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3-6   私がこの世で一番苦手なもの。



 私の悲鳴を聞きつけた二人が門から駆けつけて来てくれなければ、私はあのままマリー直伝の痴漢撃退法その二を発動させているところだ。


 その後いきなり抱きついてきた痴漢男に通された男子寮の食堂は女子寮のそれよりも遥かに広くて......汚かった。


 汚いというか、一応掃除の人が入っているはずだから片付けを上回る速度で汚染されていっているのだろう。たぶん。


「ホント、さっきは悪かったって。でもあんなのただの挨拶じゃん? オレも脛に良い蹴りもらったわけだし、いつまでも怒ってないで機嫌直してくれよ。な?」


 そんな全く心のこもらない謝罪を口にしてヘラヘラと笑っている痴漢男を睨みつけた。この野--男は自分が女性に好かれるタイプだという自覚がある輩だ。


 私はこういう浮ついた男が前世から苦手である。たとえ前前前世からでも無理。


 黙っていれば神秘的に見えるスミレ色の瞳に、酷薄そうな薄い唇。形の整った柳眉にスッと通った鼻筋。柔らかそうな金色の肩口まである髪を女性もののリボンで一つに纏めている。


 彼を一言で言い表すと“美形”。残念ながら枕詞に“軽薄”とつくけれど。歳は私やマリーの少し下くらいに見える。興味がないから訊かないけど。


 今日ここにこの男がいるのは、本来の管理人さんであるお爺さんが年末の冷え込みで体調を崩して、急遽自宅療養に帰ってしまったからだそうだ。しかも信じられないことにあの老人の孫だと言うが真実は定かでない。


 女性には甘い笑顔を向ければ許されると思っているタイプ。ここに二人がいなかったら手許にあるカップの中身をそのニヤけた顔面にぶちまけてしまうところだ。


 別にここの紅茶の賞味期限が過ぎていて不味いからというのは......ちょっとだけ関係あるけど。紅茶の賞味期限ってコーヒーに比べてだいぶ長いのに。


 口に含んだ瞬間に広がったエグ味でここに来客がないのがよく分かった。一口しか含まなかったのにまだ口の中がカスカスする......。


 私の隣に座ったエメリンがそんな不快感を感じ取って男を睨んでくれるけれど、逆効果になりそうなので彼女を自分の方に引き寄せる。だってほら、世の中には可愛い子や美人さんに冷たくされるのが好きな特殊な性癖の人もいるらしいし。


「いや、その理論はおかしいな。そちらの軽はずみな行動で彼女が不快な思いをしたのは事実だ。機嫌を直す直さないの判断は彼女の決めることであって、そちらに決定権はない」


「チェッ、つまんねえ奴だな。正論なんざ聞きたくねぇよ。オレはカノジョに言ってんの。野郎は引っ込んでろよ」


「......ほぅ?」


 あ、何か思いもよらない方向からの援護に思わず反応が遅れたせいでこっちも険悪になっている。これは早めに要件を切り出してさっさとお暇した方が良さそうだわ。そうと決まれば......私はわざとらしい咳払いをして場の注目を集める。


「まず--新年おめでとうございます。旧年はお世話になりました。本年もよろしくお願いいたします」


 本来挨拶するはずだった人物とは違うものの、一応新年の口上は述べる。大人ですからね私は--と、言いたいところだけれど、この男が本当に老人の孫だった場合の保険でもある。


「え、あ、どうもご丁寧に」


「つきましては、本日は先日お願いしていた新しい制服のデザイン案を玄関先に張り出させて頂こうと参りました。ですので、これを張らせて頂ければこちらもすぐにお暇しますわ」


 そう言って本来褒められた行為ではないけれど、この場の主である男の了承を得ないうちから席を立った。無作法はお互い様だもの。両側の二人も続いて席を立つ。案の定、男は驚いた表情で私を見上げている。


 ---しかし、急に嫌な笑みを浮かべてふざけたことを言い出す。


「ちょっと待ちなよ。爺さんは張っても良いって言ったかもしれねーけど、いま爺さんはいないわけだし、代理のオレにも決める権利があるだろ?」


 この言葉は薄々さっきからのやりとり内で予測がついていたので私は拒否しようと口を開きかけた。ところが--。


「話にならんな。管理人殿、もう帰るとしよう。こんな男と関わるくらいなら直接学園に頼んでみた方がまだマシだ」


 クレイグさんはそう言うやいなや、私の腕を掴んで歩き出した。よろけかけた私をすかさずエメリンが支えてくれる。振り返ったクレイグさんに頷き返して三人で足早に食堂を出た。残された男の声が私達の背中を追いかけてきたが、誰も振り返ろうともしない。


 私の右の手首をクレイグさんが、左の掌をエメリンが握っている。右手に握ったこのデザイン画を置いていけなかったのは悔しいけれど、それよりも何か心に温かい物が広がる気がした。


 男子寮の玄関を抜けて門をくぐってからのしばらくは、誰も口を開かない。二人の掌が熱のはきっと腹を立てているからなんだろう。先頭を歩いていたクレイグさんがこちらを振り向く。


「管理人殿......先程はついあの男相手に偉そうな啖呵を切ってしまったんだが、実は--」


 申し訳なさそうに言葉を詰まらせる彼の言いたいことは分かっている。


「えぇ、確か“学園は全生徒に対して平等であり、一部の貴族を優遇、または個人の営利目的や商業活動を推奨したりはしない”でしたよね?」


 もとより学園側に張れるかどうかは真っ先に調べた。というのもエメリンの一回確実に洗濯したパリパリの生徒手帳に書かれた“学園設立の意志に反する行為”という頁に上記の文面があったのだ。


「私もエメリンも、ちゃんと調べて知っていましたから。だから貴方が責任を感じてそんな顔をして下さらなくても大丈夫です」


 私の後ろでエメリンも頷いているのか左手に振動が伝わってくる。その言葉を聞いたクレイグさんは緊張していた表情を和らげてくれた。彼の赤銅色の髪が雪の白と空の灰の中でそこだけ赤々と燃えるようだ。


「それよりも、早く私達の寮に戻って美味しい紅茶かコーヒーで口直しをしませんか?」

 

 そうわざとらしく顔をしかめた私に二人も賛同してくれる。三人であの男の悪口を言い合って戻る帰り道は、手許に残ってしまったデザイン画の悔しさを忘れさせてくれるくらいに楽しかった。



***



 腹立たしい男子寮の一件から三日後。新年休みの張り紙が次々と剥がされていく街中で、私はマリーの店の前で彼女の帰りを待っていた。近隣のお店の店主と新年の挨拶を交わしていたら人混みの向こうから「おぉ~い!」と聞き慣れた声がする。


 簡単な世間話に興じていた私は相手に待ち人が来たことを伝えてその輪から離れた。それからすぐに人混みをかき分けて待ち人が姿を現す。


「「新年おめでとう! 今年もよろしく!」」


 毎年恒例の二重奏挨拶、からの--。


「それから......ただいまぁ~!」


「お帰りなさい!」


 帰省の荷物を放り出して抱きついてきたマリーを私も力一杯抱きしめ返す。これも恒例の年始め抱擁だ。その後はマリーの放り出した荷物を回収して店の中に入った。


 店の奥にある彼女の居住スペースで帰省土産のおば様特製ビスケットを摘みながら、お互いの休み中にあったことを報告しあう。


 彼女の方は例年通り和やかな田舎は刺激が足りないという話から始まって、おば様に“あんたはいつ結婚するの?”とせっつかれたという愚痴で終わった。オチは二人で「出逢いがないのよね」と笑いあう。


 私の方も三日前の男子寮で突然出てきて約束を反故にしてきた痴漢男の話や、その痴漢男に彼女の教えてくれた護身術が役立ったことを面白おかしく語った。彼女は「そこは〇蹴りもしなきゃ」とアドバイスしてくれたが、さすがにそこまでの勇気はないと答えておく。


 笑って喉が渇いたので紅茶のお代わりを淹れていたら彼女が思い出したように荷物を漁りだし、中から何かを取り出した。

 

「あ、そうそう。ジェーンに頼まれてたシャツの件ねえ、あれ意外といけそうだよ? みんな結構乗り気で近隣の知り合いに声をかけてみるって」


 そう言って広げられたのは、彼女が帰省する前に私が見本を渡して頼んでおいた女子の制服用のコットン・フランネルで造ったシャツだ。枚数が増えているのと彼女の言葉から上手くことが運んだのだと分かる。


 私が彼女に頼んでおいたのはシャツの委託製造先を探すことだ。


 前世の記憶から、


 “冬の農作業が出来ない時期に内職として眼鏡を生産したところがあったからあれを真似してみたらどうだろう?”


 ......くらいの考えだったのだが、どうやらどこも冬季の収入減という悩みは共通だったらしい。そして女性の“自分で稼いでみたい”という自立心も。


 私はお茶を淹れる手を止めて一着ずつの出来映えを調べていく。この世界に既製品の洋服はほとんどない。だからどこの家庭でもみんなそれなりに洋裁が出来るのだ。


 思った通り、数着のうちすぐにでも使えそうな物が結構ある。名乗りを挙げるだけあって残りももう少しでその域に辿り着く物ばかりだ。


「でもこんなことよく考えついたね? 母さんも感心してたよ。勿論、あたしもだけど」


「そうかな? でも二人にそう言ってもらえたら自信つくなぁ」


 この言葉は嘘でも何でもない。彼女達は二代揃って“外で働く女性”だから昔も今も私の憧れなのだ。それと私のこちらでの母親も。前世の母親は......思い出したくもない。


 一針一針、丁寧になされた仕事。それを見ていると一瞬ささくれ立った心が和んだ。


「あたしもジェーンがそう言ってくれると嬉しいし、いやぁ、あたし達って最高の友人関係じゃない?」


「えー? だったらあのマチ針も友人価格にしてよ。あ、ついでに後で見せてよね?」


 シャツから視線を上げた私の言葉に、彼女が妙な顔をする。こっちもそんな表情を見て怪訝な顔になったのだろう。少しだけ何か考えるような素振りを見せた彼女は「ごめん。あれさ、売れちゃったんだよね」と教えてくれた。


 売り物なのだから売れて謝る必要なんてないのに。さっきの妙な表情も私が気に入っていたから言い出しにくかったのかもしれない。私はそんな律儀で優しい友人今度の休業日に眼鏡を選んでもらう約束を取り付ける。


 そんな風に彼女と過ごす間にあの痴漢男と顔を合わせた三日前の不愉快な出来事などすっかり忘れた私は、この翌日に再びおこる騒ぎなど知る由もなく、お茶の続きを楽しんだ。



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