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四月二十九日。
それは、私の兄が死に、母が失踪した日だ。
初夏の太陽が日差しを強く投げかける。生まれ持った真っ黒な髪が熱を吸い込んで、三つ編みが垂れた背中が汗ばんでいた。坂道を上る体は鎖に括りつけられたように重く、先に見える目的地はいまだ遠い。
先立つ父親が振り返って、ふらふらと不確かな足取りで歩む私を見て笑った。
「大丈夫かい? かさね」
「大丈夫じゃない……」
あつい。つかれた。
冷えたレモンティーが飲みたい。
お墓参りのためにこの坂道を歩くのはもう何回目かもわからないけど、ちっとも楽にならない。暑いし長いし急だし、なんでお寺は山の上にあるんだ。
「上に着いたら一旦日陰で休もう」
「うん」
「しかし、運動不足なんじゃないか? 体育とかちゃんとやってるの?」
やってるよ、と声を出すのも面倒で、私はただ曖昧にうなずく。お父さんはそれ以上追及せず、前を向き直った。
そのまま、私たちは黙って歩いていく。父の背中を見ながら歩くのも、もう何度目かわからない。そしていつも、父はこの坂道を上る間、なにを考えているのだろう、と思うのだ。
生きていれば大学生になるはずの兄のことか、それとも私が顔も覚えていない母のことか。
「じゃあ僕は線香を用意するから、水お願いね」
長い坂道を上り詰め、お寺を越えてさらに上にあるお墓までたどり着いて、私はいくらかゴミを払ってから、水の入った重たい桶を手に取る。
柄杓で水をすくって傾けると、広がる波にそって墓石の色が変わっていく。
十年前の今日、兄は原因不明の変死を遂げ、さらに同日、私の母はまだ三歳だった私と兄の亡骸を残して、行方をくらました。
以来、毎年この日は私にとってお墓参りの日なのだった。
母については捜索願も出したらしいけれど、結局買い物のレシート一つ見つけることはできないまま、三年前に失踪宣告が成立し、墓碑に刻まれる名前が一つ増えることとなった。当時八歳だった兄が原因不明の変死をしたのを目の当たりにして身を投げたのではないか、というのが警察の推測だったらしい。
私が水を撒き終えると、お父さんは手際よく花を供え、携えたお線香からは薄く煙が立ち上っていた。
「はい、かさね。成実の分から」
手渡された線香の束を順番に供え、合掌する。
成実というのは、変死した兄の名前だ。父が仕事から帰ると、すやすやと眠る私の傍らに兄の亡骸が横たわっていたと聞かされた。死因は不明で、今すぐ外を駆け回ってもおかしくないくらい健康に見えて、でも死んでいたのだという。
「次は、あさみの分ね」
お父さんが緑色の線香をもう一束取り出し、先端を燻ぶらせて半分をよこした。すでに煙が充満している焼香台に手を入れると、独特の香りが顔をくすぐった。
薄情な娘といわれるかもしれないけど、物心ついてすぐいなくなってしまった母親のことはほとんど覚えていない。せいぜい頭を優しく撫でられた感触と、それからかすかな面影をわずかに記憶しているくらいだった。
「ねえ、お母さんってどんな人だったの」
だから、黙祷を終えた私は父親にそんなことを尋ねずにはいられないのだった。
すると決まって、こう答えが返ってくる。
「いつも明るくて、びっくりするくらい頭が良くて、それでいて悪戯好きで、いつのまにかいろんなことが彼女を中心に動いているような、素晴らしい人だったよ」
記憶にはないはずなのに、母のことが、そして母の死が、私には気になって仕方ないのだった。それが母性を求める子の本能なのか、それとも、なにか別の理由があるのかはよくわからない。
「かさね、お昼どこ行きたい?」
「私、カレーたべたい。おっきいナンが出てくるところ」
毎年の行事を一つ終えて、私たちは帰路についた。




