1-3
私は一人で帰り道を歩く。
今日は朝からよく晴れていて、沈みつつある真っ赤な太陽が雲一つない空を黄昏色に染めていた。東の空から夜の帳は下りはじめ、群青色の夜空が天球を端からかじり始めるころ。
ある路地に差し掛かかった私の足が止まった。家とアパートに挟まれた狭い道。ここを越えて少し行けば、我が家はもうすぐのところにある。
けれど、そこには女性が立っていた。
煌びやかな金髪。特徴的な服装。
彼女はようやく、口を開いた。
「やっと会えたわね。かさね」
どういうわけか彼女が私の名前を知っていたことに、私の心臓は跳ね上がる。どきどきと鼓動が高鳴ることを感じながら、路地に入っていく。その端正な顔立ちにまっすぐ視線を向けながら、意を決して口を開いた。
「あなたは……誰?」
彼女は私の質問そのものが面白いと感じているように笑う。その答えはすぐに返ってきた。
「私は、上岡あさみ。あなたの母親よ」
は!? え……?
彼女が告げたのは私にとって驚愕の言葉だった。
そんなことあり得ない。だって、警察が捜索して、手掛かりの一つだって見つからなかったのに、どうやって――それにどうしてそこまでして、姿を消す必要があったの?
「……私の母親は十年前に死んだはずです」
「行方不明、でしょ?」
驚きに目を見開く。少なくとも、でまかせを言っているのではないということだろうか?
しかしそこで、母親を名乗る女性の、ファッション雑誌にでも出てきそうなきれいな顔を眺めて、ひとつ気づいたことがあった。母親の記憶がほとんどないからとっさには気づかなかったけれど、明らかな矛盾点だ。
「たとえ生きていたとしても、もう五十歳近くになるはずです」
目の前でくるくるとブロンドの髪を指に絡めている彼女は、どれだけ年齢を上に見積もっても、せいぜい三十過ぎというところだった。ましてや、私の母である上岡あさみは、父よりも歳上だ。
「そうね。若造りしてるから、とは言えないわね。これには少し深いわけがあるの」
彼女は私の言葉を肯定して、それからさらに続けた。
「私は、魔女になったのよ」
今度は、さっきとは別の意味で信じることのできない話だった。もしかして、私はどこかの狂人のうわ言を聞かされているだけなのだろうか。そんな考えが頭に浮かんだ私が心の底から信じていない様子なのを見て、彼女は慌てて口を開いた。
「信じられないのもわかるけど、話を聞いて」
そう言っても私は「はあ」なんて、生返事を返すだけなものだから「もう、人の話はちゃんと聞くようにって真二さん教えなかったのかしら」なんてぶつぶつ文句を呟いた。
「まず私が失踪したのは、邪神ナイアルラトホテプに追われていたからよ」
彼女の説明はもう第一声から、口を挟まずにはいられなかった。邪神、なんて嘘くさくて、今時小学生だって唱えたりしないだろう。
「本気?」
「ええ、至極本気よ。私の娘なら、きっと信じてくれると思っているわ」
だから、その娘というのを否定しようとしていたのだけれど……。水掛け論になるだけなので、私は口をつぐんだ。
「成実が生まれてしばらくしたくらいに邪神は現れて、ちょくちょく攻撃を受けていたんだけど、ついに十年前、成実が殺されてしまった」
それが、私の兄の変死の理由だっていうの? 邪神に殺されたっていうのが?
訝しむ私の表情を見ても、彼女は涼しい顔で狭い路地の中をうろうろと歩き回った。
「この時は流石に堪えたし、ここにいれば真二さんやかさねにまで危険が及ぶと考えて、私は姿を隠したわ。それから、成実を守れなかったことを悔やんで、魔女の力を手に入れた。この見た目はその力を使ってるわけね」
正直、受け入れがたい話だった。まず邪神だの魔女だのという言葉が胡散臭いし、疑問点も尽きない。とはいえ、彼女が言った「真二さん」というのは私の父の名前だし、成実という名も知っていた。私や父ならともかく十年前に死亡した小学生の名前まで知りえるものだろうか。
私が足元のアスファルトに目を落として、いったいどこまで聞き入れるべきかということを考える横で、彼女は壁に背中を預けて手を広げるようなポーズを見せた。
「まあ、かさねが信じないならそれでいいわ。信じがたいことなのは確かだしね。それよりも、私はかさねに聞きたいことがあるのよ」
「聞きたいこと?」
私が聞き返すと、彼女は一転真剣な表情を作った。
「最近、不思議なことはなかった? ――例えば、夢とか」
指摘されて、ハッと息を呑む。確かに、私は不思議な夢を見て、そのせいで今目の前の彼女と話しているのだけれど、そんなことをどうして彼女が知っているのか。
私のリアクションを見ると、彼女は距離を詰めて、いささか声を潜めるように、秘密を話させるように、詳細を尋ねた。
「……やっぱりあったのね。どんな夢?」
今朝の夢の記憶は、朝の時点ではかなりおぼろげになっていたけれど、夢の中で見た彼女が目の前にいる今、むしろあの時よりもはっきりと思い出せた。
「夢では、奇妙な多面体を手にとったら、意識がどこかに飛んで、どこかの風景を見て、戻ってきたら、あなたがいました」
「私?」
「はい、あなたから十字架のペンダントを受け取って、目覚めました」
すると、彼女はなにかに納得したように呟いた。
「ああ、それはリップサービスね」
リップサービスという言葉も気になったが、そんなことを追求してる場合ではなかった。
「どうして、それを?」
「私はね、かさねにあることを教えるために来たの。今のはその確認。でも、たぶん確定ね」
「なんですか?」
彼女は私の両肩を掴み、じっと顔を近づけて自称した通りの至極本気な表情のまま、告げた。
「かさね、あなたは魔法少女になるわ」
私の頭の中は突然のミスマッチな事柄に、処理落ちを起こした。
「魔法少女……?」
魔法少女っていうと、杖を持って、妙なマスコットを連れて、フリフリのフリルドレスを着て、まっ白なソックスにキラキラのエナメルパンプスを履いた、魔法を使ってみんなを助ける戦うヒロイン?
小さなころはどちらかというと仮面を被ったライダーに憧れたほうだったけれど。
私が、魔法少女……!?
しかし、情報の処理が正常に行われるようになると、ほら話でからかっているんじゃないかというほどに意味不明な話であることに気づき、めらめらと怒りがわいてくる。
「って、いきなりなにを言ってるんですか? 邪神に息子を奪われた母親の次は魔法少女に勧誘する不思議生物の真似ですか? 馬鹿にするのもいい加減にしてください! 願いを叶えてやるって言われてもやりませんよ!」
言うことのテイストも統一されていないし、論理性なんてあったもんじゃないし、もしも彼女が本当に私の母親だったとするなら、兄が死んだことで狂ってしまったに違いない。憤慨した私は、彼女を押しのけて路地を押し進もうとするが、追いすがる彼女が腕をつかんだ。
「待って!」
「今度はなんですか!」
腕の拘束のままに振りかえって、進行方向に背中を向ける。
「魔法少女は、神話生物と呼ばれる怪物を倒す使命を負うの」
「まだそんなことを言うんですか!」
だが、私は、この時彼女に向き直っていて幸運だっただろう。
彼女の視線の先にあるものを、目の前に突き付けられずに済んだのだから。
「そこに……!」
その言葉と同時に、私の背筋がぞわぞわと逆毛だって、背後になにかが現れたことを思い知る。それは人間の本能なのか、視界に入っていなくても、ほかのすべての感覚から、目の前にいる人間の反応から、この路地に漂う空気から、恐怖を察することができた。
『……ああ……懐かしい匂いがする……』
石をこすり合わせるようなざらついた声が、頭の中に響く。声は耳を通り抜けることなく、頭の中心から湧き出るように感じられ、言葉の体をなしていないのに、間違いなくそのように言っていることがわかった。たった一言を聞いただけで、それが現実にあるものではないことが理解できる。喉はカラカラに乾いて、指の震えは止まらなかった。凝視した視線を動かさない彼女がなにを見ているのか。私は、決心して、後ろを振り返る。
振り返った私の視界は、チカチカと色を変えるしわくちゃの楕円体でいっぱいになった。その皺の一本一本が触手じみたゴム質の角として立ち上がることで、内側の渦巻きのような形状が見えるようになる。すると、私はそれが自分の鼻先に迫る神話生物の頭であることに気づき、半狂乱になって叫んだ。
「あっ! あがが、はっ、きゃぁあああああああああ!」
できるだけそれから離れようと後ずさりすると、彼女に抱き留められる。優しく体に回された腕に包まれ、人肌の体温と柔らかさに触れて、私は少しだけ落ち着くことができた。
蠢く触角に包まれ、脳みそのようなしわくちゃの頭はめまぐるしく色を変えていた。胴体は薄赤色の硬質な殻に包まれ、連なる三対の脚の先は頑強な鋏になり、広げた爪をアスファルトに刺して、クマほどに大きな体を支えてる。背中には、形の不安定な黒い翼が不気味に揺れた。
「なに……これ……!」
かすれた声が浅い呼吸とともに喉を擦る。突然の非現実を、私は受け入れることができない。
ただ、彼女の胸に体重を預け、縋りつくしかなかった。
ふと首を持ち上げて、私の母を名乗った女性の顔を見ると、彼女は私に目を合わせて、こう言った。
「私は、『救世主』の器を見極めなきゃいけないわね」
彼女はそれを機にして、私の身体を包んでいた腕を解く。数分前まで疎ましかった相手なのに、たった一歩分の距離が不安に変わった。「置いてかないで……!」なんて、口から出そうになって、私は慌てて口を閉じる。
(私は、彼女を母親のように感じていたのだろうか……?)
自分の知らない母性というものに触れたような気がして、胸がざわつく。
彼女が私から離れると同時に、動きを止めていた神話生物が身じろぎを始める。甲殻が触れ合って起こったギシギシという音に、私はまた後ずさりしようとして、支えもなく地面に転がった。地面から見上げる蟹のような怪物は、私の存在を覆いつくすほどに大きかった。
(ここで、終わるの……?)
死への恐怖と生への焦燥が綯い交ぜになって胸が熱く疼いた。
その時、声が響く。
「伏せて!」
声に従って、私は地面に這いつくばる。頭上から聞こえる少女のような声は、さらに続けた。
「《星は流れ、光は闇を払う――ルーチェ・ステラーレ》!」
上空から、天を走る一本の川のように煌めく星屑の帯が伸び、薄暗い路地を照らした。星屑は目の前の神話生物を襲い、石礫にすりつぶされるように蟹の鋏は砕け、濁った青色の血しぶきが空中にばら撒かれる。
片腕をもがれた怪物は傷口から青黒い血液を噴出しながらも、じりじりと後退りし始める。
それに相対するように、さらに私を守るように、少女は降り立った。
「これで終わりにする」
少女は、群青色に染まりつつある空を見上げ、呟く。
その隙を狙って、神話生物はホログラムのような翼を広げて、路地から空に舞い上がった。空気を掴んでいるかのように、羽ばたくたび巨体はみるみる高度を上げていく。
「逃がすわけない」
空を睨みつけた少女は、先端に輪がついたピンク色のバトンで、夜を前に輝き始めた宵月を指した。杖の先端の輪の中心に光が灯るのを合図にして、彼女は口を開く。
「《月光は示す。天上は触れ得ず、神の杖を前に万物は跪く――カノーネ・サテリーテ》!」
呪文を唱えるごとに光は強くなっていき、眩い星が輪の中で輝くと同時に、空に浮かんだ月は一条の光を放つ。鋏を失い、黒翼を羽ばたかせ、夜空を背景に逃走を続けていた神話生物は、自分めがけて照射された真っ白な月光に包まれた。天上より放たれた極大砲撃を前に、たった一匹の蟹は、腸線の欠片も残さず、かき消える。
脅威が去って、ほっと一息をつくと、路地に男の子のような声が響いた。
「ミ=ゴなんかに手間をかけすぎぽ!」
「彼女を守りながらだったんだから仕方ないでしょ」
私を守ってくれた少女は、突然しゃべりだしたなにかと会話をしながら、こちらに向き直った。
赤いふわっとした印象のフリルドレス。ピカピカに輝く同色のエナメルパンプス。ふわふわした黄色い謎の生き物を肩に乗せ、手には先端に輪のついたピンク色の魔法の杖。
その姿は紛うことなく――魔法少女だった。
「仮面の、魔法少女……?」
しかし一つだけ違っていたのは、彼女の目元を覆う仮面。仮面舞踏会にでもつけていくような、きらびやかなヴェネツィアンマスクだけが、異彩を放っていた。
少女の容姿を見て私の口からこぼれた言葉を、彼女は予期していたように答えた。
「ええ、私は魔法少女です」