4-11
どぽん、と汚れた水音を立てて、かさねの身体は日戸川に落ちる。
水柱が立って、白い細かな泡が水面に広がった。
いくらかの水飛沫を浴びた舞の影は、確実に敵を死神の鎌にかけたことを確認して、セフィラから力の発露を止める。
それから、守護者の役割を終えた彼女は、産みの親であるセフィロトの樹に還ろうと浮かび上がり、かさねの死体が作った波紋に背を向けた。
ふわふわと彼女が空中を泳ぎ始めたその時。
神が行う奇跡のように、川が割れた。
突然の異変に、川岸で戦闘を見守っていたミ=ゴたちは、興奮したようにめまぐるしく色を変える頭の触角を逆立たせ、足並みをそろえて空へ飛び上がる。
予想外の状況に、樹の守護者も、振り返り、その異変の中心を見つめる。
壁を作るように水が割れ、露わになった川底の泥に半ば埋まるように倒れたかさねの死体は、不自然に口を開けたまま空を見つめていた。
魔法少女と神話生物は一緒になって固唾を飲み、それを見守った。
唐突に、その身体が、なにものかに吊られた傀儡のように、不自然な動きで立ち上がる。両足が柔らかな泥を踏むと、芯が入れられたように、自分の力で死体は地を踏んだ。
それを見た蟹の神話生物たちは、沸き立つように、一斉に耳障りな声を上げる。
『……来るぞ……!』
泥だらけになって汚れた純白の鎧は、動物が成長する際に行う脱皮のように、自然と、当たり前のこととして、剥がれ落ちる。
一糸まとわぬ姿になった彼女の白肌のいたるところから浸み出るように、てらてらと黒く光る触手が肌を突き破って身体を覆う。全身の触手は織り込まれ、一着のロングドレスのように彼女を包んだ。
最後まで頭に残っていた彼女のペルソナは姿を変貌させ、山羊のような角となって天を衝く。
夜――それは、最も世界の闇が濃くなる時間。
生命の具現者が大地に立つと、すべての存在が崇敬の眼差しを向ける。
姿を隠していたものども。
存在が消えようとしてた者ども。
この地を離れようとしていた者ども。
すべてが彼女の顕現に、驚嘆し、励起され、嗚咽と信仰の声を上げる。
彼女こそが万物の母。
黒き豊穣の女神。
そして――『千の仔を孕みし黒山羊』。
真の神の降臨に細々と聞こえていたざわめきは徐々に大きさを増し、数多の存在たちは一つの存在のためにたった一つの言葉を斉唱する――!
『『『イア! イア! Shub-Niggurath(シュブ=ニグラス)!』』』
なんの変哲もない片田舎の川べりは、外なる神の顕現によって、彼女を信仰する神話生物たちの礼賛の声で溢れ、轟音にも近い叫びたちが包んだ。
シュブ=ニグラスと化したかさねは、急ぐ必要もないとばかりにゆっくりと、セフィロトの樹へと歩いていく。
例え相手が外なる神であろうと守護者の役目を果たそうとする真面目な魔法少女は、果敢に彼女へ杖を向けた。
「《星は流れ、光は闇を払う――ルーチェ・ステラーレ》!」
ちらりと自分の前を阻む存在を視線でとらえた彼女は、ただ右手を伸ばす。
闇を払う星屑の奔流が彼女のたおやかな指先に触れると、飛び散るように光は空に消えて、そのまま戻ってくることはなかった。
舞が赤のセフィラを灯らせると、空いていた左手に槍が現れる。
空を蹴って、魔法少女は携えた槍で神の心臓を貫かんと飛翔するが、その穂先が彼女の胸に触れると、槍は紙細工でできていたかのようにぐしゃぐしゃにその形を潰した。
星の魔法少女の影は、そのあどけない顔を驚愕に歪ませた。
そして、彼女はおもむろに自分の頭に生える湾曲した山羊の角に手をかけたかと思えば、ぱきん、と音を立てて片角を折り取った。
ざらざらと年月の積み重ねを感じさせる鋭い角は、彼女の手の中で、かすかに蠢く。
そして、シュブ=ニグラスは、自分の角を握った手を振り上げる。
避けることもできず、迎撃もできず、ただ無抵抗に、魔法少女は神の角を突き立てられた。
「……ぁ……!」
先端を彼女の胸に埋めた角は、ずぶずぶとひとりでに身体の中へ入り込んでいき、角の断面までもが舞の中に消えた時、呆けたように目と口を大きく開いたまま、生命の樹の守護者はすべての動作を停止した。
***
闇の中にキラキラと星が輝くどこまでも広い空間。
そこに空間なんてないはずなのに、無限の広がりを持つ宇宙。
黒い山羊に乗せられた私が延々と膨らむような暗闇を越えると、いつの間にか見渡すほどの星空の下に立っていた。
山羊はおらず、一人、いつもの服装をした私がいた。
『「私は平須舞。鹿目大学付属高名女子中学一年生で、魔法少女です」』
どこかから、聞き覚えのある言葉が聞こえたような気がした。
ふと気づくと、頭上から星屑のような虹色の光が、粉雪のように私に降り注いでいた。
そのうちの一粒が私の手のひらに触れた時、今度は一つのイメージが、体感した場面として目の前に現れた。
『そうやって自己紹介すると、彼女は人見知りするように目を泳がせる。
自信のなさそうな表情や長めの前髪に隠れてわかりづらいけれど、よく見れば彼女の顔ははっとするほど端正で大人っぽくて、私はすこし自分の格好が恥ずかしくなった』
これは――舞の記憶。
初めて会った時の彼女の記憶が、この虹色の光に触れることで、私に流れ込んできている。
光に満ちた空を見上げると、満月の何十倍にもしたような大きな虹色の星が、私の頭上で輝いていた。
その周囲には、その他にも、色の違う九個の星が浮かんでいて、そのどれもが同じように自身の放つ光と同じ色のきらめく星屑を振りまいている。
その数と色は、もしかしたらここはセフィロトの樹の中なのかもしれない、と囁いた。
そうだとすれば、この星はセフィロトを構成する十人の魔法少女の魂で、星屑はその魂からこぼれた記憶。
十の色の違う光たちが降り注ぎ、絡み合い、積み上がっていく景色は、心がぎゅっと涙ぐんでしまうほどにきれいで、私はその非現実を汚してしまう気がして、思わず息を止める。
あれが、舞の魂だとするなら、また、彼女に出会えるのだろうかと、私は地面を蹴って、空に浮かぶ虹色の星を目指した。
空中を泳ぐ間も星屑は降り注いで、その度、声やイメージが流れ込む。
『「私たちの使命は、神話生物を』『「奴らを、生き物だと思わないことです」』『かさねさんは笑って』『「ひどい顔をしていますね」』『かさねさんなんか言ってる?』『「ねえ、ポップ。かさねさん、友だちがいなくなって』『「約束、ですよ」』『かさねさんの手、あったかい』『「あんな奴ら、敵に決まってるじゃないですか!」』『「また、もう一度、魔法少女としてやり直しましょう』
私と舞の関係をなぞっていくように、彼女の記憶は様々な場面を私に見せた。
懐かしさともの悲しさに胸が締めつけられながら、私は記憶の雨を遡り、舞の魂に手を伸ばす。
伸ばした指先が星に触れる前に、一際大きな星屑が私の手を撫でる。
『「私たちは、友達じゃなかったんですね」』
そんな言葉とともに見えたのは、雨の中、アスファルトに転がされて、馬乗りにされた私。
冷たい空気の中で、わけがわからないほどに感情を昂らせて熱い息を吐く舞そのものになったかのように、鮮烈な記憶が私を包んだ。
『真っ白な首が目について、私は思わず手を伸ばした。
柔らかく、すべすべとした肌に指が触れる。手袋のなくなった私の指先が、直に彼女の温もりへ触れて、鼓動と呼吸を感じて、かさねさんがそこにいるという事実が背筋をぞわぞわと震わすほどに幸せで、そのかさねさんが私から離れていこうとすることが、今すぐ金切り声を上げて叫びだしたくなるほどに苦しかった。
彼女を殺せば、やっぱりこの苦しみから抜けることができるんだろうか。
そう考えると、じっとしてはいられなくて、触れていた首を両手でつかむ。
「うっ…………ぁっ……!」
違う。
私はかさねさんを苦しめたいんじゃない。
首を絞めていた手を外すと、顔を真っ赤にしたかさねさんは、「大丈夫だよ」と言わんばかりに微笑んだ。
私にはそれが我慢ならなくて、無性に腹が立った。
身勝手なのはわかっているし、全部私のエゴだ。
首なんか絞めたら、怒るのが普通だろうに、彼女はわけも聞かず、微笑んだ。
それが、欲しかった普遍的友情が存在しない証左のように思えて、じっとしてはいられなかった。
私とかさねさんとの関係は、魔法少女としてのものだけだったの?
私はこんなにもかさねさんと一緒にいたいのに、どうしてわかってくれないの?
私はずっとかさねさんのそばにいたいのに、私たちは、まだ、普通の友達ですらないのだ』
あの時の彼女の記憶が離れていくと、ふっと、私は雨の降る街路から、星の降る闇の中に戻ってくる。
ああ、なんだ。
ずっとつかえていたものが落ちたような感じがした。
私たちは、ひとつもすれ違ってなんかいなかった。
ただ、言葉が足りなかっただけで、私たちはずっと同じ思いを共有していたんだ。
それがわかった私は、自信をもって、指先で虹色の星に触れる。
自分そのものだと思っていた身体が、触れた部分からさらさらと塵のようにほどけて、闇の中に還っていく。
そして、私は、一つの光になった。
肉体というかりそめのペルソナをはがされて、世界という闇の中で光を放つ魂――真なる自分を曝け出す。
魂と魂になった私と舞は、真の意味で直接触れ合った。
私は彼女の中にすこしずつ入り込んでいく。もちろん、彼女も私の中に入り込んでいく。
次第に、私たちはすべてを知った。
そして、わかりあった。
勝負の間のこと、決別した時のこと、出会ったときのこと、魔法少女になった時のこと、初めて友達ができた時のこと、小学校に上がったときのこと、言葉が喋れて褒められたこと、私と彼女の中にある全てを共有して、溶け合って、ひとつになる。
一つになった私は一体となって、さらに上へと浮かび上がっていく。彼女の魂を核にしてつながっていた星々も連れて、戻っていく。
昇り、闇を照らし、外へ。
世界へ。




