タラッサの養子のリザードマン:3
タラッサと今日も対峙する。近くでエリュトロンがこれから始まる戦いを眺めている。
小さい頃に、実演を踏まえて、殺されても死なないというのを言われた事を思い出した。
胸に短剣を突き刺し、血をどばどばと流しながらも平然と俺に対して話しかけてきたタラッサ。自分で落とした首を持ちながら、その首で話していたタラッサ。
暫くの間、殆どのものが口に入らなかったのをとても良く覚えている。
ドラゴンに対して何故、という言葉を向ける事はエリュトロンが来るまでは久しく無かった事だった。
今はまた、その疑問がタラッサに向かい始めている。
何故、ドラゴンはそのような肉体をしているのか。
何故、俺をこのように育てようとしているのか。
そして何故、俺の親となっているのか。
「今日はどうする?」
俺と同じ、リザードマンの姿でタラッサは今日もそれを言った。肩に担ぐのは戦斧。俺は心を落ち着かせて今日もまた、じっくりとその前を見据えた。
勝たなくては始まらない。
そして、俺は、勝てる方法を思いついていた。
*****
エリュトロンが去った後、夜がすぐに訪れた。
見上げれば月明りと光る星々があった。
火山からもくもくと立ち上る煙が、見えていた。
目線を下げれば、輪郭だけが僅かに見える森があった。足元は全く何も見えなかった。
暗闇がそこにあった。
俺は、それに恐怖を覚えていた。久々に。
いつもならただ寝るだけの時間だ。けれど、この足元の暗闇に体を寝かせるのが怖かった。
寝ても、どうも落ち着かなかった。
死んだらどうなるのだろう。その疑問はエリュトロンがあっさりと答えてくれた。
肉体も魂も散り散りになる。俺は、消える。俺が生きていたという痕跡も、全く無くなってしまうのだろうか。多分そうなのだろう。そんな恐怖に他の人族はどう抗っているのだろう。
知りたくてもここに他の人族は誰一人として居なかった。俺は、誰一人として他の人族と会った事が無かった。居るのは、二体のドラゴンだけ。人族とは寿命から能力から何もかもが違うドラゴンだけ。
そのドラゴンとは違って、五十、六十年程で俺は老いて死ぬ。ただひたすらに死に向かって歩いている。死は待ち受けている。
俺という存在が消えてしまうという事実が恐ろしかった。考えている俺が、体を動かしている俺が、塵となって無くなってしまうという事が恐ろしかった。
「……誰か」
その声に耳を傾けてくれる誰かは、誰も居ない。
ふらふらと歩いた。そんな事をしてもその恐怖は薄れてはくれなかったが、何もしていないよりはマシだった。
素振りをしても、一日中しごかれて疲れが溜まっている腕では、早々集中して意識を閉ざすなんて事も出来なかった。
死に対して、人族に限らず、全ての生き物はどう向き合っているのだろう?
俺が殺して食べた様々な生き物は、俺が一撃で仕留められずに、苦しんでいる時の獣は、死を目前にして何を思っているのだろう?
死に憑りつかれたように、俺はただただそれを考え続けた。ただ、考え続けても、分かった事は僅かだった。
死ぬのは怖い、他の誰かが死についてどう考えているのか、俺は全く知らない。
そして、ここには俺の死は微塵たりとも無いという事。
*****
俺の死はここには無い。
俺はそう、自分に言い聞かせた。タラッサが俺を殺す事はない。
タラッサが俺を誤って殺そうとしてしまったら、何をしてでも止めるだろう。
タラッサから一本取る為に、俺はタラッサより武器の使い方を、体の使い方を上手くなる必要なんて無かった。
タラッサが俺の親であるという事実を利用すれば、それだけでタラッサに隙が生まれるだろう。
俺がいつものように距離を詰めると、戦斧が振りかぶられる。
平静を保つように心がけた。そして、一気に走った。
俺の死はここには無い。俺の死はここには無い!
俺の脳天に目掛けて叩きつけられる斧を、俺は避けなかった。思わず瞑りそうになる目を必死に開いたまま、前に、タラッサに向かって、刀を薙いだ。
タラッサの顔が驚きに染まり、腕が止まる頃には、俺は刀を振り抜いていた。
本当に、ただそれだけで良かった。
「…………」
タラッサは、だらだらと血が流れる自分の腹を見て、それから斬った後の姿勢のままの俺を見た。
「…………」
何も言わなかった。
俺は何故か、金縛りに遭ったように動けなくなっていた。
「……………………」
がらん、と戦斧が落ちた音がした。タラッサが後ろを向いて歩いて、走って、ドラゴンの姿に戻って飛び去って行った。
一度も振り向かずに、何も言わずに飛び去って行った。
俺は、その姿が見えなくなってから、やっと姿勢を崩して、息を吐けた。
地面には流れ出た沢山の血と、戦斧だけが残っている。
自問するように、呟いた。
「俺は……一本取ったんだよな?」
「そうだな」
エリュトロンがそっけなく言う。
「俺は……外に出られるんだよな?」
「そうだな」
なのに、何だこの後味の悪さは。
「ただ」
エリュトロンが続けて口を開いた。
「タラッサは、子を育てた事なんて一度も無かった。俺よりもかなり長く生きているが、それでも、養子だろうと子を育てた事なんて一度も無かった。
眷属を作る事すら無かった。
そして、あいつは見ての通り頑固だ。だから、タラッサ自身が望むような道筋しか、タラッサの頭の中には無かった。
それが崩されたんだ。
話し合うべきだ。お前とタラッサは」
どうして話し合うべきか、エリュトロンの言葉を聞いてもはっきりとは分からなかった。けれど、話し合うべきだという事に関しては、俺も強く思った。
「待つより、追った方が良いかな」
エリュトロンは少し考えてから、言った。
「……一日経っても戻って来なかったら、俺が連れて行ってやろう」
結局、その通りになった。
どうにも落ち着かないまま、何にも手が付けられず昼になり、太陽が沈んでいき、夜になっても中々眠れず、気付いたら朝が来ていて。
いつも来る時間になっても、タラッサは来なかった。
そして、エリュトロンがドラゴンの姿のまま、俺の前へやって来た。
頭を下げて、そこから乗るように言われる。
ドラゴン。俺なんかより何もかもが桁違いな生き物。それに小さい頃に乗った事がある、と俺は唐突に思い出した。
「早く乗れ」
「え、ああ」
よじ登って、角の一つにしがみつくと、ぐい、ぐいい、と体が持ち上がる。
目に見える景色が一瞬にして遥かに広がった。
記憶もおぼろげな、とても小さな時の記憶。そうだ、俺は、物心つく前から、タラッサに育てられていた。
エリュトロンの巨体が浮き上がり、そしてタラッサの居場所へと俺を運んでいく。
景色と、速さと、ドラゴンそのものに圧倒されながらも、俺はまだ心の準備が出来てなくて、不安で一杯だった。
俺はタラッサと話すべきだと思いながらも、未だに何を話せば良いのか分からなかった。聞きたい事は色々とあれど、鍛えられている間に挟むような会話ではなく、本当にただの会話となると、これまで全ての時間がこのエリュトロンと話した時間より少ないような気がした。
タラッサとの記憶は、自分がまだ一人では何も出来ない頃に静かに一緒に居た事と、それ以外のほぼ全ては鍛えられていた記憶しかなかった。
―――――
すぐに、タラッサの寝床へと着いた。すり鉢状に抉られた山の中腹。
タラッサは背を向けて、不貞腐れるように寝ていた。元々の巨大なドラゴンの姿で。
エリュトロンが、俺を乗せたままタラッサに言った。
「何をそんなに落ち込んでいるんだ」
タラッサは無言のまま答えなかった。
俺が見てもエリュトロンが見ても、とても分かりやすく、気を落としていた。
エリュトロンは俺を降ろしてから、タラッサの体を引っ張ろうとその腕を肩に掛け、ぐ、ぐ、と引っ張った。けれど、動かない。
「ガキかよ、お前。俺より長く生きているだろう」
エリュトロンは冷たく言った。
そして、今度は首に両手を掛けた。
タラッサが足掻く前に、エリュトロンの腕に力が入った。その体躯の筋肉が目に見えて厚みを増した。
「……え?」
ぶちち、と、ごりゅ、と太い血管が千切れる音が、骨が捩じ折られる音がした。エリュトロンはタラッサの首をねじ切って、俺の前に置いた。それは重い物を拾って置くような、至って普通の動きだった。殺すとかそういう物騒な動きをしているような動きには全く見えなかった。
けれども。俺の前に置かれたタラッサの頭の、目は動いていた。生首は、明らかに生きていた。
地面に接した首の断面からは血が滲み出ているというのに。
俺が唖然としていると、今度は残されたタラッサの胴体が動いて、タラッサの首を掴んで持ち上げた。首を元の位置に戻せば、いつの間にか元通りにくっついていた。
俺の聞きたい事は、まず最初に決まった。
「ドラゴンって、何なんだ?」
エリュトロンが立ったまま、その遥か上から俺を見下げてきた。
高い頭。その目は俺をじっと見ていた。そして短く、一言。
「気にするな」
……。
到底納得出来なかったけれど、エリュトロンもタラッサも、それに答えてはくれなさそうだった。
そのタラッサの一度千切れた首からは血が出た痕がしっかり残っていた。けれどもタラッサは何事も無かったようにしていた。
訳が分からない。
ドラゴンは、どうやったら死ぬんだ?
ドラゴンにとっての死は、何なんだ? 死なないのか? いや、でも生まれるんだよな。
エリュトロンが、生まれてから数千年が経っていると自分で言っていた。
ドラゴンは、増え続けているんだろうか。
「おい」
タラッサが考え事に入り込んでいた俺に呼びかけた。
ドラゴンのままの姿で、俺を見ている。寝床に座り直して、目線の高さを俺と大体同じくらいに合わせていた。
「こいつに何か唆されたのか?」
タラッサはエリュトロンを指差して言った。
「いや。俺が気付いただけだ。タラッサは俺を絶対に殺さないと」
「まあ…………そうだな」
タラッサは大きく溜め息を吐いた。それは生暖かい風になって俺の所までやって来た。
「エリュトロンが居たから、気付いたんだろう?」
「……そうだな」
エリュトロンはだから何だというようにタラッサに目を細めた。
「……私も、驚くんだ。こんな事される何て、される直前まで思いもしなかった」
タラッサの目が幾ばくかの間、辺りを泳いで、顔を合わせないまま、また口を開いた。
「ネストル。お前は私に、他のリザードマンがどうやって育つか知らないと言ったな。
私もだ。私も、人族の親がどう子を育てるのか知らなかった。知ろうとしなかった」
そこでタラッサは口を閉じた。それに対して謝る事も、何か聞く事もしなかった。
エリュトロンが俺を見てくる。何か言いたい事は無いのかというように。
俺は、色々と聞きたい事があった。話したい事があった。その中から一つ、一番聞きたい事を選んで、最初に聞いた。
「……俺は、タラッサにとって、何だったんだ? 何で、俺はタラッサに育てられているんだ?」
タラッサは、口を開きかけて、そして閉じた。それからエリュトロンを見た。
何故、エリュトロンを見るのか分からなかった。けれどエリュトロンは、いつになく真面目な顔でタラッサを見つめ返した。
それがどんなやりとりなのか分からないまま、タラッサは俺の方を向き直して、言った。
「育てるべき、と私が決めた子供だった」
「……育てるべき?」
タラッサは、口を開けて、閉じてをまた何度か繰り返して、先ほどよりも長い時間躊躇って、そしてそれから、言った。
「お前の両親を、私は殺したんだ」
頭が、どうにかなりそうだった。けれど、口は勝手に動いていた。
「なんで?」
タラッサは、またエリュトロンの方を見た。
「エリュトロンが関係しているのか?」
「いや、違う」
「なら……」
「ネストル」
続けようとする俺を、エリュトロンが呼んだ。
今までの何よりも、真面目な声で。
「タラッサがお前の両親を殺した理由を、詳しく知りたいか?」
何故、そんな事を問うのだろう。
「そんなの当たり前だ」
「少なくとも、私利私欲の為じゃない。それだけでは納得出来ないか?」
「……出来なかったらどうなんだ?」
「これから言われる事を誰にも口外しないと、お前の魂に刻む必要がある」
…………。
ええっと、どうしてこんな事を言われたんだ?
まず、俺は何をしたんだっけ。タラッサから一本を取った。タラッサが親であるという事実を利用して。
そうしたらタラッサが不貞腐れて。エリュトロンに話し合うべきだと言われて、話し始めたら、タラッサが初っ端から俺の産みの親を殺したと言った。何故と聞いたら、こんな事を言われた。
何だろうな、これ。
俺は、どうやら生まれた時から何かに巻き込まれていたんだろうか。
どうして、俺なのだろう。
「聞くか?」
エリュトロンの声で、我に戻る。
俺は頷いた。
色々とあり過ぎて、頭が本当にぐちゃぐちゃになっている。考えが全く纏まらない。けれど、そんな中でも一つだけはっきりしている事があった。
ぐちゃぐちゃになっているそれを分からないままにしておく事だけは、俺には我慢出来ない。