自宅に不届き者が現れる事などあるまいと、扉に近づき、もう一度誰何した。
「貴方は誰ですか? ここを侯爵令嬢ユールヒェンの居室と知ってのことですか?」
「──おお、これは申し訳無い。それは知りませんでした。侯爵閣下にお話があって来たのですが、邸内で迷ってしまいましてね。まさかご息女のお部屋だったとは。ご無礼をお許しください」
すると扉の向こうから、そう慇懃な返事が返ってきた。
ユールヒェンも、嗜む程度ながら剣を取る身である。
たとえ姿が見えずとも、相手の声の調子からおおまかにその体勢をうかがい知る事もできる。
それによると、相手はどうやら返事をしながら身体を折り、頭を下げているようだ。
こちらから全く見えないにもかかわらず、律儀に言葉通りに許しを乞うその様子に、ユールヒェンは知らぬうちに警戒を解いていた。
ユールヒェンが扉を開けると、廊下には貴族らしき身なりの細身の男性が1人立っていた。
扉越しに感じた通りの、人が良く几帳面そうな面立ちだ。
少々痩せて見えるのは、その気を遣いすぎる性格からだろうか。そんなところにも人となりが見える。
やはり悪い人物ではなさそうだ、と思いながらも、ユールヒェンはその男の目が妙に気になった。
自分を眺めるその視線は、どこか覚えがあるような。
「失礼、レディ。私はモーリスと申す者です。申し訳ありませんが、お父上の居所を教えていただけませんか」
しかしその考えは、男に話しかけられた事で霧散してしまった。
さておき、約束もないものをうかつに侯爵である父に会わせるわけにはいかない。
「失礼ですが、ご用件は?」
まあ、気取ってそう聞いたところで、しばらく軟禁されているユールヒェンには父への用事などわかろうはずもないのだが。
「おっと、私としたことが。それを言わねば通せるものも通せませんね。
実はですね。今、不当な容疑で王城に拘束されている侯爵閣下の縁者について、新たに判明した事実をお伝えしに来たのですが──」
ジャンの成績が非公式なのは第一クラスの高位貴族に忖度して公開しなかったからというだけで、学園の記録には残っています。
というか、王城の登用試験では当然その成績も参考にされています。




