7・公爵令息と乗馬
エドワードさまの『いい考え』が、わたしにはよくわからなかった。
「あの……乗馬中のアレクさまがたをさり気なく監視して、見つかっても不自然じゃないように、っていう発想はわかります。でも、どうして『わたし』なんですか。不自然ですよ?」
お嬢様の、アレクさまとディアナさまに関する悪夢の翌日。わたしはエドワードさまに言われるまま、外出することになった。
―――
「これから暫く、午後に少しアリスを借りるよ」
とエドワードさまがお嬢様に仰ったときには、なにか調べ物のお手伝いでも申しつけて下さるのかと思ったのだけれど。
「アリスは乗馬は、やった事はあるけど慣れてない、ってとこだよね」
とエドワードさまは、アレクさまやディアナさまとはまったく関係のないことを言い出された。
「は? はい。こちらにご奉公に上がる前、子どもの頃に一応教わりましたが、実際乗馬の機会なんてないものですから」
「だよね。だったら、身に付けておいた方がいいよ」
「え? どうしてですか? 今までまったく必要を感じた事がないのですが」
「だって、ヴィクがいつか王妃陛下になったら、アリスは王妃陛下の侍女長だ。乗馬くらいちゃんと出来ないと困ると思うよ」
王妃陛下の侍女長……その言葉の重みにわたしは言葉を失った。王妃陛下を輩出するようなお家に仕えていながらも、旦那さまも奥さまも自由な気風であられるので、わたしは全くそんな堅苦しい気持ちでいた事がなかった。けれどよくよく考えれば、わたしのお嬢様は未来の王妃陛下であり、子どもの頃から存じあげているアレクさまは国王陛下になられるのだ。いつまでもお嬢さまに仕えていたい、なんて言いながらも、それは即ち王家に直に仕えることを意味するのだと、きちんを考えていなかった。
「で、でも、わたしなんかが侍女長だなんてとんでもありません。わたしより身分の高いかたがたくさんいらっしゃる筈です」
「いや、以前アレクさまが仰っていたけど、ヴィクの身の回りの人間については、ヴィクの希望を最優先したい、と思っておられるらしい。だから、すぐにではないかも知れないけど、いずれそうなると思う」
「そ、そんな。わたしはお嬢さまをお世話出来ればそれで充分です。人の上になんて立てません。だって……」
だってわたしは孤児だもの。男爵家の養女ではあるけれど、いまはもう亡くなっている養母がどこからか連れて来た赤ん坊で、養父はわたしの出自を知らないと言う……。
『おまえにはきっと下賤の血が流れている。妻がどうしてもと言うから養う事にしたが、常に身の程を弁えろ』
『おまえは下賤にしては利口だから、きっとアディソン家のご令嬢にも上手く取り入る事が出来るだろう。作法はしっかり仕込んだ筈だ。もしもクビにでもなったら、街へ放り出すからな』
『ようやく下賤の子がいなくなるのね! でもお父さま、ウォーカー家の恥に公爵家の侍女なんて務まるかしら』
『こいつは見目と頭だけはいいからな。今まで食わせてやった分はせいぜい返してもらうという事だ』
不意に、ずっと忘れていた、養父と血のつながらないきょうだいの言葉が胸に甦って、わたしは顔を伏せた。そんなわたしの様子に、エドワードさまはすぐに気づいて下さる。エドワードさまは、子どもの頃から、とてもそういう事に鋭くて……。
「アリス、昔のことなんて考えなくていい。おまえがどういう人間かは、僕ら一家もアレクさまもちゃんと知ってる。身分については確かにとやかく言う輩はいるだろうけれど、アレクさまはその辺配慮するって仰っていたしさ」
「配慮?」
「ああ、まあ、これは先の話だから、いまはあんまり考えなくていいよ」
「え、でも、どういうことです?」
「いいからいいから。それより、今出来ることをやっておいた方がいいだろ」
「乗馬ですか」
「そうそう、僕が教えてやるから」
「えええ? そ、そんな! エドワードさまはお忙しい御身体ですのに! とんでもないことです!」
けれど何故だかエドワードさまはにこにこして、
「いいんだ、大事なことだから。それに、そういう口実があれば、アレクさまとディアナさまの乗馬を見張ってて、誰かに見つかっても不自然じゃないだろ?」
「すごく不自然です! なんで公爵家のご子息が侍女に乗馬の手ほどきを?! 乗馬のお相手なら、相応しいご令嬢がいくらでもいらっしゃるでしょう?」
「まあいいからいいから。アレクさまが不自然だと思われなければそれでいいんだ」
「アレクさまだって不自然に思われるに決まっています!」
「だってそうそう他人に事情を打ち明けて協力してもらう訳にもいかないしさ。アレクさまは解って下さるさ。まあいいからいいから」
――こうした流れで、納得いかないまま、わたしはエドワードさまと、アレクさまとディアナさまがいらっしゃるという乗馬コースへ出かける事になったのだった。
―――
「そうそう、やっぱりアリスは筋がいいね。もうあんまり教えることがないな」
納得はできないものの、勿論この時間が楽しくない訳はない。エドワードさまとふたりで乗馬なんて、そんなこと一生起こらないと思っていたのに。森の空気はおいしくて、風は心地いい。エドワードさまは優しい。最初は多分、もたつくわたしに苛々もなさったろうと思うのに、一切そんな素振りは見せずに、根気強く指導して下さった。幸い、この三日間、誰にも見咎められることもなかった。
「アリス、あっちの泉のほうに行ってみよう」
「は、はいっ!」
「アレクさまたちもいるかも」
「そうですね」
夢のように楽しい時間だけれど、これはアレクさまとお嬢さまの為なのだ。それを忘れてはいけない――。
その時。
突然晴れていた空に雲が湧き、そしてぽつぽつと雨が降り出した。
「エドワードさま、大変、早くお帰りにならないとお風邪を召します」
「いやいや、違うだろ。僕らはこの時を待っていたんじゃないか」
「え。あ」
お嬢様の悪夢……アレクさまとディアナさまは、突然の悪天候で、乗馬を切り上げて離宮にふたりで向かわれて、というところから始まるんだった。駄目だな、わたしはやっぱり、肝心な事に気を回せないなんて。
「離宮は森を抜けたところ、もうすぐだ。行こう」
「は、はいっ」
雨のしぶきで思わず目を瞑りそうにもなりながら、わたしはなんとかエドワードさまに付いて行った。そして、離宮の門が見えて来た時……。
「ほら、やっぱり」
行く手の方に、馬上のアレクさまとディアナさまが見えた。