大狼と:1
遅くなりました。1-3始まります。多分7話もないけど。
いつもの目覚めだった。
夕方にのっそりと体を動かして、皆と毛づくろいをし合ってから夜、狩りに出る。今日は偶々近くに居た頬傷と、茶黒と一緒に。
大きいこの体をひっそりと動かして。自慢の、遠くまで臭いを嗅ぎ取れる鼻で、遠くの植物が掠れるような音まで捉える耳で、周囲をしっかりと感じ取りながら音を立てずにひっそりと。
そんな最初に見つけたのは、成長すれば大きな角を生やす牛の子供だった。親からはぐれたのか、一匹で今も不安げに鳴いていた。
僕達はそれを狩るか少し迷って、狩らなかった。皆の腹を満たすにはその子供だけでは物足りない。
放っておけば、他の獣にとって丁度良い血肉になるだろう。
ひっそりと先へと進むと、熊の臭いがした。あの恐ろしい赤熊じゃない、ただの熊の臭いだ。
けれど、熊は食べ頃じゃない。今は夏が過ぎたばかり。精悍な肉付きな今の熊よりも、秋頃、冬眠に向けてしっかりと脂肪を蓄えている熊の方がとても美味しい。
肉や木の実、それから果物等々、色んな物を食べて蓄えたその血肉は、ただ葉っぱとかばかりを食べている草食獣とも、肉ばっかり食べている肉食獣とも、一味も二味も違う。
ただ、気怠い夏が終わった今、食べ頃なのは、と言われてもそんなに居ない。冬に向けて脂肪を蓄え始める今、自分達を含めたどの獣も少しすらりとした形で、食べるにはどれも淡泊な味がする。
木の実や果物を食べるのも時々は良いけれど、時々で良いし、お腹一杯食べようと思ったら夜から朝になってしまう位に時間が掛かってしまう。そして、やっぱりお腹が空いた時は肉に限る。
熊を食べるか、少し皆で悩んだけれど、何だかんだで別の獲物を探す事に決まった。まだ、他の誰かが獲物を捕まえたような遠吠えの合図は聞こえて来ない。
次に見つかったのは、尖り角鹿だった。僕達よりも二回り位大きい、複雑に枝分かれした尖った角を持った鹿。
でも草食獣とは言え、下手をしなくともこちらが狩られるかもしれない程の危険な魔獣を狩るほど飢えている訳でもないし、それに加えて仲間の臭いがした。遠くからでも結構強めに臭って、それが誰なのかもはっきりと分かった。
垂れ耳の臭いだった。良く居なくなる事があるとか思ってたら。
あんまり良いことだとは僕は正直思わないのだけれど。もし冬に飢えたら、危険を冒してでも狩る相手になるかもしれないから。そんな事になったら、垂れ耳はどうするのだろう。
それからもぶらぶらと臭いを嗅いで歩き回って、気付いたら一緒に歩いている茶黒が野ネズミをバリバリ食べていたりして。
暫くすると、今度は虎を見つけた。
肉食獣って言うのは実はそこまで美味しくないんだけれど、お腹は流石にもう結構減っていたし、まだ、誰も獲物を仕留めてはいないようで遠吠えの合図も無い。まあ、あれで良いかと決めた。
ひっそりと、ひっそりと虎の周りに散開する。虎なんて、僕達に掛かれば複数で襲い掛からなくても全く問題は無いのだけれど、万が一という事はある。僕達は他の普通の獣とは格段に違う位に肉体は優れているけれど、流石に虎に噛まれたり引っかかれたりして無傷で居られる程、頑丈な体でもない。
それになにより、何を狩るにしても、やっぱり一匹だけじゃ食べきれないし。咥えて持って帰るのにも、一匹でずーっと運ぶのも大変だし。
ひゅるるる、と時々流れる風の音に合わせて僕達はゆっくりと、その虎に距離を詰めた。虎も獲物を探している最中だったようで、辺りを探っているけれど、まだ、僕達に気付いてはいない。
一際、風が強く流れた。ざああっ、と木々が揺れる音がする。僕はその瞬間に、真後ろから一気に距離を詰めた。枯れ枝を踏みそうになってそれを避けて、長い草の風の揺れに合わせて体を前に動かして。
草の生えていない、ふわふわな土の上に足を出した。もうすぐ目の前に、僕に気付いていない虎が居た。
風が収まる。さわさわと余韻が過ぎて、ぐ、と足に力を込めた。
ぽき、と関節が鳴る音がした。
あっ。
虎が後ろを振り向くと同時に、僕は跳んだ。行動を起こされるよりも前に、肩に爪を食い込ませながら、首に噛みつく。そして捩じれば、ぼき、と首の骨が呆気なく折れる音がして、虎は倒れた。
僕は、獲物を捕まえた事を示す為に鼻先を空に向けて、目を閉じて、長く遠吠えを響かせた。
「ウオォーーーーーーーーーーン…………」
目を開けると、星がきらきらとしている。それから、青い月。
夏の暑さも過ぎて、涼しい、とても良い夜だ。
何もしなかった頬傷と茶黒に虎を引きずらせて、縄張りに戻る。何も出来なかった事にむっすりとしながらも頬傷と茶黒。
皆で狩りをする、って言っても実際は気付かれた誰かが強襲を掛けてしまうという事が多かった。
獲物に皆でこっそりと近寄って、息を合わせて一気に仕留める、そんな理想的な狩り方は十回に一回あれば良い方だった。
縄張りに戻って、捕まえた僕達がまず食べてから、残りを皆が食べる。
そんなに大きくない群れで、そして周りに縄張りを争うような他の群れも無い。とても、とても広い森の中。
一日中走れる脚を持っているけれど、まだ遠くに行った事はあんまり無い。
遠くに行かなくても美味しいものは沢山あるし、夏に冷たい川で水浴びとか、冬も、食べる物が少なくなって焦ったりする事はあるけれど、飢えてどうしようもなくなる何て事もないし。
少し退屈だと言えば、まあ、そうだけれど。時々遠くに行ったりして、楽しかったような顔から疲れ果てたような顔まで、色んな顔をして、そして時々番いも連れて来たりして戻って来る仲間のように、どこか遠くに行こうとはまだ、僕は思わない。
ただ、いつかは、どこかに行こうかと何となく思う。
この森の外はどうなっているのだろう。少しでも考えれば、それを全く知らない事が分かる。
その興味は、僅かながらも日に日に大きくなっているのを、僕は時々感じていた。
今日も駆けっこをしたりしている内に夜も過ぎて行って、食べた虎の血の臭いも薄れてきて。
そう言えば、と僕は垂れ耳を探した。
虎を食べて、少し後から見ていないな。
……尖り角鹿と、何をしているんだろう。赤熊ほどじゃないけれど、あんな恐ろしい魔獣と。
一回だけ見た事がある、忘れられない、とても恐ろしい記憶。冬が過ぎ去ろうとしている、雪解けの季節。
冬眠から起きたばかりの熊が、ある尖り角鹿を襲った。ただの獣は僕達魔獣を襲う事なんて、弱ってたり子供だったりしないとあり得ないのだけれど、空腹からか、寝ぼけていたのか、背後から襲おうと近付いていた。
その尖り角鹿はそれに気付くと逃げずに、枝分かれした角を向けて、ピカッと眩しく光らせた。
眩しくて目を閉じて、次に見えたのは、穴だらけになって、即死した熊だった。
そして、僕の隣にあった木にも穴があった。焼け焦げた跡がある穴で、太い幹を完全に貫通していた。
尖り角鹿が、僕の方を見てきて、僕は必死に逃げた。
何をしたのか分からないけれど、尖り角鹿は、一瞬で多分僕達も殺せるような何かの手段を持っている。襲うとしたら、完全に気付かれずに、一瞬で仕留めるしかない。出来なかったら、今日みたいに関節が鳴ったりするようなヘマを冒したら、皆、穴だらけになって死ぬ。
そんな尖り角鹿と、一体何を。
何もそんな危険な事はしてないんだろうとは思うけれど。
臭いを探ってみれば、川で痕跡を消そうとしたようだったけれど、何とか追えそうだった。
臭いを辿れば群れから一直線に遠くまで離れていく。風下から風上に向かって。水で臭いを殆ど消した上にそんな方向に歩いて行っているんだから、中々に面倒臭い。追えない訳じゃないんだけれど、追いにくい。
単純に獲物だったら、もう諦めようかと思う位だ。
でも、垂れ耳が何をしているのか、それは単純に獲物を追うより気になる事だった。仲良くしているだけとか、きっとそんな、見てみればつまらない事だと大体は予想出来るけれど。
あれ、いや、仲良くしているだけであんなに強い臭いが出るかなあ。縄張りを主張するような臭いの強さだったし。
何だろうな。垂れ耳が時々居なくなるようになったのはそんなに昔からの事でもないし。特別強いとか、弱いとか、鼻が利かないとか耳が遠いとか、何にも特別な事も思い当たらない。まだ若い方だから番いも僕と同じで居ないし。尖り角鹿と友好を結ぶような何か出来事があったんだろうか。
怪我をしているところを助けたとか? 偶然ばったり出くわして、そこから何かあったとか。
まあ、色々と想像しても全く分からない。実際見てみれば、何か分かるかもしれない。
……そうか。それが、僕が垂れ耳を追っている一番の理由か。分かりたいんだ、僕は。
尖り角鹿と垂れ耳がどうして一緒に居るのか。それが分かったら……そうしたら、もしかしたら狩る相手になるかもしれないその相手と一緒に居るのか、納得できると思ってるんだ、僕は。
ふと、気付いたら、微かに音がしているのに気付いた。
何かを叩きつけるような音。連続して聞こえてきて、でも、そんなに暴力的な音でもない。……何か、聞いた事のあるような音だった。
耳を澄まして、体をより一層潜めて。一気に体に集中が走る。
一応見つからないようにして行こう。どうせここに来た事は臭いで垂れ耳にはばれちゃうけれど。
呼吸を殺して、ゆっくりと近付いていく。叩きつける音は精力的に聞こえてきて、いや、まさか。
けれど、次いで聞こえてきたのは、喘ぎ声だった。
……もうちょっと近付こう。まさか、ね。
叩きつけるような音はずっと響いてきて、喘ぎ声は二匹分。垂れ耳と、尖り角鹿。
とても楽しそうな喘ぎ声だ。
えーっと、うん。そのまさかなのかな。ちょっと待ってね。うん。さて、落ち着こう。落ち着くんだ、僕。
この先で起きている事は、多分、いや、ほぼほぼそうだろう。分かった。分かった。うん、見なくてもはーっきりと分かる。だって、僕も見た事あるもの。実際にやった事は無いけれどさ。尖り角鹿に垂れ耳の臭いがたっぷりと付いていた理由も、分かった。
僕、さっき何て思ったっけ。もしかしたら狩る相手になるかもしれないその相手と一緒に居るのか、納得できると思う、とか思ってたっけ。
納得、ってなんだったっけ。いやいやいやいや、いやいやいやいや、ちょっと待って。ちょっと待って。本当に。納得? できる訳がない!
何がどうしてそうなってるの? 訳が分からないよ。あの、その、えっと、うん。訳が分からない。
分かる訳もないし、あの、その、本当に、うん、何してるの? 何してるかは分かってるんだけど、何してるの?
でも、顔を出す勇気なんて無いし、顔出したら、何か本気でその二匹に襲い掛かられそうな予感もぞくぞくする。僕の体が穴だらけになっちゃう気がする。というか、僕ここまで来ちゃったよな、うん。垂れ耳が、僕がここに居た事を知るよな。何をしていたのかを見られていたのを察するよな。ちょっと、僕、危ないんじゃ。
ああ、どうしよう、来なければ良かった。なんで僕こんな事してるんだっけ、いや、本当に。
僕、旅に出ようかな。
いや、本気でそうした方が良い気がしてきた。垂れ耳にどんな顔をして会えばいいのか分からないし、垂れ耳もこんな事をしているのを知られて、僕にどんな顔をしてくるんだろう。
…………。
うん。取り敢えず、帰ろう。
帰ろう。とにかく。
僕は、逃げるように走った。
帰ると、朝が近付いてきていた。東の空が黒から濃い青に変わって来ていて、何か僕はどっと疲れていた。
お腹もそこそこ空いていたけれど、取り敢えず寝たいような。
けれど、うん。遠くから早速、全速力で走って来る誰かの足音が聞こえるんだ。丁度、僕の戻ってきた方向から。
茂みから飛び出てきて、口から舌を出してしきりに息を吐きながら、しぃんとなった周囲を見回して、そして僕を見つけて、飛び掛かってきて。
押さえつけられられて、そこからは何もされなかった。
股間から濃い、垂れ耳の臭いがしていた。呼吸が落ち着くまで、僕の体に垂れ耳の涎がぽたぽたと垂れた。目がいろんな場所を行ったり来たりしていた。
まあ、うん。……ごめん。
僕が降伏するように四肢を広げると、垂れ耳は僕の上からどいて、そして不貞腐れて体を丸めた。
それから皆、何があったのか、垂れ耳や僕の臭いを嗅いできて、垂れ耳は逃げるようにまた走り去っていった。
尖り角鹿の臭いもはっきりとついていたし、察してしまう仲間もいるだろうなあ。
僕も臭いを嗅がれるのに辟易して、ちょっとまたここから離れる事にして、ついでに狩りもしてしまおうと思った。
その寝床から離れる前に、そんなに一緒に狩りに行く気分でもなかったけれど、いつもの癖で他に誰か一緒に狩りに行く仲間が居ないかと振り返った。
その時、唐突にビスッ、と音がした。仲間の一匹が、頭から血を噴き出して倒れた。
一瞬遅れて、パァン、と遥か遠くから音が鳴った。
大狼:
♂。“僕”
名無し。成獣してからそこまで歳月が経ってもいない、平凡な群れの一員。




