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父の恋人

作者: 柚原在那

この世の中で、一番きれいなものとはなんだろう。

 雨上がりの空。コップにつがれたソーダ水。原色の虹。中学生の頃から、気がつくとそんなことばかり考えていた。それは、大人になることは穢れていくことなんてチープな悩みでも、思春期特有の物思いでもなんでもない。

 ただ、私が日常的に汚いと言われていたから、そんなことを考えてしまうのだ。

 どんなにシャンプーをしても、髪型を変えてみても、手を洗い続けても、私は汚いと言われていた。

 石鹸が私の存在くらい小さくなるまで使い続けた。食べ物の味が分からなくなるまで歯を磨いた。

 でも、私を汚いと詰る人達は見た目のことを指しているのではないと、ずっと前から気づいていた。

 

 母が亡くなったからだ。


 父が今、交際している女性がいると私に告げたのは、夕飯を食べている時だった。

 私はいつも、父の帰宅時間に合わせて夕飯作りをはじめる。瑞々しいレタスをざっと洗い、トマトやベーコンと一緒に盛りつける。それから鶏肉を照り焼きにして、薄めのコンソメスープを煮詰めて完成だ。

 洋食好きな父に、十一年前からずっと食事を作り続けてきた。

美雨(みう)、ただいま。」

 台所の暖簾をくぐり、ワイシャツ姿の父が顔を出す。

「おかえりなさい。今、ご飯出すね。」

 私と父はダイニングテーブルに向かい合って座ると、今日一日に起こった他愛のない出来事を話す。父の仕事のこと、私の仕事のこと。ちょうどいい焼き加減になった鶏の照り焼きを齧ると、ほのかに甘い醤油の味がした。

 父は

「これ、うまいな。母さんにも食べさせたかった。」

 そう言ってコンソメスープを飲んだので、私は少し安堵して言った。

「お父さんがお母さんの話をするの、久しぶりだね。」

「そうだったか? そんなことはないぞ。」

 ううん、久しぶりだよ、と私はパンをちぎりながら控えめに答える。すると父は、あまり大きくはないが優しい眼を細めてまっすぐに私を見た。

「美雨」

「なあに?」

「もしも、父さんに恋人がいると言ったら、

 どうする?」

 私は、どうするも何も、と口ごもりながら、口内の水分を奪っていくパンに喉を詰まらせそうになった。

「お父さんの人生だから、本当に好きな人なんだったらいいと思う。」

「そうか。」

「いるの?」

 私が間髪入れずに問うと、父は意を決したように頷いた。それからは、胸につかえていたものを吐き出すかのように滔々と語り出す。

 付き合って一年になる彼女は、シングルマザーで七歳の子供がいること。近々再婚を考えていること。とても、誠実な女性なのだということ。

 そして、一番最後に語られた真実に、私は息を飲んだ。


「実は、その人は美雨と同い年なんだ。」

 

 一瞬、思考が追いつかなくて、数秒間手元のパンを見つめる。しんと静まり返ったリビングに、水道の水が落ちる音がした。それでも懸命に言葉を探していると、ますます呼吸が苦しくなっていく気がした。

 私と同い年ということは、今年で二十四歳になる女性なのだ。そして、父は四十六歳になる。

 私は、父がいつか再婚した時のためにとっておいた、「おめでとう」という言葉を、そっと心の片隅にしまいこんだ。

「僕は、美雨に彼女と会ってほしい。もちろん、彼女の子供とも。」

「要するに、その子は私の妹になるってことだよね?」

 そうだ、と父は頷いて残りのスープを一気に飲み干した。

「美雨の都合に合わせて、一度四人で食事でもしよう。いつなら空いてる?」

「お父さん。」

 ん、と父が窺うような声を出したので、危うく泣きそうになってしまった。

 涙の出る直前の喉の痛みに耐えながら、振り絞るように言葉を返した。

「こんなこと言って、気を悪くしたらごめん。何か、隠してない?」

「………彼女は今、妊娠してるんだ。」



 そんなことがあったんだ、と光野(こうや)は宅配ピザにかぶりつきながら言った。

 長く伸びるチーズがあまりにもおいしそうで、私もシーフードピザを切り分けた。トマトの酸味が濃くて、ホタテの貝柱やイカとよく合う。母が生きていたころ、父のためにしょっちゅうピザを作っていたことを思い出して、また少しだけ泣きそうになった。

「私、お父さんの再婚については賛成なの。お母さんが死んでから十二年間、ずっと頑張ってきてくれたから。」

「ただ、その相手が美雨と同じ二十四歳になる女で、しかも子供までできてたことにはショックだったんだ。」

 何も言えずに黙っていると、光野は静かに私の頭を撫でた。図星をつかれて私が傷ついている時に、光野は必ずこうしてくれるのだ。

「お父さんは、私には何でも話してくれてると思ってたんだろうね。自分は、光野の話だって聞かれないと答えないくせに。」

「まぁ、できちゃったものは仕方ないし、歳の離れた兄弟もできるわけだし、喜んでおけば?」

 そうだね、と私は相槌を打って、ピザの残りを口に運んだ。心が重い時には、何を食べても味を感じないのはどうしてなんだろう。

 私はちらりと壁掛け時計で時間を見て、ため息をついた。

「彼女とその子供には、いつ会うの?」

「今週の日曜日。緊張するな。何を話していいのか分からないよ。」

「美雨が聞きたいことを聞けばいいんだよ。本当にうちのお父さんを幸せにできるんですか? 私のママになれるんですか? って。」

 光野が口をあまり開かずに、ぼそぼそと話す姿があまりにも私と似ていたので、五年も付き合うと怖いな、と苦笑しながら思った。緊張しすぎて瞬きの回数が多くなるところも、しっかりとお見通しなようだ。

 私は淡いオレンジのカーディガンの裾を肘まであげ、どんな人なんだろう、と呟いた。父には聞きにくいな、と思う反面、きっと聞きたくないというのが本音なことにも気づいていた。

「その彼女さんのこととかで、何かあればいつでも連絡して。話を聞くくらいしかできないけど。」

 それだけでいいよ、と私は光野の肩に頭を凭れかける。細いわりには、筋肉のついている身体に、あらためて男の性を感じた。毎年日焼けしている鎖骨が、今はまだ白い。毎年彼と行っている海の、潮の香りまでもがリアルに思い出せるようだ。

 私もいつか、光野と結婚する日が来るのだろうか。口から心臓が飛び出しそうになるくらい緊張しながら、父に光野を紹介するのだろうか。

 多くの人が通ってきた普通の道なのに、私には何の関係もないことに感じる。

 いじめられていた頃、「明日」が来ることはとても遠いと思っていた。いじめられなくなる日なんて来ないと思っていた。

 目を閉じるとそこには果てしない暗闇だけがあって、クラスメイトの嘲笑する声だけが響いていた。

 当時の恐怖はだんだんと薄らいでいて、よく思い出せない記憶もある。だけど、未だに通っていた中学校の制服を見たり、クラスメイトと背格好が似ている子を見ると、身体が震えた。

 すべてのトラウマが、私を逃がさないかのように、まとわりついてくるのだ。

 ぎゅっと目をつむって耐えていた闇の中に、今も私は蹲っているのだろう。

「美雨。」

 名前を呼ばれてはっとすると、光野が心配そうな表情を浮かべていた。

「気分悪いの?」

 慌てて首を横にふると、

「よかった。ピザを食べ過ぎたのかと思ったよ。」

 と、全く見当違いなことを言われて脱力しそうになった。光野は時々、こうしてわざとおもしろいことを言うのだ。

「まだ一ピースしか食べてないもん。」

 私もわざとむきになったように言い返して、それからは残りのピザを競うようにして食べた。


 父の恋人とその子供が来る時間が迫るにつれて、そわそわと落ち着かなくなり、スカートの裾ばかりいじってしまう。

 一分ごとに時計を見上げてはため息をつく私を見て、父は小さく笑った。

 家よりは洒落たレストランの方が美雨も相手も落ち着くだろうと、父の提案でできたばかりのイタリア料理店に連れられてきた。

 父はいつの間に買ったのか、テレビCMで見た最新のスーツを着ていて、まだかたさの残るシャツがなじんでいないようだった。

 私は洒落っ気のないブルーのワンピースを着て、申し訳程度に髪を巻いてきた。手鏡をのぞくとピンクのグロスを塗った唇だけが場違いなほどつやつやしていて、驚くほどの存在感を放っているように見える。ビューラーで睫毛はあげてきたけれど、目には不安の色が浮かんで、相手に不快感を与えないかと頭を抱えたくなった。

「大丈夫だよ。悪い人じゃないから。」

 父はそう言ってタバコに火をつけた。不健康な色の煙が漂ってきて、私は右手で小さく顔を仰いだ。

 店の外にある喫煙所の灰皿には、いろんな種類の吸殻が潰されていて、一体何人の人が一日に来るのだろうとぼんやりとした頭で考える。

「あ、来た。」

 丸みを帯びた軽の車が駐車場に入り、父は嬉しそうな声を出す。

 中からは髪を明るい茶色に染めた女性と、聞いていた年齢よりも幼く見える女の子が出てきた。

 この人が、父の恋人なんだ。

「ごめんなさい、遅くなって。」

「いや、こっちも今来たところだから。」

 一瞬、脳内が酸欠を起こした時のように真っ白になった。足に力が入らなくて、崩れ落ちそうになる。それは緊張のためでも、不安のためでもなく、純粋な恐怖によるものだった。

「美雨、紹介するよ。今僕がお付き合いしている、水野(みずの)ルミカさんと、娘のすみれちゃんだ。」

 ミズノルミカが驚いたように私の顔を見て、息を飲んだことが分かった。

 

 父の恋人は、私をいじめていた人だった。



 やや薄暗い照明の店内に、ルミカとすみれちゃんと向かい合って座る。

 私は内心、父から彼女の話を何も聞かなかったことを死ぬほど後悔していた。でも、たとえ知っていても、断る勇気も逃げる勇気も、私にはなかったかもしれない。諦めにも似た気持ちで、ウェイターに出された驚くほど冷たい水を口に含む。

 先ほどから父が、ルミカとの出会いや交際に至るまでの話を延々と続けている。本当に投げやりな気持ちになりながらも、適当に相槌を打った。

「というわけで、美雨とルミカは同い年だから、お互いにちょっと、いや、かなり戸惑う部分もあると思う。けど、新しい家族として徐々に仲良くなってもらえれば、というのが僕の正直な気持ちだ。」

「お父さん、私、ルミカさんのこと知ってるよ。」

 えっ? と父が聞き返すのと、ルミカの表情が曇ったのは、ほぼ同時だった。

「仲良しグループは違ったけど、中学の時に同じクラスだったよ。」

何の感情もこもっていない声で、淡々と事実を述べる私はひどく滑稽に思えた。今ここでルミカを詰れば、結婚だって破談になるかもしれないのに。

「そうだったのか、早く言ってくれればよかったのに。」

「本当に本人かなと思って。」

 白いテーブルクロスの下で、膝に思い切り爪を立てる。そうしていないと泣いてしまいそうだった。

 吐き気を堪えて注文したペスカトーレをフォークに巻きつけていると、バジルののったピザを食べていたすみれちゃんが、ちらりとこちらを見た。

「おいしい?」

 私が唇の動きだけで聞くと、すみれちゃんは目を見開きながらも、小さく頷いた。ルミカに似たぱっちりとした二重だった。

 それから他愛もない話を二時間ほどして、その日は別れることになった。

 ルミカに手を引かれたすみれちゃんは、帰り際に手を振ってくれた。

「会ってみて、どうだった?」

 帰りの車中で父に聞かれ、私は目を閉じて答えを探す。

「ん、まぁ、普通かな。」

 なんだよそれ、と父は笑い、ふと思い出したように、

「そういえば美雨は、ルミカと同じ学校だったんだな。学生時代のルミカはどんなだった?」

「いや、グループが違ったし、あまり喋ったことがないから分からないよ。」

 自分でも冷たい言い方だったな、と気づき、

可愛かったから目立っていたけどね、と付け足した。

 車窓から見上げた夜空は、一面のコバルトブルーで、くすんだ金色の満月が浮かんでいる。周りの雲が真綿のように月を囲んでいて、母親に抱かれた子供のようだと思った。

「ルミカは学生だった時のことをあまり話したがらなくて、いじめられていたんじゃないかと思うんだ。無理に聞くようなことは絶対にしないつもりだけど。」

 いじめられていたんじゃないか、という父の言葉に、心が抉られるほど苦しさがこみあげてくる。

 帰宅して布団に潜りこむと、いじめが始まった日の記憶が鮮明に甦ってきた。

 私が中学一年生の夏、母が末期の乳がんで亡くなった。長い闘病生活を続けていて、やせ細った身体は親戚でも誰だか分からなくなるほどだった。

 ふっくらと熟した桃のようだった頬は、角張った頬骨が浮かび上がり、指も子供だった私なんかよりも細く、力ない絵筆のようになってしまった。

 最後に父が、「どこか痛いか?」と声をかけると、母は首を横に振ってにこりと微笑んだ。それから台風が迫った夜に、穏やかな表情で死んだのだ。

 慌ただしく通夜や葬儀が執り行われ、すっかり憔悴しきって登校すると、後ろの方にあった私の席に菊の花が添えられていた。

 目の前の光景に呆気に取られていると、クラスメイト数人がにやにやしながら、「屍が来たぞ!」と大声をあげる。

 ほんとだぁ、汚ぁい!

 死体の子供! 死体の子供!

 マジで帰れよ、縁起わりぃ………

 彼らの言葉はどこか異国のもののように、耳の間を通り抜けていく。

 それでも私は吸い寄せられるように自分の席に座り、菊の花をロッカーの上へ置いた。

 休んでいた間のプリントを一枚一枚確認していると、後ろから思い切り菊の花で叩かれた。

「無視してんじゃねぇよ、屍。」

 愛らしい二重の目を意地悪く吊り上げて、ルミカが言った。周りの生徒たちもそれに同意するように大爆笑をぶちまけると、口々に私に罵りの言葉を浴びせる。

 なぁ、お前はいつ死ぬの?

 母親の後を追って今すぐ屋上から飛び降りろよ。

 その日を皮切りに、私の机には中傷の言葉が刻まれ、持ち物はしょっちゅうなくなった。

 誰かの、「マジで春山(はるやま)美雨、死んでくれねぇかな。」という一言で、毎日のいじめはスタートする。

 時々傍観しているクラスメイトから、「春山さん、かわいそう。」という呟きも聞こえたけれど、誰が自分の身を挺してまで生贄を助けるというのだろう。

 ある時の健康診断で、女子は心電図をはかるためにブラジャーを取るようにと保険医が告げた。はかっている間は近くにあるプラスチックのかごに下着を入れておかなくてはならず、私が診断を受けている間に下着がなくなってしまった。

 私は血の気が引いて何度も探したけれど、とうとう見つからずに、体操着を着たまま制服を身につけた。

 不安を抱えたまま教室に戻ると、クラスで一番背の高い男子が、

「春山、こんなに地味な下着なのかよ。」

 と言ってなくなったはずの下着を教室中に見えるように高々と掲げた。

「やめてよ、返して。」

 私が手を伸ばしても、圧倒的な身長差に阻まれて取り戻すことができない。

「春山は今、ノーブラなんだって。超淫乱じゃん。」

 ルミカが響く声で笑い、

「こいつ淫乱だからさ、誰か胸でも触ってやりなよ。」

 とクラス中の男子を見やる。すると、背の高い男子が私を羽交い絞めにして、

「ほら、誰が最初にやるんだよ!」

 と怒鳴った。私は渾身の力をこめて身体を捻るが、男の力には適わず、ただ声にならない悲鳴をあげるばかりだった。

「じゃあ、俺がやるよ。」

 学校の中でもかなり不良だと言われている金髪の子が、薄笑いを浮かべて私の胸に手を伸ばしてきた。

 クラス中の視線がその子の手に注がれる。


 ああーっ、と叫んだ自分の声で目が覚めた。

 一瞬ここがどこだか分からなくなり、辺りを見回すと、お気に入りの小物やいつも聞いている時計の音が耳に入ってようやく落ち着いた。

 久しぶりに、悪夢を見た。

 大きく乱れた呼吸を整えて、激しく鳴っている心臓の鼓動を押さえ込むように掛け布団ごと抱える。

 もう済んだことだと思っていたのに、私の記憶は、私の身体は、あの時のことを少しも忘れてなんかいなかった。

 私に死ねと言ったルミカが、私の義理の母になる。父との子供を生む。ルミカと同じ顔をしたすみれちゃんが、私の妹になる。

 どうしようもない砂漠の中に落ちたような気分になった。

 けれどこれは逃れようのない現実だということも、知っている。


 それからルミカ達は一週間に数回、泊まりに来るようになった。いずれはこの家で一緒に住むつもりなので、慣れてほしいと父が誘ったのだ。

 ルミカと父の関係は非常に良好で、年齢を感じさせない若々しい雰囲気があった。

 ただ、ルミカも当時を思い出すのか、私とは進んで話そうとせず、私とルミカの間にはいつもすみれちゃんがいた。

 父とルミカは、これから生まれてくる子供のための準備の都合もあり、入籍の時期や産院の話をよくしていた。

「ねぇ、赤ちゃんが生まれたらなかなか二人で出かけることもできなくなるだろうから、たまにはどこかに行ってきていいよ。私はすみれちゃんと遊んでるから。」

 本当は、ルミカがストレスを感じて流産でもされたら、報復でもされるかもしれないと思って出た言葉だった。

 ルミカは窺うように父の顔を見ていたけれど、父は、

「そうか。すみれちゃんと美雨も、これから姉妹になるんだし、お互いのことを知っておいた方がいいな。」

 と、すみれちゃんの頭を優しく撫でた。

 どこかへ出かけるならおいしいものでも食べろ、と父から五千円をもらい、二人が出かけるのをすみれちゃんと見送った。

 さて、と言ってみたはいいものの、私は今までずっと一人っ子として育ったため、子供の扱いはまるで分からない。すみれちゃんも今まで一人っ子だったのだと思い出し、普段は何をして遊んでいるのかと訊ねた。

「何もしないよ。ずっと家にいるの。」

 すみれちゃんはあまり感情の起伏がなく、大人の顔色の非常に気にするところがある。そしてそれは、私によく似ている。

 何もしていないとの答えに、私はとうとう光野へSOSを送ることにした。

「じゃあ、これから三人で遊びに行こうよ。俺、子供好きだし。」

 あっさりと光野にOKをもらい、すみれちゃんに、

「今から私のお友達のところに行こうか。」

 と誘うと、子供らしくぱっと目を輝かせて頷いた。

 今年の梅雨入りは遅い、とニュースで聞いたとおり、空は青く、どこまでも高かった。

 車の多い通りを歩いていかなければならないため、私はそっとすみれちゃんの手を取ると、おずおずと握り返してきた。

 七歳の手は、こんなにも小さい。すみれちゃんの着ているTシャツは、濃いピンクと白のグラデーションがとても綺麗だ。ルミカは昔からお洒落だったから、相変わらずセンスがいいのだと思った。

「ねぇ、美雨お姉ちゃん。」

「なあに?」

 車の音の掻き消されそうなほど、すみれちゃんの声は小さくて、私は顔を近づけた。

「新しいお父さんは、叩いたりしない?」

 驚いてすみれちゃんの顔を見ると、彼女は至って真面目な顔をしていた。

「どうして? 私のお父さんはそんなことし

 ないよ。」

「すみれのパパは、毎日叩く人だったの。すみれのことも、ママのことも。今はね、ママと二人で暮らしてるんだけど、新しい家族ができるから。また叩かれたら嫌だなって。」

「そうなんだ。」

「すみれね、学校でいじめられてたんだ。」

 小学校に入ってね、二学期になった時、体育が終わったらお友達の靴がなくなっちゃったの。みんなで探したんだけど、みつからなくて、すみれが水を飲みに行った時になくなったんだから、盗んだんだって言われちゃって。

 私は歩くスピードをゆるめながら、すみれちゃんの話に耳を傾ける。すみれちゃんの、私の手を握る力が強くなった。

「違うって言ったけど、誰も信じてくれなかった。それから、泥棒は学校に来るなって

 毎日言われて。担任の先生も、すみれちゃん本当のことを言ってって。すみれは盗ってないのに。」

「疑われたんだ。それは、嫌だったね。」

「うん。でも、ママだけはすみれのこと信じてくれたの。すみれは盗ってないって、言ってくれたの。」

 実の父に暴力を振るわれて、小学校では無実の罪でいじめられて、すみれちゃんが何をしたというのだろう。確かにルミカは因果応報的な部分はあるけれど、その皺寄せがすみれちゃんに来たことには、形容しがたい思いがあった。

 私は相槌を打ちながら、飲み物の自動販売機で、すみれちゃんにジュースを買った。

 待ち合わせ場所で、大きく手を振る光野に私も手を振りかえした。

「はじめまして、美雨の彼氏の光野です。」

 子供好きな光野は、満面の笑みで自己紹介をする。すみれちゃんも自己紹介をして、すぐに光野と打ち解けることができた。

 光野は行ってみたい水族館があるから行こうと提案し、そんなに遠くはないこともあって電車で行くことにした。

 普段年上の人と話す機会があまりないためか、すみれちゃんは光野の話に何でも興味を持った。彼女がそんなに人見知りではないことが分かって私が胸を撫で下ろした頃、水族館のある駅についた。

「すみれ、水族館に来たことないんだ。」

「そうなの? じゃあ今日は俺達といっぱい楽しもうね。」

 光野が館内のマップを片手に、すみれちゃんに見たいものを訊ねる。

ドーム型の水槽では、マンタやイルカが優雅に泳いでいる。昔、遠足で来たことを思い出した。

「ねぇ、光野。私、シロワニが見たいな。」

「何それ? ワニが白いの?」

「ううん。サメだよ。」

 見たい! とすみれちゃんの弾んだ声に押されて、シロワニのいる水槽まで足を運んだ。

 目つきの悪い、鋭い歯をたくさん持ったサメの前には多くの人だかりができていた。

 高校生の時に読んだ恋愛小説で、主人公が苦手な大学の男の子と二人で水族館のシロワニを見に行くという話があった。男の子はシロワニと聞いて、やっぱり光野と同じ勘違いをしていた。

「すみれちゃん、シロワニ怖い?」

「ううん! 大きくてかっこいい。」

 シロワニは温厚な性格で、「巨大な子犬」とまで呼んだ学者もいると、説明のプレートには記してある。

 その後は水族館内のカフェでランチを食べ、お土産コーナーですみれちゃんとおそろいのシロワニのストラップを買った。

「シロワニが凄くかわいくなってる。」

 と言って光野は笑い、パパとママのお土産にしな、とイルカの形をしたクッキーをくれた。

 なかなか充実した一日だと思って帰宅すると、リビングでルミカが育児雑誌を読んでいた。父は用事で家を空けているとのことだった。

 すみれちゃんは私と光野がとても良くしてくれたのだと嬉々として語り、二階の部屋へ荷物を置きに行った。私も部屋へ戻ろうとすると、

「待って。」

 とルミカに呼び止められた。

「今日は、ありがとう。すみれも、とっても

 楽しかったみたい。」

「いい子にしてたよ。じゃあ。」

 私は目を合わせずに早口で答える。ルミカと話すだけで、冷や汗が出そうになった。

「ねぇ、私のこと恨んでいるでしょ?」

「………恨んでないよ。」

 恨んだって、何も変わらないでしょ、と返すと、ルミカは目に涙をためて言った。

「私、高校に入学してすぐに、すみれを生んだの。すみれの父親はどうしようもない人で、お酒が入ると暴力ばかり振るう人だった。今まではどんなことでも我慢できたけど、小学校にあがってすみれがいじめられ

るようになって、私は、ようやく気づいたの。」

 ルミカは喉が圧迫されたかのように掠れた声を振り絞り、美雨にしてきたこと、と言った。

 私は左手に持ったクッキーの袋をどうすることもできずに、いつまでも握り締めている。両手にはひどく汗をかいていた。

「本当に、ごめんね。」

 ホントウニ、ゴメンネ

「ごめんね。」

 リビングにはルミカの嗚咽だけが響いた。ガラスのドア越しに、すみれちゃんが入れないでいるのが分かった。

 本当に何も返す言葉がなくて、私は黙っていた。

 恨んでなんかない。私はもう、思い出したくないのだ。母の死を、笑った彼女を。私を、菊の花で叩いた彼女を。

 でも、きっと許せないでいるのだ。いつまでも。

 静かに唇を噛み締めて泣くのを堪えていると、リビングのドアが開いて最悪のタイミングで父が帰宅した。

 父は泣いているルミカに驚いて背中をさすり、何があったのかと聞いている。私を見た父は何も言わなかったが、その視線は完全に私を責めているものだった。

 たまらず私は家を飛び出し、夜の中を全速力で走った。

 夜風がひんやりと吹いていて、涙で濡れた頬を冷やす。夜が、街が、世界が、すべてが、私の敵になってしまったような寂しさがあった。

ミュールでうまく走れるはずもなくて、何度も転びそうになりながら光野の家に辿りついた。

 泣いている私に彼も驚いていて、男の人は本当に女の涙に弱いな、と思った。

「とりあえず入りなよ。」

 と部屋に招かれ、座ると同時に光野の背中に抱きついて泣いた。声を出すのはさすがに憚られたので、奥歯を食いしばって、最低限の嗚咽で留める。

「お父さんが再婚しちゃったら、寂しい?」

 光野が優しい声で問いかけ、私は首を強く横に振る。

 父が幸せなら、それでいいのだ。

 ただ、私よりも先に泣いていたルミカを優先されて、打ちのめされた気になっているのだ。成人して少しは大人になったつもりだったけど、私はまだ子供なんだと気づかされた。

 父が、私だけの父でなくなってしまう。

 義理の妹と、これから生まれてくる子の父にもなってしまうのだ。そして、私をいじめていた人の夫にも。

「何があったかは知らないけど、美雨のお父さんは、何があっても美雨の味方だよ。

 もちろん、俺もだけどね。」

 光野の着ているグレーのパーカーを引っ張って、私は何度も頷いた。一時的な感傷に浸るほどに、私はまだ子供なのだ。


 目が覚めると、光野のベッドで寝ていた。泣きすぎたあとの頭痛と、目の痛みがじんわりときた。深呼吸をすると、横隔膜が振動しているのか若干の苦しさがあった。

 光野は既に起きていて、朝食のトーストを焼いている。

「まだいてもいいけど、どうする?」

「シャワー借りてもいい? 浴びたら、すぐに帰るよ。」

 光野からバスタオルを借りて、改めて浴室の鏡をのぞくと、腫れた目が真っ赤に充血していた。頭から熱めのお湯を浴びると、少しだけ胸の痞えも流れたような気がした。

 送るという光野に大丈夫だと返し、私は朝靄がかかった道を歩きだす。

 これから自分や家族がどうなっていくかなど検討もつなかいけれど、それでも私は、自分の家に帰りたかった。

 家の門扉の前に、小さな影があると思ったら、すみれちゃんが膝を抱えて私の帰りを待っていた。

「すみれちゃん、どうしてここに?」

「美雨お姉ちゃんのこと、待ってたの。朝起きてから、ずっと。」

 私は、自分よりもずっと小さいすみれちゃんを抱きしめて、一緒に小さく丸まった。肉付きがいいとはいえないすみれちゃんの身体は折れてしまいそうだったが、私にとっては今、世界で一番愛しい存在だった。

「私、すみれちゃんと家族になりたいよ。すみれちゃんの、ほんとのお姉ちゃんになりたいよ。」

 すみれちゃんは何も言わずにこくりと頷いた。許容でも海容でもない気持ちが、心に染み渡っていくのが分かった。

 

さよなら、いじめられていた私。あなたの運命はとても数奇なものかもしれないけど、でも悪いものではないよ。

 私は、そろそろ自分の時計を動かさなければならないのだ。

「おうちに入ろうか。」

 すみれちゃんと私は立ち上がり、手をつないで玄関のドアを開けた。

 もう目をつむっても、その闇の中に蹲っている私はいない。













最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


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