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一
黄昏を背負って世界は燃えていた。
ともに歩く影法師は長く伸び、わけもなく胸は満ち足りていた。
歩みは迷いなく、なにかに導かれるように土蔵の扉を引く。橙色の陽光が明り取りの窓から中を照らして、埃っぽい空気がキラキラと瞬いた。彼女の足と土の床の間からはなんの音も聞こえない。
木棚と段ボール箱の間をすり抜けて、最奥へ。
彼女は土足のまま、一番奥の一段低い棚にためらいもなく足をかけてよじ登る。そのまま上の段、さらに上の段と登り詰め、ついには蔵の高い天井に手が届く。伸ばした手で彼女はなにかを確かめるように天井を指でなぞる。よく見れば、なぞった部分は天井板とは材質が違って、彼女が押し上げれば、抵抗もなく天井に穴が空いた。
天井裏は、階下とは比べ物にならないほどなにもかも埃をかぶっていて、もう長い間誰も入っていないことが分かった。そこへ転がるように入った彼女は全身真っ白になる。けほけほと軽く咳き込む。天井は低く、身長が高くない彼女も少しかがまなければならなかった。そこには小さな文机に座布団、山積する大量の大学ノート、それから、机上に布を敷いて鎮座する歪な小箱だけがあった。
その箱だけは、どういうわけか塵一つかぶっておらず、色褪せもせず、時が止まったようだった。
彼女は箱を開ける。
中には、ほとんど球形をなしていながら、不揃いな面を持った多面体が黒く輝いていた。
何本かの支柱によって箱の中に宙づりにされた多面体。
触れることもなく、ただ見つめているだけで、重力が消えるような感覚が彼女を襲って、彼女の意識は屋根裏部屋を飛び出した。彼女の住む小さな町を飛び出し、慣れ親しんだ弓状列島を越え、青い惑星のどこかをめざして飛び去って行く。そこにはどこまでも続く荒涼とした大地があり、山頂が霞むような山々があり、翼を真っ白な石に覆われたこの世のもともの思えない翼竜が羽ばたき、積層上にぐねぐねと色が連なるカラフルな城がそびえ、その玉座に座した無定形で顔のない黒に触れると、彼女の視界は元の埃っぽい屋根裏部屋に戻ってきていた。
階下からの光で薄橙色に染まった部屋が一瞬だけ暗闇に落ちる。
それがもとに戻ったときには、彼女の目の前に金髪の妙齢の女性が立っていた。顔のすぐ左側で小さな三つ編みを作っているのが目につく。白いブラウスとスカートを身に着け、広い袖口にフリルのついた膝丈の黒い上着を緩く羽織って、シンプルな十字架のペンダントを持っていた。
現れた女は彼女に近づき、娘にしてあげるように、そっと彼女の首の後ろでペンダントの掛け金をかけた。それから優しく彼女の頭を撫でると、微笑みを残して世界は閉じる。
川の底から拾い上げられるように、昏い記憶の海から私を作るピースが再構成されて、水面から意識が顔を出す。表出した意識に感覚が当て嵌められると、ようやくまぶたの裏側が目に映るようになって、私は目を覚ました。眠りの世界から追い出されるようなすっきりとした目覚めにもかかわらず、私の肌は夢の記憶の感触を残したままだった。
私は薄暗い部屋でベッドに横たわったまま、呟く。
「なんだろあれ……」
妙に現実感があって、それでいてふわふわとつかみどころがなくて、とても私には馴染まない夢のような気がした。それでも、カーテンの隙間から差し込む朝日に照らされていると、異界のような風景も女性の鮮やかなブロンドも、記憶の中で次第にぼやけていってしまって、実はいつも通りの夢のような気がしてしまった。
起き上がった私は時計を見て、今日の予定を頭の中で思い描きながら部屋を出た。
「おはよう、かさね」
身支度を済ませて居間の襖を開くと、もう父親がテーブルについていた。
おはよう、と挨拶を返しつつ、積まれた座布団から一つ取り上げて、布団のない掘り炬燵に足を入れる。父親はすでに新聞を読みながら食後のコーヒーとしゃれこんでいて、朝食は食べ終えたあとのようだった。私が卓上のトースターに食パンを押し込んでいると、新聞の横から父親が私の服装に視線をやった。
「今日はどこか出かけるのかい?」
「うん。モールで映画見る」
「はは、ゴールデンウイークだからね」
私は首をひねる。確かに今日はゴールデンウイークだけれど。
その様子を見て、父親は続けた。
「ゴールデンウイークっていうのはもともと映画業界用語だったんだよ。この連休で映画は売り上げが狙えるっていうんでゴールデンウイーク」
「へぇー、知らなかった」
言われてみれば、ゴールデンウイークという名前も誰かが名付けているわけか。しかし、そういう由来であることを知ると、映画を見に行くのが策略にはまっているようで面白くない。
父親は思いついたように、もうひとつ訊いた。
「映画には杏子ちゃんと行くのかい?」
「そうだよ。杏子が見たいのがあるっていうから」
「なるほどね。来週には出張があるからそろそろ杏奈さんにもあいさつに行かないといけないなあ」
喜多川杏子は一つ年上で、幼稚園のころからの幼馴染だ。もともと生前の母と杏奈さん――杏子のお母さんのこと――の仲が良く、さらに、母が失踪した時、参ってしまった父に手を差し伸べてくれたのが杏奈さんだったらしい。父が立ち直るまでの間、杏子と一緒に私を育ててくれた縁で、今でも出張がちな父が家を空けるときは、杏子の家に居候させてもらっていた。
「でも、今回は私、家にいるんでしょ?」
「杏子ちゃんも受験生だしねえ……。それでもいざという時のためにあいさつにだけは行っておかなきゃ」
「たしかに」
初めての一人暮らし(?)には私もちょっぴり不安だ。家事の類はどうにかなるけれど、なにか異常があったとき対処できる自信がない。私はもそもそと焼きあがったパンを口に運ぶ。壁に吊り下げられた日めくりカレンダーが目に映って、小指の先ほど眉根の谷が深くなった。
それを見透かしたように、父は再び私に話しかけてくる。
「カレンダーがどうかした?」
「ああ、いや、もう明日から学校だなあって思って」
「学校行きたくないの?」
「それはまあ……行かなくていいなら行かないかな」
私の言葉から奥の気持ちを察したのか、父は考え込むような表情で新聞をたたみ始める。「もし話したいことがあれば聞くよ」というサインなんだろう。でも、なんとなく、その父親なりの気遣いが今は煩わしくて、私は口に食パンを詰め込んで、座布団の上に立ち上がった。
使っていた皿を取り上げて、部屋を出ていこうとしたところで「あっ」と父親が声を上げる。
とっさに返事をしたが、口からでたのはつっけんどんそのものの声だった。
「なに?」
「そこ、服が」
父がなにやら指をさしている部分を左手で手繰って確認してみると、
「あぁっ!」
私はさっきまで抱えていた沈んだ気持ちを忘れて、思わず大きな声を上げる。
着ていく予定だったワンピースにはなにか引っ掛けたような穴が空いていて、私は慌てて襖を開けて、自室へ走った。