4-1
カーテンの隙間から白光が漏れていた。
どこかから、かすかに雨粒が屋根を叩く音が聞こえる。
仄暗い部屋の中で薄く目を開けて、ベッド脇の時計を確認すると、文字盤の短針は左上を指し、もう一方は真下を指していた。
十時半。
また、学校をサボっちゃった。
どうせ、もう私を起こしに来る人間なんていないのだから、と私ははっきりとしない意識と柔らかな眠気を抱えて、布団の内側に包まるように丸まって、再び夢の世界に旅立つ。
うつらうつらと、意識が崩れていく。もう、あとは爪先を離せば眠りに落ちることができるというところで、部屋の襖が開いた。その音に、少しだけ意識が浮上する。
(……お父さん、部屋に入っちゃダメだって言ったのに……)
心の中でため息をついてから、気づいた。
違う。お父さんは出張だ。父なわけがない。
誰だ!?
突然知らない人間が部屋に入ってくるという恐怖に、私は急いで身体を起こすと、訪問者は驚きの声を上げた。
「わっ! びっくりした~。起きてるんじゃない、かさね」
その声にピンと来て、枕元のリモコンで電灯を点ける。
そこにいたのは、私の母親――上岡あさみだった。
「はぁ?」
寝ていたところを起こされたこともあって、思わずつっけんどんな声が出た。
いや、でもおかしいでしょ。なんで部屋にいるわけ? ていうか鍵は?
「かさね、学校はどうしたの? 行きたくないこともまああると思うけど、これって真二さんは知ってるの?」
まるで真っ当な親みたいなことを言う彼女が腹立たしくて、私は怒鳴った。
「うるさい!」
手近にあった枕も投げつけてやる。
豊かな胸で投擲物を受け止めた彼女は、涼しい顔でさらにのたまった。
「あら、反抗期?」
「着替えたら相手してやるからリビングで待ってなさい!」
「かさねちゃんたら、寝起きは機嫌悪いのねー。ちょっと意外だったわ」
リビングに行くと、もうテーブルの上には目玉焼きとトーストという朝食が用意されて、彼女はやかんを火にかけているところだった。私がテーブルに着くと、今度は飲み物を聞かれる。
「コーヒーでいい?」
「……ああ、はい」
我が物顔でキッチンに立つ彼女に唖然とした私はぼんやりと彼女がマグカップにインスタントコーヒーを振り入れる様子を眺めた。
コトリ、と私の前にコーヒーを置きつつ、彼女が席に着いたところで、私は尋ねる。
「あの、どうやって中に入ったんですか?」
「どうやってもなにも私の家よ? 鍵くらい持ってるわ」
それは……言われてみればそうなのかもしれない。
お食べ、という風に手を出されて、私は目の前の朝食に手を出した。そして、食べながら、さらに質問を重ねる。
「なんでこんな真似を?」
「かさねが呼んだんでしょう? まさか会いたいってメールなんてくれるとは思わなかったから飛んできたのよ」
そういえば、彼女の手記を読んだ直後、喫茶店で受け取ったメールアドレスにそんな旨のことを送った覚えがあった。十日以上音沙汰がなかったから、あのアドレスはでたらめだったのかと結論付けていたのだった。
「ごめんね~、しばらく手が離せない作業があって、それを終わらせなくちゃいけなかったからこんなに遅くなっちゃったのよ」
聞いてみれば、意外と腑に落ちる結果だったのだけれど。
でも、アポなしで、朝から勝手に家に入ってたたき起こすのは、非常識じゃないの!?
しかも、この時間は、本来なら私は家にいないはずだし!
「それで? かさねはどういう用件で私を呼んだの?」
早速、本題に入ろうとする彼女を見つつ、私は、目玉焼きを箸でつつきながら、どんな風に言ったものかと考えた。彼女が、今どんな風に生活をしているのかはわからないけれど、人間社会で普通に生きているようには見えない。
そんな状態なら、あの本は、それなりに大切なものなんじゃないだろうか?
でも、まず聞いてみるに越したことはないか。
「ネクロノミコン、貸してください」
「できないわ」
返事は即答だった。
むむっ、と眉根を寄せる私をフォローするように理屈をつける。
「少なくとも今は、ね。ネクロノミコンには管理者もいるし……」
「管理者って、ナイアルラのことでしょ?」
私が指摘すれば、彼女は目をぱちぱちとして、それから、問い返した。
「……もしかして、アレを開けたの?」
「トラペゾヘドロンも開けたし、あなたのノートも読みました。もう、全部知ってるの」
「そこまでしろとは……」と小さく呟いたあさみは、はぁー、と私の耳にも届くような大きなため息をつく。それから、刃のように鋭い目で言った。
「友達を、助けようとしているのね」
……まさかそんなことまで知っているなんて。
お返しするように睨みつければ、彼女は少し表情を緩めた。
「一応、私はあなたとあのお友達の関係も知っているし、それがかさねにとって大切であることも、代えがたいものであることもわかってる。その上で言うわ。やめときなさい」
「無理」
強い意志を込めて答えを返す。すると、あさみはそれを理解するように、顔をほころばせた。
「まあ……そうでしょうね。とりあえず、私が言いたいのは――ナイアルラに祈ることだけは、やめなさい」
まるで、そうすることが悲劇を生むことを知っているように、彼女は私に警告した。
そういえば、彼女がネクロノミコンを手にするために何らかの交換条件を飲んでいたことを思い出す。
「交換条件で、なにかあったんですか?」
「察しがいいわね」
あさみは机に目を落とし、こともないように言った。
「私に出された条件は、ネクロノミコンを〝読み込む〟ことよ」
「それだけ?」
「ええ、たったそれだけ。……私も、そう思ったわ」
明らかに含みのある言い方。
しかし、彼女はそれ以上、そのことについては言及したがらなかった。
「まあ、私のことはいいのよ。でも、きっとかさねなら、わざわざそんなことをしなくてもいつかネクロノミコンを手にする時が来るわ」
「でも、それじゃあ間に合うかどうか……」
「辛抱しなさい」
頭ごなしに叱られるように言われて、私はむっと口をへの字にした。敬語も崩れながら、あさみを睨みつけた。
「……だって、杏子は、もう一月もベッドの上なんだよ」
「それでも、よ」
杏子の話をすればするほど、私の胸の中には焦燥感が募っていった。
今この瞬間にも彼女が苦しんでいると思ったら、じっとしていられるわけがない。
訴えかけるように、目の前の女性の顔を見つめる。
「早く助けなきゃいけないの……!」
「駄々をこねたってしょうがないでしょう!」
腰を浮かすような焦りがたまらなくなって、私は、どれだけ繰り返してもわかってくれないあさみに、苛立ちを噴出させた。
「あなたになにがわかるのよ!」
思わず立ち上がって、彼女の端正な顔へ怒りをぶつける。
「だってあなたは、あの彫像のように動かない杏子を見ていない!
生まれた時から一緒にいた思い出を持っていない!
彼女の笑顔を見たことすらない!
そんな奴になにが――」
私の怒鳴り声は、彼女の抱擁によって遮られた。
いつの間にか私の傍らに来ていたあさみは背中に腕を回して、私を抱き寄せる。最初は抜け出そうともがいたものの、彼女の囁いた言葉に、動きを止めた。
「わかるわよ……わからないわけがないわ…………私だって、そうだったもの……」
悲痛なほどの実感を持った囁きに、私はあの日記の内容を思い出す。
彼女も、私と同じように――私も、彼女と同じように、大切な人を目覚めさせるために魔導書を求めた。
まるで、それが私たちの運命だというように。
それから、彼女は優しく私の頭を撫でた。
ゆっくりと五指で髪を梳くように撫でる感触に、覚えがあった。
それは、私の中に唯一残っていた母親の記憶。
ああ、そうなんだ。
彼女が――私のお母さんなんだ。
私を抱きしめてくれている彼女が、ずっとずっと昔に、確かにそうしてくれた母親なんだということを、たった今ようやく確信した。
「おかあ……さん……!」
しがみつくように、私は自分から彼女を抱きしめる。
物心ついたときから母親がいないことが当たり前だった私には、昔からずっと、母親がいるということが理解できなかった。
こういうことだったんだ。
自分の産んだものがそこにいて、自分の写し身のように私を理解してくれて、自分の原点として私を受け入れてくれる。
ぽろりと、頬に自分のものではない涙が落ちて、私は母親の顔を見上げた。
「あれ……えへへ、まさかかさねが私をお母さんって思ってくれるなんて、思わなくて……この家を出るときに覚悟したはずなのにね…………」
彼女も、寂しかったのだろうか。
そうだ――彼女はあんなにも、『お母さん』と呼ばれたがっていた。
私たちは、十数年分の母娘の時間をやり直すように、お互いの温もりを感じながら、わんわんと泣き喚いていた。




