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私の名前は上岡かさね。
喧嘩する両親もいなければ、マセた兄妹もおらず、好きな男の子もいない。ないない尽くしの中学二年生だ。すこし勉強ができるくらいの普通の女子中学生で、世界一不幸とまで言えたらむしろ個性がついてよかったかもしれない。傍目からは不幸と見えても、母の失踪も兄の変死も私が物心つく前に起きたことだったから、私の中に不幸であるという意識はなかった。
それよりも、お気に入りのワンピースが着れなくなってしまったことがいまは悲しい。
待ち合わせ場所の近くにあったショーウィンドウの前に立つと、すこし不満交じりに口をへの字にした自分の顔が映った。
結局、白色のチュニックにレギンスといういつもの感じで来てしまった。
せっかく出かけるのだからなにかおしゃれしたかったという気持ちがあったせいで朝の出来事が心に響く。今更、髪を下ろせば良かったかなと、私は後ろ手に三つ編みを触った。
前髪も伸びてきた、なんて考えながらガラス面を覗いていた私は、ひょいと身をかわす。
「あわわっ!」
背後から飛びついてこようとした腕が空を切って、下手人はバランスを崩しかける。すんでのところで耐えた今日の待ち合わせ相手は抗議の表情を見せた。
「かさね、ひどいっ!」
「ガラスに映って見えたからさ」
杏子はカーキ色のカットソーにジーンズというシンプルな格好だったけれど、すらっと背の高く、さわやかなショートカットの彼女にはそれがよく似合っていた。最近は一層大人っぽくなってきていて、ちょっぴりうらやましい。
抱擁を受けてもらえなかった怒りはすぐに引っ込めて、杏子は出会って早々自慢を始めた。
「ねー見て見て、これ買ってもらったの」
彼女は顔を傾けて、耳にぶら下がった青いイヤリングを見せつける。
「かわいー! でも杏奈さんのセンスだねこれ」
「あ、やっぱりそう思う?」
「すぐわかったよ」
「私はもう一個いいなっていうのあったんだけどさ、ママめちゃめちゃこれ推してくるから根負けしちった」
「絶対こっち!」なんて言って杏子を押し切る杏奈さんの姿がありありと浮かんで、私はくすっと笑った。
イヤリングについてはもう満足したのか、杏子は気ままに改札口の方へ足を向ける。
「じゃあ、そろモール行くかー」
私は大きく首を縦に振り、彼女の出発の音頭に従った。
目的地であるショッピングモールは、私たちの住む町である藤砂から電車で一つとなりの木鈴駅を出てすぐのところにある。
「ひゃー、人多いね~」
ショッピングモールに入って、休日をここで過ごそうという人々による混雑を目の当たりにした杏子は驚きの声を漏らした。この分だと映画館も混み合っているだろうか。
「席とったときはそんなに人いなかったからみんな出かけてるのかな~、なんて思ったのに、モール大人気だ」
「この辺他に行くところないからねー」
「田舎だからね」
私たちが住む藤砂町は、地方都市にもなれないただの田舎町だった。最近(といっても私が物心つく前に)、東京に直通の鉄道が開通し、華々しくベッドタウンとしてデビューを果たした。このショッピングモールもその一環として作られたわけだ。
モールには私たちの目的である映画館のほかに、レストランや洋服屋はもちろん、カフェ付きの本屋さんやゲームセンターなど一通りの店や遊び場があり、ひとまずここに来てしまえば退屈はしないと保証できる。そういうわけで、現在ゴールデンウイーク中に暇を持て余した住民によって大混雑しているのだった。長いエスカレーターをのんびりと上がって、おしゃれな洋服屋を脇目にずんずん進んでいくと、この辺りで唯一の映画館がフロアの端っこにどっしりと構えている。映画のチケット売り場の前まで来ると、杏子は一度時計を見て、
「まだ開場まで十五分くらいあるけど、どうする? どっか行きたいところある?」
「んー、大丈夫かな。あとで忙しくなりたくないし」
「おっけ。じゃあ私チケット買ってくるよ」
「じゃあ私は念のためトイレに行ってきます」
「あはは! かさね、映画の前はいつもそうだったね」
「だって心配なんだもん」
この場所で待ち合わせだから、と杏子が言うのに頷いて、いったん別れた。
コォーと、備え付けのエアタオルがうなりを上げた。手に付着した水滴を乾燥した風で払っていく。駆動音が消えるとともに私はカバンからハンカチを取り出しつつ、映画館に戻ろうと歩みをすすめた。その時、不注意のせいか立ち止まっていた人に気づかず、軽く肩をぶつける。
「あ、すみません」
ぶつかった相手はこんな田舎にしては珍しく、きれいな金髪をして、顔のすぐ左に小さな三つ編みを作った妙齢の女性だった。
(あれ……?)
この人を――どこかで見たことがあるような気がする。
彼女は、私と見つめ合ったまま、不可解にもなにも口にすることなく、ただにっこりと笑った。その微笑みを見て、私は思い出す。
――今朝の夢だ。
しかし、その時にはもう彼女は踵を返して歩き出していた。
「あの――」
声をかけようと口を開いた瞬間、後ろから背中をたたかれる。
「かさね、どったの」
振り返ると、迎えに来た杏子のようだった。待っていても来ないものだからしびれを切らしたのだろう。それよりも、今はあの女性が気になった。
「今、ちょっと知り合いが……って、あれ?」
再び、女性が去っていった方に向き直ると、もうその姿はなかった、混雑の中であるし、どこかの店に入れば見失ってもおかしくはない。
私が物思いに沈む前に、杏子がちょっかいをかけてきた。
「たまたま見かけただけで後を追う相手……気になる男の子でもできた?」
「ち、違うよ! どうしてすぐそういう」
「慌て方も怪しいなー。そーかー、かさねももう中学生だもんねー」
「中学生なのは杏子だって一緒でしょ!」
杏子が茶化すようにしてくれて、私がこの出来事と正面から向かい合わずに済んだのはとても助かった。私の頭は、あの女性と、それから今朝の夢のことが気になって仕方がなかったのだけれど、私の心は、記憶によみがえった夢の光景が現実とつながってくるのではないかということに言い知れない恐怖を抱いていた。
現実になるのが悪夢ではなくても、踏み込んではいけない領域が目の前に迫っているんじゃないかという畏れが生まれ始めていた。
私たちは予定通り映画を見て(『カンフー・ナイツ インド拳法とゾウのいななき』という笑えるB級映画だった。席が空いてるのも致し方ないところ)、お昼ご飯を食べてから、洋服屋さんや雑貨屋さんひとしきり回ると、もう日が傾くような時間になっていた。
「あー、また一日遊んじゃった……」
藤砂駅から歩く帰り道、杏子は自分を責めるようにひとりごちた。
私はその意味を少し考えて、彼女がもう中学三年生――つまり受験生であることに思い至る。
「受験勉強とか結構してるの?」
「それがぜんぜんしてないんだよ」
「大丈夫……じゃないよねたぶん」
「……うん」
暗い顔をしながらうなずく杏子。
「まあ、息抜きも大切だもんね」
見ていられなくて、私がフォローを入れると、彼女の雰囲気も少し明るくなる。しかし彼女は憂鬱そうに呟いた。
「受験勉強なんてなくなればいいのに」
いつも明るい杏子が、心の底から嫌気がさすように言葉を吐くのを見るのは初めてだった。
彼女がそんな風に感じていること、そうなった原因である受験に来年私も向き合わなければならないということを考えて、胸がきゅっと締め付けられる。
「なんてね! 全然大丈夫だから、かさねは心配しなくていいよ」
こつん、と杏子はこぶしの裏で私の頭を小突く。そんなこと言われたら、余計に心配するに決まっているのに。それもさせてくれないなんて、理不尽だ。
「ごめん、私ちょっと寄っていくところがあるから」
しかし、私が抗議の言葉を口にする前に、杏子は手を振って、立ち去ってしまった。
彼女の言葉が真実であるにしろ、ここを離れるための嘘だったにしろ、なにも聞かずに行ってしまうのは、すこしさびしい。
「今度、杏奈さんに会ったら、言いつけてやる」
たぶん、彼女なら母親にはこの程度の吐露もせずに、黙っているだろうから。杏奈さんは、知らないからこそ、心配しているだろうから。
そうして、二人でたくさん心配してやろう。