2-3
喫茶店から出た私は、空に浮かぶ巨鳥を見上げながら、広場の中心に走った。
中心の時計塔の下で手持ち無沙汰そうに携帯電話の画面を眺めるショートカットの女の子は、私が走りよると、こちらに手を振った。
「かさね、遅いよ~。買い物してたの?」
顔を合わせた杏子は、まるで私と待ち合わせをしていたかのような反応を示した。不可解さにそれを問い質すべきか迷ったけれど、状況はそれを許さない。
「オオォォォォオォオオォォォオオォオオォォォォ!」
地の底から響くような低く重い咆哮が響き渡る。
上空でホバリングを続ける鳥が上げる雄叫びは、私の身体を芯から揺さぶった。
こんなにも大きな怪物が、地を震わせるような叫びを上げているというのに誰一人空を見上げる人間はいなくて、私はそれだけ神話生物の異質さを感じる。
「ごめん! ちょっとこれ持って!」
事情を聞くのは後ですればいい、と私は今この場をどうにかするのを優先した。買い物袋を杏子に手渡して、肩を掴んで方向転換させる。
「あと、今すぐここを離れて!」
「な、なんで?」
「いいから!」
背後から二度目の咆哮が聞こえて、私は強引に杏子の背中を押しやった。
彼女が行った先を確認する余裕もなく、シャンタク鳥へ向き直る。そのまま、私は襟元から、十字架のペンダントを取り出す。
二本の指でペンダントトップを引くと、大した抵抗もなく、十字架はチェーンから離れて、私が手のひらを広げると、十字架は瞬きもしないうちに目元を隠すサークレットに姿を変えた。
ゆっくりと、手に握った銀の仮面を被る。
サークレットに触れる右手の先から変身が始まり、音もなく金属製の小手に包み込まれる。それが肩まで届くと、同時に私の休日の私服は、首から下へ純白の鎧に書き換わっていく。そして、スニーカーの爪先まで銀色に染まった時、誰一人私の存在に気づく人間はいなかった。
腰の剣を抜けば、しゃらん、と爽やかな音が鳴る。
(まずは、ここから離れないと……)
そう考えながら怪鳥を見上げれば、敵は身体を折り曲げて、大きな飛翔音とともにこちらに飛び込んできた。時計塔を越え、建物と比較できる高さまで下りてくると、その異常な大きさが実感を持って感じられる。
一直線に急降下する怪物は、私を一呑みにできるような口をぱっくりと開けたが、私が上空に飛び上がってそれを避けると、怪鳥の前歯はがちん、と空を噛み砕くだけに終わった。
空中で身をひねって、小手に包まれた左手を怪物の頭に向ける。
「《城壁の蔦は永遠を数える――ヴィーテ・ローザ》」
呪文を唱えると左手の袖口から二本の植物の蔓が勢いよく伸びていき、シャンタク鳥の首を吊り上げるように絡みつく。それを伝うようにして、私は怪物の背中に乗り移った。
喉元を縛られた怪鳥は再び高度を上げながら、嫌がるように身体をくねらせる。
蔓をしっかりとつかんだ私は、振り落とされないように踏ん張りながら、逆手に持ち替えた剣を神話生物の背中に振り下ろした。
「あ、あれ?」
怪鳥の身体の背面はびっしりと鱗が覆っていて、剣を突き立てようにも刃は表面をつるつると滑るばかりだった。
ぐらり、と足場が傾く。
「わわわっ!」
自分の背中に乗り上げた無礼な同乗者を振り落とそうと、シャンタク鳥は大きく暴れた。両手の塞がった私は空中に投げ出される。辛うじて左手の蔓によって怪鳥の首からぶら下がった私は、ビルの屋上やペデストリアンデッキを真上から眺めて、背筋を震わせた。
しかし、すぐにそれも油断だったと知ることになった。
「あ、ちょっと、やめて!」
怪鳥は私の命綱を、器用に足の三本の指でひっつかみ、ぐいぐいと引きちぎろうとする。
なにを言っても無駄なのはわかるけれど、つい言わざるを得なかった。ぶちぶちと繊維が断ち切られる音が鳴るのが、バンジージャンプへのカウントダウンのようだった。
「やめてってば! 《薔薇よ――ローザ》!」
呪文を唱えれば、切っ先から白薔薇の花びらが奔流のように流れ出て、敵を撃つ。
鱗のない怪物の腹は花びらが触れるたびに傷を開く。
シャンタク鳥が痛みに体をよじると、吊り下がった私は振り子のように揺れた。
その瞬間、ついに限界を迎えた命綱は、ぶちり、と音を立てて断ち切れる。
「あぁああああああ――――!」
強烈な浮遊感に絶叫する。
視界の中心に埋まった怪鳥がみるみるうちに小さくなっていく。
気が遠くなるような感覚に身を縮こまらせているうちに、衝撃はやってきた。
「うぐっ……げほっ!」
全身を殴りつけられるような痛みとともに、呼吸が止まる。一瞬の後、肺がフル稼働して、私は荒い息をこぼした。
「死ぬかと思った……」
ひとまず生きていることに、ほっと胸を撫でおろした。しかし、数十メートルの上空からアスファルトにたたきつけられても、生きている自分が信じられない。衝撃と痛みで骨が軋むような感じを覚えながらも、私はどうにか立ち上がる。
落ちてきた先は、バスロータリーの中心だった。
さっきまでいた広場からすぐそこで、駅前で最も人が多い場所。
周囲にたくさんの人間の存在を感じながら戦うのは初めてだった。
翼が空気を叩く音とともに、大きな鳥の影がロータリーの上空に現れる。
シャンタク鳥は地響きを上げて、足の三本の鉤爪をアスファルトに突き立たせ、私の正面に降り立った。
「オオオオオォォオォォォオォオォォォォ!」
怪鳥は翼を広げ、口を突き出し、威嚇の咆哮を上げる。
周囲を走り回る大型バスと比較してもその身体は見劣りせず、私は無意識のうちに腰が引けてしまった。それに気づき、自分を叱咤するように、剣の切っ先で乱暴に地面を叩く。
手に伝わる痺れが、私を取り戻してくれるような気がした。
「《狂った氾濫は世界に塗れ、形への反乱が牙を剥いた――リボルタ・デイ・ヴィルス》」
私の呼びかけに呼応して、神話生物の足元にいくつもの穴が開き、一抱えもある棘だらけの蔓が飛び出す。鎌首をもたげた緑色の大蛇たちは怪鳥を絞め殺さんばかりに絡みつき、先端にある牙の生えそろった口で獲物の肉に食いついた。
拘束を解こうと暴れるシャンタク鳥。
私は荒い鼻息を吐く怪物に駆け寄り、勢いのまま、鱗のないその喉元へ剣を突き刺した。
「オァァァァアア!」
怪鳥は身体を貫かれる痛みに、甲高い悲鳴を上げた。
根元まで埋まった刃を引き抜くと、瓶底が抜けるように、怪物の首に空いた穴から真っ赤な液体がひっきりなしに流れ出る。どろりと、刃を伝った怪物の血が手元を濡らした。血への本能的な恐怖に総毛立つのを感じて、動きを止めてしまう。
「うわっ!」
次の瞬間、私は宙づりになっていた。
シャンタク鳥の馬面から伸びた異様に長い舌が、私の足首を絡めとり、晒し上げたのだった。私の身体はぶんぶんと振り回され、そのままの勢いで明後日の方向へ投げ出される。
飛ばされた先はバスロータリーの端。
(やばっ……!)
倒れ込んだ私の頭の上にちょうどバスが走り込んで停車し、どきどきと鼓動を高鳴らせた。
見れば、私の意識が切れたことによって、拘束が解けている。剣を構えなおす前に、怪鳥は踵を返し、次の攻撃の準備をしていた。シャンタク鳥は大きく尻尾を振って、先端の岩塊が円軌道を描く。
体勢の整っていなかった私は、防ぐのではなく、しゃがみ込むことで攻撃を避ける。
しかし、それが、間違いだった。
「あっ!?」
尻尾の先を目で追っていた私は、ガシャン! という破壊音とともに、背後の路線バスの側面に岩塊が叩きつけられ、歪んだ車体がバス停に倒れ込む一部始終が、瞳に焼き付いた。




