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王都に到着してからの数日は新しい生活に馴染むために過ごした。
ベッドが変わると眠れない、というほど繊細ではないつもりだが、すぐ側に他人が寝ているという状況は慣れていないと神経を使う。大きな秘密を抱えている今世ではなおさらだ。
特に、毎朝目が覚めると必ずディートリンデと目が合う件は慣れるのに時間がかかった。私がいつ目を覚ましてもそうなるのだが、彼──いや彼女は一体いつから起きているのだろう。
「……おはようございます、ディー」
「おはようございます。お嬢様。本日はどうされますか?」
ディートリンデというのは私の母が勝手に付けた名前であり、本名はディートハルトだ。
この名前は本人も気に入っているようだが、女性の姿の時は女性の心を持つディートリンデ、男性の姿の時は男性の欲望を持つディートハルト、などと言っていたので、今後はどちらの性別もうまく活用していくつもりなのだろう。
そういうこだわりは理解できるので尊重してやりたい。
しかし何かの拍子に呼び間違える事があるかもしれない。
自分がもし、そうして間違えられたらどうだろうか。
たぶんその瞬間にちょっと萎える。
そう考えた私は一貫して愛称の「ディー」で呼ぶ事にした。
一緒くたにすることについては難色を示すかとも思ったが、私に愛称で呼ばれる喜びの方が勝ったらしく、ディーは素直に喜んでいた。
「今日は街を見てみましょう。馬車を回してもらえるように言ってもらえますか?」
明日は予定があるが、今日は時間がある。
今日までは王都の慣らしに使えるという事だ。
屋敷の中はあらかた把握した。
何か不測の事態があっても、屋敷の中であれば有利に立ち回る事ができるだろう。
次は王都の街なかだ。
これから最大で3年も過ごす街である。懸念もあるし、可能な範囲で見ておきたい。
それに地元マルゴーと何がどれだけ違うのかも知っておきたい。常識のすり合わせというやつだ。なにせ私が知っている大きな街と言えば、マルゴー領都かアングルス領都くらいである。そのアングルス領都も満足に見て回る時間があったわけではない。
王都の経済規模や住民の様子を知る事で、相対的にマルゴーの地がどのくらいの力を持っているのかを知りたい気持ちもあった。
「お嬢様、しかしお嬢様はお身体が弱くていらっしゃいます。あまり活発に外出するというのは……」
「……そうでしたね」
昨日まで屋敷の中を見て回っていたのも、外を散歩するのはリスクが大きいからだと理由をつけての事だった。
普通、病弱な令嬢なら部屋から出る事さえ稀だ。
この世界でも日光を浴びる事や軽い運動が健康維持に不可欠だという程度は周知されているため、庭を軽く散歩する程度なら可能な限りした方がいい。病弱ならなおさらだ。
ただ、マルゴー家の長女は別の理由からそういう事を気軽にするわけにはいかない。庭といえど、外ではどこから誰が見ているかわかったものではない。
そのため、庭ではなく屋敷の中でなるべく日あたりのいい場所を歩き回る分には使用人たちにもさほど不審には思われない。主家の長女と言えば、これまでも時折そういう体質の者がいたと聞いているからだろう。
しかしだからこそ、街にまで繰り出していくのは違和感が強いだろう。
「けれど、どうせもうすぐ学園に通う事になる身です。多少の外出であればそう問題ないのでは」
私の前任者たちが堂々と学園などに通っていたとは思えないので、そもそも学園に通うために王都の屋敷に滞在している時点でこれまでとはかなり違った状況だ。
「……そう、ですね」
ディーには最終的に学園に通う予行演習という言い訳で街への外出を認めさせることが出来た。
ただし、馬車から決して出てはいけない。
小窓から外を見る際もレースのカーテンを開けてはいけない。
外に聞こえる大きさで話してはいけない。
ディーの側を離れてはいけない。
亭主関白か、と一瞬思ったが、思った後それが何だったのか思い出せない事に気が付いた。たぶん、前世のパーソナルデータに関わる何かだったのだろう。例えば歳がばれるとか。
そうして出かけた王都の街は、馬車の小さな窓に切り取られ、レースのフィルターを掛けられた狭い風景ではあったが、非常に活気に満ちている事だけはわかった。
人々は何の不安もなく往来を闊歩し、子供達は笑い声をあげ道を走り抜けていく。
ちらりと見えた限りでは皆清潔な服を身に纏っている。
やはりマルゴー領都とはかなり趣が違う。
マルゴー領であれば、闊歩しているのは住民よりも傭兵の方が多いし、笑い声を上げて走り抜ける子供たちの手にはゴブリンの頭部が抱えられていたりするものだ。
しかしそれにしても身なりが奇麗だ。平民と思われる住民たちだが、デザインはともかく衣服の質感はなかなか上等なもののように見える。
そう私が不思議に思っていると、ディーが顔を寄せて説明してくれる。
「この辺りは貴族街が近いですから。平民と言えど、ある程度裕福で身元がしっかりしている方でなければ住む事を許されておりません」
女性としては少しハスキーな声が耳をくすぐる。
そういえば、私も声変わりなどをするのだろうか。今のところその兆候はないが、普通は12、3歳くらいから喉仏が出っ張り始めるはずだ。身長もそうだし、性別は間違いなく男性なのに男性らしい部分が一点しかない気がする。髭も生えてくる様子がない。
「……貴族街が近いということは、我が屋敷のある場所は貴族街ではないということでしょうか」
「そうなりますね。ちょうど境目の、平民側に建てられているようです」
貴族仲間からハブられているのか。
子の私から見ても父は敵対者に容赦がないし、幼いころに会った祖父も苛烈な性格をしていた。
マルゴー家が不当な扱いを受けて黙っているとは思えないが。
そう思って聞いてみると、理由は全く逆だった。
「当家に対し良く思っていない貴族たちが次々と引っ越して行った結果、貴族街の中心部そのものが少しずつ屋敷から離れて行ったせいだと聞いています。
利便性の問題もありますので、結局その後それほど敵対していない家も移動していき、いつしか当家だけが貴族街の外に取り残される形になったと」
「……それでは当家はただの嫌われ者では」
「嫌われているわけではないでしょうが、特別視されているのは確かでしょうね。特別とは人と違うという事。それを貫き通すのは困難な道ですが、何物にも替え難い価値があると思います」
ディーはどこか誇らしげに言う。
特別視というと聞こえがいいが、こういうのは腫れ物扱いというのだ。
まあ、有象無象の貴族からあまり干渉を受ける事はなさそうなのはありがたい。
当家と仲が良い家というのもいくつか聞いてはいるが、社交界に出ない私はそれ以外の貴族の情報をあまり持っていない。顔と名前が一致するのも最近仲が良い家に追加されたアングルス伯爵家のギルバートだけだ。
そういえば彼は歳はいくつなのだろう。
まだ若いはずだが、学園には在籍しているのだろうか。
馬車は裕福な平民街を少し進むと、方向を変えた。
そこから貴族街に入るらしい。
平民街と貴族街の間には特に壁などが立てられているということはないが、通行できる道は限られている。セキュリティ上の問題だろう。そしてその限られた通りには衛兵だか騎士だかが槍を手に立ち番をしていた。
私の乗る馬車が貴族街に入ろうとすると、衛兵たちの目が鋭くこちらを睨んだ。
彼らの視線は馬車の上の方を撫でた後、すぐに逸らされ、警戒も解かれた。馬車の家紋を確認したらしい。
マルゴー家の馬車が貴族街に入る事などそうないはずだが、今年から学園に私が入る事が周知されているのだろうか。
それはそれでプライバシー的な問題がある気がするが、この世界においてはまだそういう意識は薄いようだ。
「……なぜ、貴族街に?」
私が見たいのは王都という街の経済規模や住民の様子であって、それなら平民街を見て回るのが一番いい。もし存在するなら貧民街やスラムなども見てみたいところだ。マルゴーから逃げ出した貴族街などに用はない。
「あちらにお嬢様が入学する学園があるからです。お忘れかも知れませんが、本日は通学の予行演習なのですよ」
そういえばそうだった。
貴族街に入って程なく。
馬車はゆっくりと停止した。
「到着したようです。本日は馬車を下りるわけにはいきませんが」
「……もうですか。ずいぶんと近いですね」
「学園には裕福な平民も通学しますから。貴族街の中でも平民街に近い場所に建てられております。なので、当家の屋敷からですとすぐですね。馬車を回している間に歩いた方が早い距離です」
「……そうですか」
そうは言っても貴族令嬢が街なかを歩いて移動するわけにはいかない。病弱設定ならなおさらだ。
面倒極まりないが、毎日こうして馬車で移動するしかない。
馬車の小窓からカーテン越しに外を見やる。
装飾は少ないながらも相当立派な屋敷の姿が目に入る。
小窓からではその全貌を知る事は出来ないが、かなりの大きさなのは間違いない。
これがおそらく学園とやらだろう。
数日後から私はここに通う事になる。
しかし、その前にやらなければならない事がある。
明日予定されている、王女殿下との面通しだ。
私は彼女と友人にならなければならない。