8-15
「おはようございます。エドゥアール殿下」
「あ、ああ。おはよう、ミセリア嬢……」
試験休みも明け、いつも通り早めに登校した私は、しばらくして教室に現れた影武者エドゥアールに挨拶をした。
なんだか少々引いていたというか、青ざめているようにも見える。
そんな彼に言うのは心苦しいのだが、もう事態が動いている事は伝えておいた方がいいかもしれない。もはや、今さらここでじたばたしても仕方がないのだ。
マルゴー領軍が発ったのは試験休み中の事であり、すでに数日が経過している。
普通の行軍であればまだ国境まで行っているかどうかといったところだろうが、マルゴー領軍であればもう作戦が開始されていてもおかしくない。重装歩兵たちも装備は置いて行ったようだし。
私は影武者エドゥアール略して影武シアールに近づき、耳元に口を寄せて小声で囁いた。
「……すでに、作戦は始まっています。今頃はもう、オキデンスに着いている頃かもしれません。心配な気持ちはわかりますが、どうか落ち着いてください」
そう言うと、影武シアールは青かった顔色をいっそう悪くし、うろたえた。
「──きょ、今日は気分がすぐれないので、申し訳ありませんが早退させていただきます」
するとそう言い残して教室を出て行ってしまった。
そういえば、影武者の方が体調不良になった場合は本体はどうするのだろう。一緒に早退するのだろうか。まあ授業を受けているのは影武者の方なので、本体だろうと従者だけが学園に残っていても何の意味もないわけだが。
そうなると、私たちと共に勉強会に参加していたのも、優秀な成績を取ったのも影武シアールの方だったのだろうか。
成績はきちんとエドゥアールの名で学園に記録されているのだが、そういうのはいいのか。これ替え玉受験になるのでは。
「……ねえミセル。今の何?」
「ちょっとミセルさん! 今のはなんですの!」
うわめんどくさいのがきた。
「今のは、ええと……。ちょっと、あまり大きな声で言うべきではない内容のお話がありましたので、はしたないとは思いましたが、あの様にお伝えさせていただいただけです。別に私と影、エドゥアール殿下との間に何かがあるとかそういう事ではありません」
「はしたないとお思いでしたら、そういう事はみだりにすべきではありません!」
「そうよそうよ」
あれこの2人こんなに仲良かったかな。
仲が悪いわけではないと思っていたが、結託するほど仲が良かったわけではなかったはずだが。
「はい、申し訳ありません。以降気を付けます」
「本当にわかっていますの? もう……。
そ、それで、あまり大きな声で言うべきではない内容のお話と言うのはその、どのような?」
「それは、もちろん、大きな声で言うべきではないので申し上げられませんが……」
何気なく周囲を見てみれば、グレーテルとユリアが過剰に騒いでいるせいで教室の学生たちもこちらに注意を向けている。
これでは大きな声でなくても、普通に話しただけで聞こえてしまうだろう。
「……大きな声で言えないような、エドゥアールに関する話ね……。なんでそんなものをミセルが知っていて、しかも今言う必要があったの?」
おそらく王室へはエドゥアール一行の正体について知らされているはずだが、それがグレーテルにまで届いているかどうかは定かではない。下手に確認してしまうとそれによって知らせてしまう事にもなるだろうし、もし知らされていないのなら王室がグレーテルに知らせるべきではないと判断したということなので、私から知らせるわけにはいかない。
このあたり、きちんとホウレンソウというか、認識の共有を図ってもらいたいものだ。
まあ、我が家も表向きは王家に仕える貴族とはいえ、事実上はほとんど独立しているようなものである。北の防衛を引き受ける代わりに、それ以外の一切を免除されていると言ってもいい。
北方の領域の状況についてはマルゴーにとってもインテリオラ王国にとっても普通に軍事機密だし、情報の取り扱いについて慎重になるのはわからないでもないのだが。
そういえば、魔物の活性化がどうとか言っていた気がする。領の皆は大丈夫だろうか。まあ、彼らがどうにかなってしまうような想像など全く出来ないが。
しかし、試験休み中に私がエドゥアールの宿舎を訪れた事については王室も知っているはずだ。
今は特に何も言ってこないので、おそらくグレーテルの耳にはまだ入っていないのだろう。
出来ればそのまま入らないでいてもらいたい。やはりホウレンソウはしなくていいかもしれない。
「どうなんですの、ミセルさん」
そうだった。エドゥアールの秘密の話だった。
仮にグレーテルに伝えるのが問題なかったとしても、この場にはユリアや多くの学生もいる。滅多な事は口に出来ない。
秘密を私が元々知っていたというだけでも面倒な2人はさらに面倒な状態になってしまうだろうし、そうなると今ここで気付いた事にした方がいいだろう。
パッと目にして分かる程度で、それでいて大声では言えないような秘密か。
「……ここだけのお話にして欲しいのですが」
私が声をひそめると、グレーテルとユリアも顔を寄せてくる。
ちょっといい匂いがする。グレーテルの香りはよく知っているが、ユリアの香りは嗅ぎなれていない。香油か洗料か知らないが、どこの物を使っているのだろう。私も使ってみたい。
「……ええ。もちろん」
「……私もこれでも侯爵家の娘。話していい事といけない事の分別くらい、ついていましてよ」
いや言うほど分別ついてるか。
だってもう、クラスのほとんどが黙りこくってこちらに耳を寄せつつあるのだ。今さらこの2人が話そうが話すまいが同じである。
しかし、何か言わなければ引き下がるまい。
私は覚悟を決め、心の中でエドゥアールに謝った。
「……先ほどのエドゥアール殿下ですが、実は──」
「……実は……?」
「……実は、朝お会いした瞬間から気になっていたのですが、殿下のお鼻から一筋の毛がさわやかにそよいでおりまして」
すると教室は一瞬、静寂に包まれた。
これもうこっそり聞いているとかそんなつもりは全くないだろう。もっとも、それを見越して聞かれても問題ない嘘をでっちあげたわけだが。
なかなか完璧な言い訳だったのではないだろうか。声をひそめる必要のある秘密でありながら、さりとて政治的になんら問題ない内容だ。
「……そ、そうだったのですか」
「……ま、まあそれなら仕方ないわね」
ユリアとグレーテルも納得して引き下がった。
よし、と私は目論見がうまくいきほくそ笑む。
「……オキデンスの王子が……」
「……朝から鼻毛をそよがせて……」
「……でもそのお姿もさわやかだと……」
「……いくらイケメンでも、そんなわけないだろ。あれはミセリア様の優しい嘘だ……」
「……でもイケメンだったら鼻毛出してても美少女にかばってもらえるって事か……」
学生たちも口々に囁き合いながら教室中に散っていく。
平和に終わってよかった。
◇◇◇
「ば、ばかな……。屋敷を守っていたのは、この国に残された最後の精鋭たちなのだぞ!? それが、こうも簡単に……」
マルゴー辺境伯領軍、王都出張部隊第一小隊長は、豪華な椅子にへたり込むようにして座っている大公デュシスを憐れむような目で見下ろした。へたり込んでいるというか、これは腰が抜けているのかもしれない。
それも仕方がないだろう。
どうやら護衛は精鋭ばかりだったようだし、その精鋭の護衛を目の前でたやすく殺されてしまっては、腰が抜けるのも頷ける。
インテリオラ王都で怪しげな黒ずくめの集団から聞き取った話と、ここオキデンスで聞き込みをした結果から推測される大公の境遇には確かに同情する。
言ってみれば、大公は結社に息子を人質に取られていたようなものなのだ。しかも何を要求されるわけでもない。要求が無いのだから交渉の余地もなく、人質である息子が返ってくる見込みもない。
それはどれほどの絶望と屈辱だっただろうか。
この小隊長にも故郷マルゴーに息子がいる。
主家のお嬢様と同じ15歳だ。いや、もうじき16歳になる。
今回の任務を受けた時などは、何とかお嬢様に息子を紹介出来るくらいに顔を覚えてもらい、あわよくば息子を婿に、などと考えてもいたが、それはお嬢様本人を見て速攻で諦めた。
あれはだめだ。自分のところのバカ息子とでは生きているステージが違う。同じ視界に入れることさえ恐れ多い。下手をしたら種族からして違うのではないだろうか。
しかしどんなにバカで不細工でも、親である小隊長からすれば何よりも大切な息子である。
そんな息子の生殺与奪を、長い間正体不明の結社に握られ続けていた親の気持ちは、小隊長にも痛いほど分かる。
だが、だからと言って何をしてもいい訳ではない。
それもよりによって、マルゴー辺境伯の至宝を危険な目に遭わせてしまうとは。
ここは外国だし、どうもマルゴーについてはよく知らないようなので言っても仕方がないのだが、インテリオラ王国においてマルゴーの名の持つ意味は大きい。
そのマルゴーを支配する辺境伯の娘が王都で襲撃されたというのはかなりの大事だ。
インテリオラ王都ではすでに知っている者も多くいるようだし、適切に対処しなければ王都の連中にマルゴー家が舐められてしまう事にもなりかねない。
それはマルゴー領を軽く見られる事に繋がり、軽く見られる事で辺境伯が持たされている権利が奪われないとも限らない。
そうなれば、辺境の魔物から国を守る盾の力は削がれていくことになり、いつか大きな悲劇がインテリオラを襲うだろう。その時真っ先にその悲劇に見舞われるのはマルゴー領だ。
王都に出張する前にそのような説明を上司から受けた。
小隊長には難しい事はわからないが、とにかく舐められてはいけないということだ。メンツの問題である。
この、目の前で腰を抜かしている、我が子を想っていただけの父親は、マルゴーのメンツのためにこの世から去る事になるのだ。
そしてそれを成すのは、同じく子を想う父親である、この小隊長である。
「……ままならんものだな。まあ、アンタにも守る物があったんだろうが、そりゃ誰だって同じだ。そいつが競合しちまう限り、最終的には強い方が勝つ。
今回はまあ、オキデンスの大公よりインテリオラの地方貴族の方が強かった。それだけだ」
小隊長は、護衛を切り殺して血が滴るままにしてあった剣を振り上げた。
「ま、待ってくれ!」
「悪いが、命乞いなら聞けないぞ。こっちも仕事なんでな」
「私はいい! む、息子には手を出さないでくれ!」
小隊長は剣を止めた。
息子と言うのは、お嬢様と同じ学園に通う、例の影武者の事だろう。
彼をどうするのかは聞いていないが、彼は元々王子に成り替わってオキデンスに君臨するのが目的だったという話だ。
ここで大公を始末した場合、その計画は八割方破綻する事になるが、かといって逆転が不可能というわけでもない。密かに王子を殺してしまえば成り替わる事は可能だ。すでにマルゴーや王家には影武者の事は知られているので、やった瞬間犯人はバレバレになるが、それをインテリオラ側が証明するのは難しい。
影武者がもしオキデンス王の地位を狙い今後も活動を続けるとしたら、いつかまたマルゴーと対立する日が来るかもしれない。
そうなってしまえば当然命の保証は出来ない。
「……約束は出来んな。そもそも、俺にはそんな権限もないし」
オキデンスの王の座を狙う、息子の将来を考えたのだろう。
大公は悩ましげに顔をしかめた。
「……で、では、お前から見て、どうだ。息子が生き延びる道があると思うか。あれば教えてほしい!」
そんな事を聞かれても、一介の小隊長に過ぎない身では言える事はない。
だいたい、マルゴーの軍人というのは物事を考えるのが苦手なのだ。難しい事は領主や偉い人が考えてくれるし、基本的にそれに従っていればいいのだから。下士官となった今でこそ現場での判断が求められるようになったが、今のはさすがに現場で出来る判断を超えている。一国の大公の嫡子の行く末などわかるはずがない。
「……アンタの息子がオキデンスの王位を狙っている限り、難しいんじゃねえかな。たぶん言っても諦めないだろうし」
その目標がある限り、大公の息子は王子の命を狙うだろうし、狙われる王子の側に大事な娘がいるのなら王家もマルゴー家も黙っていないだろう。
小隊長の言葉を聞くと、大公は少し考え込むように黙った。
あまり待ってやる時間もないのだが、と思っていると、屋敷周辺のクリアを任せていた第二小隊長がやってくる気配がした。
そろそろ始末をつけねばならない。
「……ならば」
「ん?」
「──どうしたんですか、先輩。まだ殺ってないんですか」
大公が何かを言いかけた。
そこに第二小隊長がやってくる。
「ああ。ちょっとな。悪いが少し待っててくれ」
第一小隊長がそう言うと、第二小隊長は剣をしまって待機の姿勢に入る。
立場は同じ小隊長だが、今回の作戦においての指揮権は第一小隊長に与えられていた。
「……ならば、息子ではなく、息子の夢を……殺してくれ。それで、何とか息子の命は……」
「夢を、殺す? どういう事だ。悪いが俺には学がないんで、意味が分からん」
「息子の夢、オキデンスの王……。その地位が無くなってしまえば、息子は王子を殺す必要がなくなり、そっちの、マルゴーだったか、に迷惑をかける事もなくなる……はずだ」
王位が無くなるとはどういうことだ。そんなもの軽々しく出したり消したり出来ないだろうに。
「なるほど。つまりこのオキデンス王国そのものを滅ぼせという事ですね。なんで大公自らそんな事を先輩にお願いしてるのかわかりませんが、どうします?」
そういうことか。
しかし、どうします、とか聞かれても、やはりそんな大事は小隊長に過ぎない身では判断できない。
ここは一旦持ち帰って、とでも答えようかと思っていると、第二小隊長は言葉を続けた。
「奥様──臨時司令官殿の指示では、任務達成に必要であればオキデンスの滅亡もやむなし、って事でしたよね。つまり、現場指揮官の先輩の裁量次第で、別に滅ぼしても滅ぼさなくてもどっちでもいいって事になるんじゃないかと思いますけど。
俺としては、指揮官の先輩が命じるなら残業もしょうがないかなって感じですね。もちろん、後で何か奢ってもらいますけど」
八章は次回でおしまいの予定です。
その次は最初だけお嬢視点ですが、それ以降の全章が別視点の予定です。
なので章題も「レディ・マルゴーと~」ではない感じにします。たぶん短め。




