3-7
ぐっと力を入れて取っ手を握れば、白く厚い壁のような扉は、重たい動作で横にスライドして、私を部屋の中へ招き入れる。そこにあるのは、暗い外の景色を見せる大きな窓、いくつかの機器、小さな冷蔵庫、それらの駆動音と、寝息も聞こえない静かなベッドだけだった。
病室に足を踏み入れると、私は決まってこう呟く。
「杏子」
もしかしたら、呼びかければ応えてくれるんじゃないかって願いを込めて、私はいつも彼女の名前を呼ぶ。
でも、やっぱり、杏子が目を覚ますことはなくて。
もうため息をつくこともなく、私はベッドの脇に開かれたパイプ椅子に腰を下ろした。
快活に笑い、いつも私の背中を押してくれた彼女は、彫像のように固まった青白い顔のまま、ベッドにしつらえられた器物と同じように、動かない。
「杏子、私、また一人ぼっちになっちゃったよ」
答えることがないことは知っていても、私は杏子に話しかけずにはいられなかった。
目を伏せたまま、緑色の床を見つめて、誰にも届かない言葉を放る。
「やっぱり、杏子がいないとうまくやれないよ。私、どうすればいいの?」
「舞ちゃんとどうやったら仲直りできるのかもわかんないし、クラスのみんなとどうして仲良くなれないのかもわかんないし、どうして私だけうまくやれないのかもわかんないよ」
「ねえ、杏子がいないとダメなんだよ」「杏姉なんか卒業しなくていいから、まだ私には杏子が必要だから」「だから、教えてよ」「これからどうしたらいい……?」「杏子、お願いだから……」
「ねえ――目を覚ましてよ!」
キーン、と自分の叫び声が静かな個室に反響する音が耳に届く。
いくら怒鳴ったって、駄々をこねたって、杏子が目を覚ます訳はなくて、自分のミスの落とし前は、やっぱり自分で取り返すしかないようだった。
そっと、布団の間から覗く彼女の手を握った。
「絶対、絶対、助けるからね。お母さんからネクロノミコンを手に入れて、それを読んで、魔術を使って、その結果どうなろうと、杏子だけは――助けてみせるから」
ずっと一緒にいた彼女が隣にいないということが、こんなにも心細いだなんて、初めて知った。杏子の助けなしに杏子を助け出すというのは、先が霞んで見えるほどに遠い道のりのように思えた。それでも、報われるかは知らずとも、私が頑張るしかない。
初めて一人で巣立つ鳥のように、不格好な羽ばたきでも親元を離れて一人で生きるときが来たということかもしれなかった。
悲しみでも怒りでもなく、未来を想う不安から頬を涙で濡らしそうになったけれど、すんでのところでこらえる。
この涙は、杏子が目覚めた時にとっておくのだから。
雨降りの帰り道。
梅雨の雨は、しとしとと音もなく降り続けていた。
背の高い街路樹が両脇に植えられた道の途中で、片手に傘を差した私は立ち止まる。
(きっと、こういうところが、私と『普通の魔法少女』との違いなんだろうなあ)
なんの変哲もない、色も、形も、大きさも、他と変わらない、ある一本の街路樹に指先で触れて、私は囁いた。
「あなたは、どこから来たの?」
木の幹の輪郭が波打ったように見えた。
次の瞬間には、二秒前まで樹木の形をとっていたなにかが元の姿を現して、私が触れていた場所に街路樹なんてものは存在しなかった。
あるのは、いくつもの緑色の瞳を蠢かせ、液状の身体に無数の触手を作り出す生き物の姿。
それは、私が初めて戦った神話生物で、確か、ポップはこれを『ショゴス』と呼んでいたはずだった。
ショゴスは巨大な体を不安そうにたゆたわせ、いくつもの眼球で私の姿を見下ろす。雨のおかげか、ヘドロのような悪臭はあの時よりも随分弱く、私はほとんどそれを気にすることなく向き合うことができた。一本の触手が私の顔の高さまでゆっくりと伸びてきて、ぬるぬるとした先端に大きな眼球を開かせる。目線を交差させれば、ラジオの周波数を合わせるように、ノイズを交えながらも、私の頭の中に声が届いた。
『あなたは、魔法少女、でしょ?』
もうこんな非日常的な出来事にすら慣れてきてしまったな、なんて私はこの一月を思い出して、素朴に感じた。
「そうだね。私は、きっと、魔法少女なんだ」
『私を、殺さないの?』
積みあがったタールの怪物は、まるで、小さな子供のようだった。
目の前の私を真似っこして形を変える不定形の怪物は、純粋で、言ったことをすべて信じてしまいそうな危うさすら感じた。
「うん、私は君を殺さない」
『どうして?』
「なんでだろうね。たぶん、私は最低な人間だから、自分を否定したくないんだ」
生き物を無暗に殺すべきじゃない、とかきれいごとが言えればよかったのに、最低な私から出てきた言葉は、最低な言葉だった。
自分を殺すべき相手と同一であると認めてしまったら、もう、殺すことは、自分を殺すようなものだから。
彼らの存在を否定することは、私の存在を否定することだから。
『君は最低な人間なの?』
「うん。私は、自分可愛さに舞ちゃんの気持ちを切り捨てたようなものだから」
実際のところ、私は人類の滅亡、なんて大きな事柄をそんなに実感を持って捉えることができているわけじゃないし、こんなもの狂人が書き連ねた戯言だって切り捨てることだってできた。例え、手記の内容を信じたとしても、それを舞ちゃんに説明するために、時間をかけて準備してから、説明することもできた。
でも、私が選んだのは、この道だった。
最も安易で、最も残酷な選択だったろう。
私は、一度疑ってしまった使命を、再び背負いなおすことができるほど強くなかったから、そのツケを彼女に支払わせたのだ。
抱えた荷物が、自分には不必要なものかもしれない、と考えたとしても、それを隣の人間に押しつけることが正しいとは、私にはとても言えない。
「そもそも、私には自分が人間なのかもわかんないや」
もう、なにもかも、私の扱える範疇を超えていた。
もうあとは、運命の筋書き通りに動くしか、どうしようもない。
顔を伏せた私の鼻先で、緑色の眼球が瞬きをして、まるで宝ものでも眺めているみたいに、怪物はふんわりと言葉を口にした。
『君は、僕の神さまみたいな匂いがするね――』
そんな言辞をかけられて、私は目を丸くした。
ショゴスのいう神さまがどんなものかも、そもそもどんな意図を含んでいるのかも、わからなかったけれど、幼い価値観の中で認めようと言葉を紡いでもらったような気がして、少しだけ、胸が温かくなる。
返事をしようと口を開いた瞬間、それは降り注いだ。
見慣れた彼女の光。
薄暗い雨空の下を照らす閃光。
白の帯がショゴスの半身を食らい尽くす。
そして、汚れ一つないエナメルパンプスで地を踏んだ。
「見損ないましたよ。かさねさん」
空から降り立ち、私を睨みつけるのは、フリルドレスの魔法少女――平須舞だった。




