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「……それにしても、ここに来るまでほとんど強い魔物に出会わなかったのは妙だったな。普段だったら、こんな深くまで入ればどうしたってオークやオーガの縄張りに入っちまって、すぐに襲われてたもんだが」
ユージーンが背後の森を眺めながら顎に手をやり、そう呟いた。
彼は少し無精髭が生えているので、指で擦れてショリショリと音が鳴っている。
もちろんごくごく小さな音であり本人さえも聞こえているかわからないほどだが、今のバレンシアの耳ならば難なく聞き取る事ができる。
バレンシアも以前はヒゲが生えるのが早い体質だったので時折ああやっていた。癖になってしまうと気づいたらやっていたりするので困りものなのだ。別に気持ちいいとかそういう事はまったくないのに何故かやってしまう。
生まれ変わってからは何故かそういうムダ毛的なものが全く生えてこないので、今後はもうああすることも無いだろう。仮にムダ毛が生えたとしても即座に剃り落とすが。
尻尾から腰にかけては結構密集して毛が生えているが、あれはムダ毛というより毛皮といった感じになっている。
「ふむ……。魔物が減ったか、あるいは選択したルートが適切だったか、といったところだろうね」
ユージーンと同じく森を見ていたフリードリヒがバレンシアに視線を移す。
適切なルートとやらについて聞きたそうにしているようにも見える。
心当たりは特に無いが、一応思いついたことを言っておくことにした。
「あの時は必死デシタから、はっきりとは覚えていマセンが……。何となく、嫌な気配というか匂いがスル方には行かないように注意してたと思いマス」
目覚めたばかりでまだ右も左も分からない状態ではあったが、本能が訴えかけてくる危険から逃れるように森をひた走った記憶はある。
それでも道中で魔物に襲われる事もあったが、幸い急拵えの棍棒で何とか撃退することが出来た。イヌ鬼やネズミ鬼に似た魔物しか現れなかったおかげだろう。生まれ変わって力が落ちていることを差し引いてもやけに強く感じたものだったが、似ているだけでネズミ鬼やイヌ鬼とは違う魔物だったのかもしれない。
「……なるほど。コボルト系のスキル【嗅覚強化】の恩恵かな。それで弱い魔物しか現れないようなルートを使って、1人でも森を抜けられたわけだ。さらに、バレンシア嬢の匂いが染み付いたあのルートには、それまで現れていた弱い魔物も近づかなくなったと」
「いや、フリッツの旦那よ。バレンシア嬢って言うがな、そいつは──」
「それに、魔物が減ったという可能性も考慮に値するな。これがもし事実なら、父上がやっている研究の持つ価値も変わってくる。
さすがに我々だけで調査するわけにもいかないから、これについては後日別の調査チームが組織されることになると思うが──というかすでにその手配も済んでいるだろうが、今回の我々の探索の結果も指針のひとつにはなるかもしれないね」
「……なんでマルゴー家の連中って人の話聞かねえんだろうな。もう別にいいけどよ」
「……いやユージーンは普段そんなに話してないでしょ。特にお嬢あたりと。一回僕の代わりに学園行ってみなよ」
「……学園に行くくらいならいいが、お前の代わりは絶対ヤだね」
ボソボソと隠れて話しているが、バレンシアの優れた耳には全て聞こえている。お嬢というのはミセリアの事だろうか。ミセリア・マルゴーはバレンシアを拾い救っただけでなく仕事まで与えてくれた素晴らしい人物だ。人の話を聞かないなどあるはずがない。
バレンシアはまだ会ったことがないが、確かマルゴー家にはミセリアの妹が居たはずなので、お嬢とはきっとその子の事を言っているに違いない。
◇
バレンシアはミセリアの言葉が理解できるという特殊な事情があったため、驚異的なスピードでインテリオラ語を習得出来たが、他の者たちはそうはいかない。
この偵察チームで言えば、フリードリヒやサイラス、レスリーはレクタングルで日常的に使われる単語くらいならある程度覚えることが出来たが、ユージーンとルーサーはまだそれほど多くの単語は覚えていない。
会話などもっての外だ。
そんな準備不足の状態でなぜ偵察を決行したのか。
うまく話せなかったとしても、マルゴー家の次男であるフリードリヒやマルゴーが誇る傭兵チーム『餓狼の牙』ならば大抵の問題は戦闘力で解決出来るから、という理由もあるかもしれないが、それ以上に時間がなかったからだ。
バレンシアが、いやヴァレリーたちがこのマルゴーに渡って来られたのは、一年に一度の大干潮を利用して陸路が開通していたからである。その日を逃してしまうと、大陸を渡る難易度が跳ね上がる。
海棲の魔物が危険なのは巨大であるからだ。その認識はレクタングルでもマルゴーでも同様である。
そして巨大な魔物は浅いところには生息していない。彼らは海から出ようとしないので、あまり浅いところには来たがらないと言われている。
大干潮の日に浮かび上がるデモンズ・ロードは当然ながら大陸間を結ぶ遠浅の海だ。ただでさえ浅いのに、一年に一度は干上がる日もある。そんなところに巨大な魔物が生息している事などありえない。
しかし生息はしていないと言っても、まったく存在出来ないわけではない。海棲の魔物の中には陸上でも活動できる種類も居るという。ウミガメのようにヒレを使って陸地を移動していたという目撃談もある。
海の魔物が巨大なのは水の中なら身体が大きくとも足腰に負担がかからないからではないかと言われているが、短時間なら問題ないし、そこまで大きくない種なら時折海岸線に被害を出す事もある。
そういうわけで、船で渡るとなると──乗組員はともかく船本体の──危険が大きいということで、ひとまずデモンズ・ロードを確認しておきたいという判断になったのである。
それに、レクタングル側のように漁村から通じているのならまだしも、マルゴーから北の海岸線に出るには森と山脈を越える必要がある。船を用意できたとしてもそこまで運ぶ手段がない。それらを迂回して魔界の沿岸部を航行するとしても、沿岸部の全てが浅いわけではないし長く海に浮かんでいればそれだけ大型魔物に襲われるリスクが高まってしまう。
バレンシアは死亡してから目が覚めるまでの間の記憶がない。その間、どのくらいの時間が経過していたのかがわからない。
なので、一年に一度というデモンズ・ロードの浮上が次に起きるのはいつなのか、実は正確には言えないのだ。
たださすがに何ヶ月も野ざらしになっていたとは考えられない。
着ていた服の状態から考えれば長くても数日といったところのはずだ。
そこから日数を概算し、多少の余裕を持った日程で今回の偵察の予定が立てられている。
さらに、山脈の麓に到着した時点でかなり余裕がある。
そのせいかレスリーはここでキャンプをして色々採取したり研究したりしたいとか言っていた。さすがに採集などはフリードリヒに却下されていたが、キャンプは張る事になった。
登山においてはどんな事故が起きるかもわからない。何かあったときのために拠点の構築はしておくべきという判断で、周辺の草や藪を刈ったり木を切り倒して簡単な壁や屋根を用意するなど、通常の野営よりは本格的な拠点作りが行なわれた。
数日をかけて簡易な拠点が出来上がると、次は登山である。
山では天気が変わりやすいし、以前もロイクたちが話していたように急に気分が悪くなることもある。当然ながら整備された登山道などないし、滑落の恐れもある。森以上に慎重に進まなければならない行程だ。
だというのに、フリードリヒも『餓狼の牙』もまるで平地の街道でも歩いているかの如くひょいひょいと登っていってしまった。
置いていかれてはまずいとバレンシアも慌てて追いかける。
「ま、待ってくだサイ!」
しかしなかなか追いつけない。
どういう足腰をしているのかと必死で食らいつき、バレンシアも全速力で山を登る。
そのままどのくらい走ったのか、ただ彼らの背中だけを見ていたので距離や時間は曖昧だが、ようやく彼らの足が鈍り始めたところでやっと追いついた。
「──あの! あまり急いで登ってしまいマスと、気分が悪くなったり、倒れてしまったりしてしまいマスよ!」
現にバレンシアはもう体力の限界だ。
息も上がり、正直叫ぶのも辛いくらいだった。この辛さは話に聞いた登山の症状に違いない。
バレンシアの声に一行は足を止め、振り返る。
「ああ、もしかして高山病のことかな。確かにそういう話は聞いたことあるよ。でもあれは急に高い所に行くから身体がびっくりしてしまうだけで、気合を入れておけば大丈夫だったはずだよ。少なくともマルゴーではそうだよ。まあマルゴーには気軽に登れる山なんてないけど」
それは症例として聞いたことがあるだけで、実情を知らないから安易な考えが蔓延しているということでは。
今後、もしマルゴーの人々がどこか領外で登山をする機会があったとしたら、そこで大きな事故が起こってしまうかもしれない。
ここは領主の息子であるフリードリヒにしっかりと説明しておいたほうがいいだろう。
「でもデスね、フリードリヒ様。高山病? というのはそんな簡単な話でハ──」
「まあまあ、君の言うこともわかるけどさ。今回は多少体調不良になったところで僕が診てあげられるし、世の中意外と気合で何とかなる事だってあるもんだよ」
しかしルーサーに宥められる。そうかもしれないが、医者がいれば無茶をしてもいいという問題でもないだろう。
「それによ、見てみろや」
ユージーンがそう言い、親指で背後を指した。
バレンシアはそちらを見て言葉を失った。
そこには実に雄大な景色が広がっていた。
これはあの時、ロイクたちと山を登りきった時に見た景色と同じ──
「……あれ? いつの間に……」
そう、バレンシアたちはいつの間にか山の頂に立っていた。
どうやらがむしゃらに皆を追いかけているうちに、山脈を登頂してしまったらしい。そんな事あるだろうか。どういう足をしているのか。彼らも、そしてバレンシア自身も。
いや、バレンシアはまだいい。
研究所とかいう場所で色々とテストをした結果、走る速度や走れる距離などが異常なほどに上がっていたのは確認している。
腕力もかなり強いと言われたが、こちらは数字で言われてもバレンシアが知っている単位と違うしいまいち実感がない。それにヴァレリーだったころから力には自信があったので、むしろ弱くなっている可能性もある。
しかし走力は別だ。
身長が縮み、視点が下がった事で体感速度が増しているだろう事を差し引いても異常な速度で走ることが出来るようになっている。さらに、多少疲れても無視して走り続けていればそのうちスタミナが回復してくる始末だ。
そういった能力の事を思えば、走って山を登りきれたのも不思議ではない。
しかし、フリードリヒたちは普通の人間だ。おそらくこれまでの人生で死んだこともないだろう。
ということは、生まれつきそうなのか。マルゴーの地で生まれ育つということは、これほどの身体能力を得るということなのか。バレンシアもここマルゴーで生まれ変わったからこそ、これほど動けるようになったのかもしれない。
これが彼ら人間の普通なのだとすれば、獣人は──レクタングルの民たちは、確かに少々気合が足りないのかもしれない。
もうお気づきかと思いますが、バレンシアは「獣人」という単語を「レクタングルに住む人達」の事を指す言葉だと認識しています。そして「人間」とはマルゴーの民(あるいはインテリオラの民)の事を指す言葉だという風に覚えています。お嬢や姫に言葉を教わった弊害ですね。
まあ獣人自体、今までいなかったのならお嬢の造語でしょうし、マルゴーの人たちもどこまで正確に認識しているか怪しいものですが。




