1・公爵令嬢の憂鬱な悪夢
「―――という、夢を見たのよ!!」
我がエッジワース王国の最高の淑女にして未来の王妃たるお方、わたしが心から敬愛する女主人、ヴィクトリアさまは、今、羽根布団を被ったまま、涙声でわたしにそう告げた。
「夢、でございますか。夢、でございますね」
と、わたしは思わずばかみたいに復唱してしまった。だって、未だ嘗て寝坊なんてなさった事のないお嬢様が、朝いつまでもお声をかけて下さらずにお部屋に閉じこもっておられるご様子なので、とても心配していたら……夢だなんて! 完璧なヴィクトリアさまにも、意外と子どもっぽいところがあるんだ、とわたしは笑いそうになってしまう。でも、ヴィクトリアさまは日頃から完璧すぎるのだから、こういう面もあった方が逆に素敵だな、とも思う。
「アリス、アリス、馬鹿馬鹿しいと思っているのでしょ?」
「お嬢様の仰る事を馬鹿馬鹿しいだなんて申しませんけど、でも、夢は夢でしょう。アレクさまがお嬢様との婚約を破棄? あり得ません、馬鹿馬鹿しい……あ」
「やっぱり馬鹿だと思っているんだわ~!」
「ち、違います、お嬢様! お嬢様を馬鹿だなんて言える者はこの世に存在しません!」
7歳にして五か国語を操り、10歳にして学問塔の博士を論破し、15歳にして大飢饉の予兆に並み居る大臣たちに向かって献策し、王国の危機を救った才女である。ヴィクトリアさまより秀でた方なんて王族方にだっていやしない……というのが、口には出せないわたしの本音だった。そのお嬢様を馬鹿だなんて思う訳がない。
わたし、アリス・ウォーカー、男爵家の養女にして7歳から同年の公爵令嬢ヴィクトリアさまの侍女兼話し相手を長く務めさせて頂いている者から見ても、わたしのお嬢様は、本当に非の打ち所のない令嬢なのだ。美しく、賢く、優しく、それでいてまったく驕らず、でもちょっとおっちょこちょいなところ、世間知らずな分子どもっぽいところもあって、それもまた魅力なのだ。おまけに王太子殿下の婚約者で将来の王妃になられる。なのにわたしなんかを、「アリスはわたくしの妹同然」と言って下さって、わたしにしか言えないという悩みだって打ち明けて下さるのだ。もうわたし、お嬢様の為ならいつでも死ねる。
金色の長い睫毛に涙の粒を弾かせながらも、馬鹿にされたとちょっと拗ねているお嬢様も可愛らしい。物憂げな様子もそれはそれで絵になっている。ああ、でも勿論変な意味で惹かれている訳ではありませんよ。お嬢様の人間的な魅力の前では、男女問わず虜になってしまうのです!
だけどこの日のお嬢様は、わたしが気を晴らして差し上げようと明るく振る舞っても、ちっとも笑って下さらない。
「あのね、わたくし、これはただの夢ではないと思うのよ。夢、という形で下りて来たけれど、これは未来視だと感じるの……」
「! まさか、そんな。お嬢様の未来視は、いつもは神殿で祈りを捧げていらっしゃる時に」
未来視、という言葉に、初めてわたしは少しばかり動揺した。でもすぐにわたしは思ったことをそのまま口にした。
「そんな未来はあり得ません。だって、お嬢様が誰かを……しかも国王陛下を暗殺、だなんて。おまけにアレクさまが婚約破棄? そりゃもう、天地がひっくり返ったってない、って思います!」
「でも、ああ、あの生々しい手枷の感触がいまも残っているような気がするの。ただの夢だと思えなかったわ。アレクに婚約破棄されるなんて、わたくし、それだけでもう生きていけないわ」
「だから、あのアレクさまに限ってそんな事ありませんってば! 婚約破棄だなんて、まさか。昔から言いますでしょ、『婚約破棄はクマに喰わせろ』って」
「クマに? ど、どういう意味かしら」
「あ、間違えた、『夫婦喧嘩は犬も食わない』でしたね!」
「どうやって間違えたの!」
とにかく。王太子殿下が、政略で幼少時に定められた婚約者に対して、周囲に騙されて他の女性に目が眩んで婚約破棄を言い渡す……そんな事は、歴史の中にはあったとは聞くけれども、アレクシス王子殿下とヴィクトリア公爵令嬢に限っては、ない。絶対、ない。
わたしの言葉が終わるか終わらないかの内に、もう、それは証明されたように思う。
「ヴィーーーー!! 具合が悪いって聞いたぞ! 大丈夫か!」
扉を叩くと同時に開けてずかずか入って来られたのは、王太子アレクシスさま。見目良く賢く臣下への労いも常に忘れず、将来の王としての器は保証されているというのが一般的な評価で、わたしだってそう思っているけれども、世の中の人々の殆どが知らない面がおありなのだ。それは、溺愛している婚約者のヴィクトリアさまの事になると、途端になんかヘンになってしまわれる、という面。
「ア、アレクさま! お嬢様はまだ夜着のままで! いくら王太子殿下でも、まだ結婚してらっしゃらないのですから、お待ちになって下さいませ!」
「ええー、アリス、ヴィーが不調って聞いて飛んで来たのに、それは水臭くないか?」
「水臭いとかそういう問題ではありません。未婚の令嬢のお寝間に、例え婚約者であられても、男の方が立ち入るなんてあり得ません」
「でも、本当に大丈夫なのか、ヴィー?」
アレクさまはいつもの癖で、お顔にかかる金色の巻き毛を払いながら、本当に心配そうにお嬢様に話しかけられる。だけどお嬢様は、いつもならこんな時、喜んだお顔を見せられるのに、なんだかアレクさまに対してびくっとなさったみたい。きっと、さっきの夢、アレクさまに、婚約破棄と処刑を言い渡されたという、トンデモない夢の影響がまだ残っているのだろう。
わたしはお嬢様贔屓のあまり理不尽な怒りがむらむらと湧いて、こう言ってしまった。
「アレクさま。アレクさまがお嬢様を不安にさせるから、お嬢様はおかしな夢を見られたのですわ!」
「ええ? 俺なにかしたの?!」
わたしは公爵令嬢の侍女、本来なら王太子殿下にこんな口をきいてはお手討ちだって覚悟しないといけないのかも知れない。だけど、わたしは畏れ多くも、ヴィクトリアさまと兄上のエドワードさまと妹御のクリスティーナさま、アレクシス王子さまと第二王子のローレンスさま、そして皆さまの幼馴染のコンラッド侯爵子息と、子どもの頃からずっと一緒だった。ヴィクトリアさまとその御兄妹が、わたしを家族の一員だと言って下さったので、王子さま方もそんな意識で接して下さった。
勿論大きくなった今ではわたしは分を弁えているつもりだけれど、ヴィクトリアさまの事になると、ついそれを忘れてしまう。けれど、わたしがヴィクトリアさまの事を何より考えてのことだと皆さま解って下さっているから、お咎めを受けた事はない。
でも今、わたしの言葉を聞いたお嬢様は、弱々しいご様子で、
「アリス、いいのよ、アレクのせいじゃないわ。……心配をかけてごめんなさい、アレク。お忙しい筈なのに」
と仰る。
「いいさ、たまたま昨夜離宮で仕事してたから、今朝王宮へ帰る途中にヴィーの顔を見ようと思っただけだしな。そしたら、ヴィーが具合悪くて臥せってるっていうから、焦ってしまって、すまない」
アレクさまはようやく、ヴィクトリアさまが薄着な事に気付かれたようで、顔を朱くなさっている。
「大丈夫です。もう起きられますわ。アレクの顔を見たら元気になりました」
そう言って微笑んでみせるお嬢様。でもやっぱりなんだかうかないご様子で胸が痛い。
とにかくアレクさまには一旦応接室でお待ち頂いて、わたしは大急ぎでお嬢様の身支度を手伝った。
―――
明るい陽が照らす、白を基調にした広い応接室に来ると、お嬢様の気持ちも少し落ち着いたようだ。わたしが短時間でも完璧に仕上げた美しいドレス姿のいつものヴィクトリアさまを見て、アレクさまはぱっとソファから立ち上がって婚約者を抱擁した。
「ああヴィー、ヴィーの身になにかあったら、俺は生きていけないよ!」
「まあアレク、大袈裟です……それに、そんな事を言っては駄目ですわ。アレクは国王陛下になるのですから」
「解ってる解ってる、こんな事を言えるのもヴィーの前だけだから」
「アリスが聞いてます」
「アリスは喜んでくれるし、誰にも言いやしないからいいさ」
駄目ですと言いながらも、お嬢様はいつも通りのアレクさまの愛情表現に嬉しそう。アレクさまはお嬢様の額や頬に何度もキスをする。そうしてるうちに、遂にお嬢様の憂い顔も晴れて、いつもの笑顔になる。
「アレクったら! まるで仔犬みたいよ」
「愛する女性の前では、男はみんな仔犬なのさ」
……はい、意味わかりません。でも、お嬢様は笑って婚約者を抱き締め返して、朝陽の下でやっとお二人はいつも通りに屈託のないご様子になった。
わたし? わたしはここに居ていいのかって? わたしはヴィクトリアさまの兄上のエドワードさまに、「アレクさまが結婚前に先走ったこととかなさらないように、アリス見張っててくれよ」と言われていますからいいのです。周囲がそう心配するくらいに、アレクさまはお嬢様を熱愛なさっているのが誰の目にもはっきり映っているということ。
わたしはお二人が仲睦まじくされているのが何よりも嬉しい。でもいつまでもこうして眺めてる訳にもいかないしお二人はそれぞれご予定がおありなので、頃合いを見計らってこほんと咳ばらいをした。それをきっかけに、お二人は笑い合いながら離れてソファに座られる。わたしは大急ぎでお茶を用意して、お嬢様にはこう申し上げた。
「お嬢様、先程の件、もうそのままアレクさまにお話しになってはいかがです? そうしておいた方が、知らない間に誤解が、なんて事も起こらないんじゃないかと思うんですが」
そう、こんなに愛し合っているお二人に万が一の事があるとすれば、それはお忙しいあまりにすれ違ってしまって生まれる誤解から、以外に考えられない。男女がうまくいかなくなるのなんて、大抵は、前もってきちんと話し合っていればなんとかなった筈のこと。……男の方とお付き合いした経験のないわたしがお二人に提案するなんておこがましいのだけれど、わたしはそう固く信じている。
「そうね、アリス。わたくしとそなたで不安がっていても良い方にはいかないわね」
とお嬢様も同意して下さって、わたしに伝えた通りに夢の内容をアレクさまにお話しされた。
わたしが想像した通り、アレクさまは真面目なお顔になって、
「そんな哀しい夢を見るなんて、俺がヴィーに寂しい思いをさせているからなんだろう」
と仰る。
「い、いいえ、アレクが忙しいのは解っているもの。毎日お便りを下さるし、いつも一緒にいられないからって不安になる程わたくし子どもじゃないわ」
「俺は時々不安になるよ。ヴィーが俺のいない所で万が一良くない運命に目を付けられたら、って」
「良くない運命。この夢が、良くない運命の未来視ではないかというのがわたくしの不安で……」
けれど、アレクさまはお嬢様の不安を笑い飛ばして下さった。
「おいおい、『未来視姫』がどうしたんだ、ただの悪夢と未来視を間違うなんて? 俺の言う良くない運命って、事故や病気の事さ。そんな夢で見たような事は絶対に現実にはなり得ない。ヴィーを婚約破棄して処刑だなんて、そんな事をする位なら俺が百回処刑された方がましってものだ」
「まあアレク、またそんな不吉なことを。貴男の方がわたくしよりずっと大切な存在なんだから」
「俺が信じられないのか、ヴィー。俺は自分もヴィーも絶対守ってみせるさ」
「それは……信じているわ。そうね、わたくしったらどうかしているわね。ごめんなさい、馬鹿な話であなたを煩わせてしまって」
お嬢様は隣のアレクさまの肩にそっと頭を寄せた。
お嬢様が、あれは夢だと納得して下さったようだったので、わたしはすっかり安心してしまった。
この日からゆっくりと、お嬢様とアレクさま、そしてわたしの運命が狂い始めるのだとは、全く気が付けないでいた。