5
「ようこそ、我が城へ。ここは幻夢境。夢の彼方の、その彼方。人の身に生まれた者がここに立つのは二人目ですよ」
気がつくと、私は、玉座の前に立っていた。
赤絨毯を敷かれた段の上に設えられたその玉座は、いくつもの色が積み重なって、見ているだけで不安な気持ちにさせるような石で出来ていて、ゾウがらくらく座れるほどの大きさの座面に、一人の男が足を組んで座していた。
玉座におおよそまったく合わない黒スーツに身を包んだ長身の男――ナイアルラトホテプだ。
「ナイアルラ? ここはどこ?」
「ですから言ったでしょう。ここは幻夢境、夢の彼方です」
また夢、か。
夢の中だというなら、彼がいても不思議ではない……のか? 私が訝しむように邪神の胡散臭い顔を睨めつけていると、彼はにっこりと笑って、話を始めた。
「そう疑うような目で見ないでください。私は、あなたに賞品を渡しに来ただけです」
「賞品?」
「ネクロノミコン、ですよ」
思わぬ返答に私は驚きの声を上げる。
「どうして、いや、まさか……。お母さんは、どうしたの?」
「あなたの母親が渡せと言ったんです。『私は勝負に負けたから』って言ってね」
「あ……」
私が勝手に言い出したことを、そんなに律義に守ってくれるなんて、思いもしなかった。
同時に、あんなことをしでかしたけれど、自分の母親が少なくとも生きているということに、すこしほっとする。
「元々、上岡あさみには彼女が欲しいと言ったから与えただけで、いらないというならそれに異存はありません。祈りを叶えるに比して十分な成果を彼女は出してくれましたし」
「私に与えることにも、異存はないわけ?」
「無論です。ネクロノミコンは――いいえ、私は、あなたを選んだ。上岡かさねこそが、ネクロノミコンを持つことにふさわしいと、そう思ったんですよ」
どうも話がうますぎるような気がした。
彼の言うことがただ信用できないだけかもしれないが、用心しておくに越したことはない。
「それを受け取ったら、私は、救世主を作らなきゃいけないの?」
「そんなことはないです。上岡あさみの代償は、彼女が選んだからこそですから」
だったら、いいのだろうか。
私が納得したような様子を見せたのを合図に、彼がパチンと指を鳴らすと、どこかから空気を叩くような音が聞こえ、天井からシャンタク鳥が私のすぐ横に降り立つ。
よく見ると、神話生物の馬面には、革張りの分厚い本がくわえられていた。
こいつ、絶対わかっていてやっているな……。
わざわざ私にシャンタク鳥から本を受け取らせるという悪趣味な行為を咎めるように、邪神を睨むと、彼はどうぞという風に手を差し出した。
気持ちはともあれネクロノミコンは必要だから、と私がそれを受け取ろうとして、止まった。
「ねえ、一つ聞きたいことがあるの」
「なんです?」
「ネクロノミコンを〝読み込む〟とは、どういうこと?」
私は、母親がついぞ口にしなかったその交換条件について、彼に尋ねた。そうしなければ、これを受け取ってはいけない気がしたから。
ナイアルラは楽しむように、私の質問に答えた。
「思想と、心と、未来と、持ちうるすべてをネクロノミコンの歴史に明け渡す代わりに、記述されたすべてを理解するということです。夫の命を救うなら、手っ取り早いかと思いまして」
そもそもそれがネクロノミコンを与える交換条件だったくせに、まるで厚意で選択肢を提示した、みたいな口ぶりで話す彼は、人をだますことを生業とする詐欺師のようだった。
「それは、彼女にとって必要なことだったの?」
私が追求すれば、彼はしれっと善人面をはいで、私の怒りに火をつける。
「いえ? 彼女の目的は、伴侶を救うこと。ネクロノミコンの歴史の塵一粒で足りることです。でも、その方が、面白いでしょう?」
わかっていた。
確かに今回のこと、私が苦しんだ諸問題を引き起こしたのはすべて私のお母さんだった。
でも、それらの根は、種は、因は、すべて、こいつ――邪神ナイアルラトホテプがいけない!
「まさか自分の息子を捧げ、娘を自分と同じ運命に追い込むなんて、人間を見るようになって久しいですが、ここまで業が深い者はそうはいませんよ。楽しませていただきました」
さらに、私の怒りを感じて、ぬけぬけとそんなことを口にするこいつは、間違いなく私の敵で、人類の敵だった。
いつか、こいつと戦うことになるかもしれない。そのためにも、私はこれが必要だ。
シャンタク鳥の口からネクロノミコンをひったくると、ナイアルラは慇懃に礼をした。
「ごきげんよう、黒山羊の落とし仔。我が同胞に幸あらんことを」
夢の中にしかない異境の景色は捻れて、丸めた銀紙のようにもう元には戻らないちりくずとなって記憶の海に落ちていく。重みに耐えかねて天秤が上がるように、夢が消えていくに連れて、私は現実に目覚めた。
舞が雲を使ったために久しぶりの五月晴れの日差しが差し込んでいて、日だまりのなんとも言えない暖かさは、まぶたを開くのがもったいないと思うくらいだった。
陽光を遮る影が顔に降りて、私はようやく目を開ける。
「あ……かさね、寝起きがいいのね。最後に顔だけ見ていこうと思って、寄ったのだけれど」
こちらを覗き込んでいたあさみは、前触れなくまぶたを開いた私と目が合うと、ばつが悪そうに視線をそらした。
一歩、二歩、ベッドから離れた彼女は、私の枕もとを見る。
「それ、受け取れたのね。なにかされなかった?」
あさみの視線の先にあったのは、何百人もの手を経ていそうな古めかしくて分厚い本。
夢の中で、ナイアルラから受け取ったネクロノミコンが、なぜか枕元にあって、私はその存在を確かめるように、革張りの表紙を撫ぜた。
「なにかって?」
「……ううん、なにもなかったならいいわ」
妙によそよそしくて、目も合わせないあさみに、私はいらいらを募らせる。
その態度を見ると、彼女が実験のためといって嘘をついた挙句、舞を撃ったことを思い出して、彼女を見る目が鋭く尖った。
「あなたは私の友達を傷つけた」
私が責めるようにあさみを睨むと、彼女は後ろめたそうに、目を伏せる。
「舞ちゃんは死ぬところだったし、杏子はまだ救えてすらいない。私も普通じゃない身体にされて、どうしたらいいかわからなくて、たくさん苦しんだ。だから、私たちを苦しめたあなたは、嫌い」
はっきりと、遠慮なく告げられた言葉に、彼女の握りしめた拳が震えた。
「かさねが怒るのも当然だし、私は、あなたに本当にひどいことをした。しかも、その行為自体が間違っていたなんて微塵も思ってないわ。きっと、また、かさねに同じようなことをすると思う」
そうやって、自分が一番悪いみたいに思いこんで、悲劇のヒロインぶって自分を責めるようなところは、産まれてからの四年しか接していないくせに、私にそっくりだった。
「もう言うこともないなら、私、行くわね」
そうやって、なんでもない風を装うところも。
どうしようもなくなるまで気持ちを言えないところも。
――勝手に、嫌われたって思いこむところも、私にそっくりだった。
まださよならを告げていない私は、踵を返した彼女の手を取って去っていくのを引き留めた。
彼女は、驚いたような、泣きそうな顔で、私を振り向く。
それから、子供から成長できていない母親とは違う私は、ちゃんと、自分の気持ちを告げた。
「でも、例え、あなたのことが人間として大っ嫌いで、その存在のせいで私が苦しんだとしても、あなたは、私のたった一人のお母さんなの。それだけは、変わらない」
あなたがどんな人間でも、血という呪いとも祝いともいうべき鎖が、なくなるわけじゃない。
血のつながりがあるからこその苦しみを抱える人間もたくさんいるけれど、少なくとも、あなたは、お母さんとして優しくしてくれたから。
「だから――お母さん、また、戻ってきて」
ずっとずっと求めていた言葉を、裏切った相手から、もう終わったと思い込んでいた相手から告げられた彼女は、その場でぽろぽろと涙をこぼした。
ぎゅっと私に縋りつく彼女を抱きしめて「どっちが母親なのかわかんないね」なんて囁くと、あさみは抗議するように、私の胸に額をぐりぐりと押し付ける。
しばらくの間、早朝の私の部屋には、彼女の泣き声が響いていた。
お母さんがようやく落ち着いた頃には、私の部屋着はぐっしょりと濡れていた。
彼女は、恥ずかしさで私と目が合わせられないようだったけれど、もう、私はいらいらすることはなかった。気まずい沈黙が落ちそうになって、私は無難な話題を振る。
「ところで、私のこの服って、もしかしてお母さん?」
「……うん。全部が終わった後、起きてたのは私だけだったから。平須舞も家まで届けたわ」
「そっか、ありがとう」
正直なところ、私が舞の影に殺された後の記憶はおぼろげだった。現実とは思えないような夢のような記憶と、妙な姿に変身して戦っていた記憶がどちらもあやふやなまま残っている。
「かさねはあの時のことはおぼえているの?」
「なんとなく、かな。なにがあったのかは一応って感じ」
細かいことはわからないけれど、少なくとも、私がセフィロトの樹を倒し、舞ちゃんを魂から再び産みなおしたことは覚えていた。
「あの時のあなたにはシュブ=ニグラスが顕現していたのよ」
「シュブ=ニグラス?」
「ええ、シュブ=ニグラスとは『千の仔を孕みし黒山羊』と呼ばれる外なる神の一柱。舞によって、純然な死に向き合わせられたあなたは、上位存在と接続し、そして、その力の一部を顕現させるに至った。あの時の河川敷は、シュブ=ニグラスを信仰する神話生物によってお祭り騒ぎになっていたわね」
「なんでまたそんなのが私に……」
たしか、あの夢のような闇の中で、目の前にいる母親に似た彼女は、こう言っていた。
『黄衣の王とともに歩み、両義を持つ完全なる生命。我が愛し仔。我が写し身』
あれが、シュブ=ニグラスだったのだろうか。
『黄衣の王』とは、ハスターの別名。両義とは、陰陽、あるいは男女。
私がそんな記号を持っていたから、シュブ=ニグラスによって、祈りを聞き届けられ、どうにか生きることができている。
彼女には感謝するしかないけれど、そんな運命の悪戯のような一致によって一時的にでも神になるなんて、信じられないことだ。
けれどきっとこうなってしまうのも、彼女がネクロノミコンを手にした時から決まっていたのだろう。
私が渋い顔でため息をつくと、母親は突然立ち上がる。
「あ、そうそう。思い出したわ」
襖近くに置かれたカバンから、黒い布を取り出して、私の勉強机に置いた。
「あの死は彼を対象にしたものじゃなかったから、生き残っていたのね。川に浮いていたのを拾ってきたのよ」
真っ黒でてらてらとした一枚布の端から、緑色の眼球が覗く。
「ショゴス……!」
「そのショゴスはあげる。彼とは森の中で出会ってね、シュブ=ニグラスを信仰しているのよ。だから、きっとうまくやれるわ」
「信仰って……」
神話生物から信仰って、どうしたらいいんだか。
「高名山にコロニーを作ってるこの辺のミ=ゴたちもあなたを信仰してるわよ。ミ=ゴにしてはあなたにご執心だったからなにかと思ったら、彼らには最初からわかっていたわけね」
そういえば、あのショゴスは、出会ったときに『神様の匂い』がするといっていたし、ミ=ゴはずっと、私のことを『黒山羊の落とし仔』と呼んでいた。
神様、かあ。
「あと、これ」
最後の用事というように、彼女は私に何枚かのメモを差し出した。
いくつかの走りがきが書かれたそれを、あさみは分厚い本の表紙の上に置いた。
「それは、私が真二さんを助けた時に使った魔術の使い方」
「お母さん……」
彼女は、私に嫌われようと杏子を救う手助けはしてくれるつもりだったのだ。
受け取ったメモとネクロノミコンを胸に抱く。
「できるだけ早く、行ってきなさい」
母親に背中を押されて、私は、部屋を出た。
***
それから、ある程度ネクロノミコンの使い方をあさみにレクチャーしてもらってから、病院の面会時間になるのを待って、家を出た。
カバンにネクロノミコンを詰めて、よく晴れた空の下、病院まで自転車を飛ばす。
時計を見ながら、病院の入り口まで来た時、私は立ち止まった。
呼ばれたわけでも、なにかが見えたわけでもない。
でも、振り返るとそこにはちょうど銀色のミニバンが走ってきていて、すぐにわかった。
降りてきた人影は、すぐに私を見て、名前を呼んだ。
「かさねさん」
「舞ちゃん」
魔法少女は、あどけない顔に微笑みを浮かべながら、ゆっくりと歩みを進めた。私も、にっこりと笑みを作って、彼女を出迎える。
「なんとなく来るんじゃないかと思ってた」
「私もなんとなくここにいるんじゃないかと思いました」
私と彼女は、そうすることが当然のように、まっすぐに見つめ合って、視線を交わした。
もしかしたら、私たちにはもう言葉は不要なのかもしれない。
あの時、セフィロトの樹の中で、一つの魂、一つの存在となった私たちは、本当にすべてを共有してしまっている。
でも、それでも、私は、言葉にせずにはいられなかった。
「舞ちゃん。私、舞ちゃんのことが好きだよ」
きっと、それは彼女にとっても既にわかっていたことだろうに、幸せを噛みしめるように、舞は顔を綻ばせた。
「私も、かさねさんのことが好きです」
そして、それもわかっていたはずなのに、私は嬉しかった。
それこそがこの世の幸いであるかのように、私の心はとろけるように喜びを感じた。目頭が熱くなって、声が出なくなる前に、私は次の言葉を告げる。
「だから、友達になってほしい」
魔法少女として出会った私たちは、ここでようやく再び出会う。
人ならざるものどもの世界でまみえることになった私たちは、人として、個人として、ともにいることを選んだ。
こんなこと、私たちが普通の女子中学生だったらどんなに簡単だったろう。
ずいぶんと遠回りをしてしまった。
「はい、これからも一緒に……!」
涙声で答える舞は、途中で言葉を失って、私の胸に飛び込む。
ぎゅっと抱きしめ合った彼女は、私の心が想いに焦げてしまうほど、温かかった。
肉体を持った不自由な私たちは、こうやって、お互いの言葉を、お互いの気持ちを、お互いの熱を伝え合うしかない。
私たちが、遠く燃え盛る恒星のような魂を持っていても、人として生まれ落ちた私たちが触れられるのは、肉体という分厚い壁を越えて伝わる、この日だまりのような彼女の魂の残滓だけだった。
「かさねさん、行きましょう」
「うん、行こう」
言葉少なに伝え合って、連れ立った私たちは、手をつないで、病院に入っていった。
重い扉を引くと、病室は、以前来た時と変わらずそこにあった。
外の景色を見せる大きな窓、いくつかの機器、小さな冷蔵庫、それらの駆動音と、寝息も聞こえない静かなベッド。
そして、機械の駆動音だけが響く小部屋の中心に、彼女は眠っている。
「杏子」
もしかしたら、呼びかければ応えてくれるんじゃないかって願いを込めて、私はいつも彼女の名前を呼ぶ。
やっぱり、呼びかけても、私の幼馴染は答えない。
だから、私は、ここに奇跡を起こしに来たんだ。
十字架のペンダントトップを握りしめて、震える手はカバンから最後の希望を取り出した。
パタン、と私は本を閉じる。
これで術式は完成のはずだ。
舞ちゃんにもいくつか手伝ってもらって、母親に教えてもらった手順を間違いなくなぞって、あとはもう、ナイアルラから受け取ったネクロノミコンを信じるしかない。
鎧姿になった私の右手は、ぼうっと青白く光っている。そっと、ベッドの横に立って、彫像のように固まったままの杏子の顔を見つめた。
手を彼女の頭に伸ばして、私の動きは止まった。
もし、これで、杏子が目覚めなかったら、どうしよう。
もうこれ以上私に手立てはないし、縋る先もない。
これがダメだったら、私――
「ううん」
違う。
これは、魔法だから。
願って、祈って、望んだことが叶う、素敵な魔法。
だから大丈夫だ。
私は、ここまでやってきた私を信じて、この先やっていけるように私に祈るしかない、どこまで行っても私は私だから。
独りで前に進めるようになった私は、魔法の右手で、そっと、杏子の頭を撫でた。
「お願い」
右手の光は消えて、私は逸る鼓動を抑えながら、仮面を外した。
じっと、彼女の様子を見守る。舞の左腕の小さな腕時計の秒針の音すら耳に届いた。
もしかして――だめ?
嫌な想像だけが頭の中をめぐって、震える手を、舞が握った。
彼女の温かい手に触れて、舞の顔を見て、すこしだけ安心できた私はまた、杏子に視線を向けた。
「杏子」
呼びかけたら応えてくれるかもしれないって、もう諦めかけた希望をかけて、名前を呼ぶ。
息を潜めるような間があって――一月の間、止まっていた時間が動き出した。
ゆっくりと、彼女の目が開く。
「杏子!」
私は、思わず叫ぶように、三度名を呼んだ。
すると、杏子はまるで当たり前のように、私の呼びかけに応えた。
「かさね……ここは?」
全身を包む喜びが私をばねのように、杏子の胸へと飛び込ませる。ぎゅっと抱きしめれば、彼女は戸惑うように私の頭を撫でてくれて、そうやって、普通に反応を返してくれることが嬉しかった。
「……うぁ……ああ……杏子……杏子……」
泣きじゃくりながら、私はなんども彼女の名を呼んだ。
抱きしめて、彼女の存在を感じて、あさみと和解した時よりも、舞と分かり合った時よりも、ずっと大きなゴールを超えたような気がした。
「あはは、かさね子供みたいだなあ……。ところで、そちらは?」
杏子が私の背後に視線を向けると、舞はぺこりと彼女に頭を下げた。
いくらか落ち着いた私は、涙をぬぐいながら、舞と杏子の間に立って、この一連の戦いの中で得てきたものを、日常の中に迎え入れる。
「――おかえり、杏子。今日は新しい友達を紹介するね」
最後までお読みいただきありがとうございました。




