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「──あの、小娘ぇええ! この私をどれだけコケにすればっ……!」
秘密結社アルカヌム、そのメリディエス支部の執務室で、『魔術師』と呼ばれる男は血まみれの仮面を床に叩きつけた。
結社の技術を結集して作られた高度な魔導具でもある仮面は、その程度では損傷しない。
逆に木の床に傷をつけ、勢いよく跳ねて部屋の隅へと飛んで行った。
木屑と乾いた血が、叩き付けられた衝撃でパラパラと部屋に舞う。
「……いえ、所詮『恋人』は中立幹部。失ったところで痛手ではない。それよりも問題は、この仮面を届けたのがおそらく『隠者』であるということ……!
あの子のスキルなら、誰にも知られずに国境を越え、ここに来る事も不可能ではない……。いえ、だとしても、この拠点の場所はあの子は知らないはず。ここは『魔術師』に命じて新たに構築した拠点。知っているのは、今生きている幹部だけ……ということは……」
10年前に結社から姿を消した『隠者』が、知っているはずのない拠点付近まで侵入し、土産を置いて去って行ったということだ。
「……『恋人』か! お前も裏切ったわね! おのれ、どいつもこいつも……!」
『魔術師』と呼ばれる男は癇癪を起こし、部屋にある物を手当たり次第に破壊し始めた。
この執務室にあるものは結社の運営のための執務に必要なものだけだ。
主要メンバーも半減してしまった今、真面目に結社を運営する意味はもう薄い。別に失われても惜しくはなかった。
今重要なのは、結社の運営のためのものではなく、長きに渡り『魔術師』が研究を続けてきた、その成果だけ。
残念ながらそれはまだ実を結んではいないが、ある程度までなら目処は立っている。
ここまで下拵えがしてあれば、続きは『魔術師』でなくても問題ない。
元より、基礎理論を構築したのは今代の『魔術師』ではない。
「……もういい。もう結社などいらない。後少しで研究も完成する。そうすれば、私は──」
ひとしきり暴れ、気が済んだ『魔術師』と呼ばれる男は、散らかる執務室を一瞥すると部屋を出た。
「──その前に、私の計画を尽く邪魔してくる目障りな害獣を片付けておかなければ。餌で釣って誘き出せないなら、もう周りで火を焚いて燻し出すしかないわね」
◇◇◇
王立学園で開催された、過去に類を見ない宝探しイベントも無事に終わり。
その少し後の試験、そして前期のものよりも短めの試験休みも明け、学生たちはもう進級も間近、となった頃。
インテリオラの南部国境線、隣国メリディエスと接するアングルス領にて、ある事故が起きた。
この時、国境線近くではメリディエス王国正規軍による大規模な軍事演習が行われていた。
元よりきな臭い情勢下での演習だ。当然インテリオラ政府も警戒していたし、アングルス伯爵もそれは同じだった。
というより、その状況で大規模軍事演習など、どう考えても挑発行為以外の何物でもない。
何より、本格的な冬を迎え、物資に余裕がないはずのメリディエスが、軍事演習などという資源に直接火を付けて花火を楽しむような真似をするはずがない。
メリディエスの内地よりは暖かいとはいえ、国境線付近でも十分に冷えるのだ。そこに大軍を集めるとなれば当然彼らを温める燃料が必要になるが、その燃料は本来、寒さ厳しいメリディエス本国で焚かれるべきものである。
たかが演習のためだけに使われるはずがない。
アングルス領はもはや開戦一歩手前と言わんばかりの緊張感で満たされていた。
しかし、いくらメリディエスにそのつもりがあったとしても、インテリオラにも事情というものがある。付き合いたくても付き合えない事情だ。
それはインテリオラ王国の西側、旧オキデンス王国地方の状況だった。
全く何の準備も覚悟もしていなかったところに、突然降って湧いた事実上のオキデンス王国滅亡。
しかも、一応表向きは無関係とされてはいるものの、その滅亡の裏にはインテリオラ王国貴族の影がある。
まあそうした道義的な問題は置いておくとしても、オキデンスに住む人々がまるごと難民・暴徒化してしまう前に何とか平定する必要があった。
インテリオラ王国騎士団や、いくつかの領主貴族の私設兵団は、そのかなりな割合を旧オキデンスの統治に向かわせた。
当然、一朝一夕にできるものではない。
多少強引に融和政策を進めるとしても、年単位の時間がかかるだろう。元々の領主貴族に不満を持つような民が多い地域であってもだ。そうでない地域では、もっと長い時間がかかるかもしれない。
そのため、いくらメリディエス王国が圧力をかけてくるとしても、万全の態勢でそれに対抗する事など到底出来なかった。
いやあるいはそういう状況であることを見越したからこそ、メリディエスはこの冬に勝負をかけに来たのだろう。
元より、冬を越す度に人口が減って行くような厳しい土地柄だ。
すぐそこに暖かく豊かな土地があるにもかかわらず、そこに居座る強者に怯えて手を出すことさえ出来なかった。出来たとしても、せせこましい嫌がらせがせいぜいだ。
その強者の逞しい腕が、今はほとんどが別の場所に向かっている。
これが千載一遇のチャンスでなくてなんだというのか。
メリディエス王国も、普段であればそこまで強硬な思考はしなかったかもしれない。
インテリオラに擦り寄り、飛び地にはなるが手を焼いているオキデンス統治に噛ませてもらい、その地の資源を使ってなんとか冬を凌ぎ、温かくなってから改めてオキデンス地方をうまく使った今後の生き残りの道を模索する。
そういう未来もあったはずだ。
オキデンスの統治に無関係なメリディエスをわざわざ噛ませてやる理由はインテリオラにはないが、インテリオラとしても人手不足は深刻な悩みである。条件次第では可能性はゼロではなかった、かもしれない。
しかし、メリディエスはその選択肢を取らなかった。
なぜ、インテリオラに擦り寄らなければならないのか。ずっと北方の暖かな日差しを豊かな恵みを甘受してきたような者たちに。
メリディエスの民が寒さに凍え、惨めに飢えているのは、インテリオラが自分たちだけで北の恵みを独占しているせいだ。
そんな奴らに頭を下げるなど。
そんな事をするくらいなら、死んだ方がましだ。いや、死ぬ気で突撃して、少しでも北の領土をもぎ取って、自分たちの子に暖かいスープを飲ませてやりたい。
そういった思想が民衆に蔓延していたからだ。
メリディエス王国上層部はさすがにそこまで向こう見ずではなかったが、民衆の意識は把握していた。
というか、そうした与太話と共に志願兵が急増したとなれば、嫌でも把握せざるを得ない。
少なくない志願兵を新兵として軍に放り込んだ結果、その思想は軍内部にも瞬く間に浸透していく事になった。
いかなる力が働いたのか、高度な教育を受けているはずの軍高官でさえ例外ではなかった。
民衆、そして軍に蔓延る危険思想。
これを止める術は、王国上層部には無かった。
仮に何かが起きて戦争になったとしても、殺す事になるのは忌々しいインテリオラ王国民だ。別に問題は無い。
あるいは、その思想はこの時にはもう上層部にも伝播していたのかもしれない。
国境線での事故は、起きるべくして起きた。
正確には、起こすべくして起こされた、と言った方が正しい。それはもう事故ではなく事件であるが。
挑発するように演習を始めるメリディエス軍に、どこからか一本の矢が飛び込んだ。
軍隊に対する明らかな敵対行動である。
一発だけでも、例え誤射でも、看過出来ない。
どこから飛んできたのかなど、もはや重要ではない。
この演習の観客は、初めから忌々しいインテリオラの兵しかいないのだから。




