2-2 私の定規が唸りを上げる時みたいね?
あのワガママがまさか本当に訊き届けられるとは......しかもたった七日で。もしや遅いと思った? とんでもない、ア〇ゾンもないこの世界では信じられないくらいの特急配達だ。いったいどんな手を使えばそんなことが可能なんだろうか?
自分で注文しておきながら部屋に運び込まれたそれに受け取りのサインをする段に至っては手が震えたほどだ。前世からの買い物額を遥かに上回る高額商品の包みを開いた時のあの感動といったらもう--。
パッと見ただけでは全体的に真っ黒な錆防止塗装で加工された無骨な商業用といったデザインの“マーティン・レッドメイン社”製足踏みミシンだが、製品の性能は見た目からではほとんど分からない場合が多い。
というのも大抵埃が入り込まないように覆いを被せてあるから中の機構が見えないのだ。現に私も実際使ってみるまではその凄さが分からなかった。こういう高級品は噂が一人歩きしている場合も多いしね。
受け取ってから早速取りかかりたかったのだけれど、手配してもらった代わりの管理人さんに簡単な業務の引き継ぎに丸二日かかってしまった。それでもたったの二日でここの細々した業務を全て業務を憶えきれるとはさすがである。四十代前後の優しそうな女性で名前はマリアさん。何でも他の土地でシスターとして修道院にいたという。ここの管理人には最適な前歴を持つ人材だった。
なので、三日目からは部屋にこもって試運転をさせることが出来た。癖を掴むのにもっとかかると思ったが、さすがのクオリティー! その日の内に馴染ませることに成功した。
四日前のその感動を反芻しながら、私はミシンを踏んでいた。その踏み心地まるでは雲の上か羽根のように滑らかだ。学校に何故か一台だけあったあの古い足踏みミシンとは比べるべくもないが、それでもいま私がこれを使えるのもあのミシンのおかげだ。
踏み込むごとに一針一針縫い進められていくエメリンの制服はこの四日でほとんど縫い上がりそうだった。というのも私がはしゃいでほぼ寝食も忘れて没頭したせいなのだが......。
お陰様で肌はボロボロ、髪の艶は失われてバサバサ、目の下にはくっきりとクマが出来ている。絶対に今この顔で寮内に人目のある時間帯は出歩けない。故に私はほぼ自室に閉じこもりっきりだ。でもこれ楽しい......!!
しかしこんな高級品を取引材料に提示しておきながらこの作業ペースはだいぶ心苦しい。今はただ、このワガママに血税を使ったりしていないことを心の底から願うばかりだ。あれ、でも前世の記憶では国によっては王族の使うお金は王族が経営する企業や会社で賄うと訊いたこともある気がする。この国も是非そうであって欲しいものだ。
この世界に転生してから最近になって記憶を取り戻すまでの日々を、私はほぼ全てにおいてこの寮の管理に費やしてきた。何て言ったって両親に連れられて幼い頃から出入りしているのである。学校自体は平民の子が行くところに通っていたが、この寮内のことに関してなら学園の生徒より詳しいと自負していた。
要するに何がいいたいかと言えば--趣味にこんなに時間が割けるとは素晴らしい! ということである。
あの後シーチングで造った仮縫いの仮縫いをエメリンにフィッティングさせてみたら、思いのほか手直しをする部分が少なかったのも良かった。お陰で一気に仮縫いから本縫いに取りかかれたのだ。このペース配分なら小物類を入れてもあと二週間ほどで出来そうかな?
造るのは難しい技術をふんだんに使用した高級品。よくよく考えればこの学園の制服は普通の制服と違い、ピッタリフィットするように出来ている上に生地からして学園特注のフルオーダーメイドなのだ。生前学校で習った技術の集大成のようなこの仕事に、俄然やる気に火がついた。生前の私は何も伊達や酔狂で社会人を経て専門学校に通ったわけではない。
--本当に、本当に、本当に、こうして真新しい制服を造りたかった。
家に余裕がなかったうちは、近所の年上の子がいる家の人に頭を下げてお下がりを貰うばかり。まだ小さい間はそれでも良かったものの、大きくなってからは新しく学年が上がる度に嬉しさよりも悲しさが募るばかりで、生前の私は春先の桜のシーズンが大嫌いだった。
だからあの日エメリンがまだ仮縫いのこの制服に袖を通して嬉しそうにクルクル回って見せてくれたとき、私は胸が一杯になったのだ。だって前世から数えて人生で初めて手がけた制服を、若干あれな娘だとはいえ彼女のような美少女に着てもらえたのだから。嬉しいに決まっている。そう、若干あれな娘だとはいえ。
そのせいか現在完徹二日目に入って疲れはすでに限界値を迎えているはずなのに、眠くなるどころかむしろ脳が活性化している気さえする。コンペ前の高揚感に似た気分だ。普段はスカート丈を測るだけの定規もその仕事を思い出して布の上で活躍中。
この分なら部屋に溢れているストック生地でボレロの上から着込めるコートも造ってあげられるかもしれない。確か赤と黒と緑の混じったタータンチェックの生地がどこかにあったはずだ。一瞬だけ手許から顔を上げて部屋を見回す。
うん......確か、そう、この部屋のどこかで見たはずよね?
ひとまずふかいの森に沈んでしまった生地の捜索を諦めて再び手許に集中しようとしていたら、控えめにドアをノックする音がした。今の自分の人相を考えると顔を出すのは嫌だ。とはいえ開けないわけにもいかないだろう。物凄く渋々ミシンの前から立ち上がって布の海をかき分ける。毎朝見ていた姿見はその半分ほどが埋まって上半身しか映らない状態だ。
人の堕落の早さに驚きつつ、簡単に髪を整えて上半身に付いた糸くずを払う。ドアを開けた向こうにいる人がたった数日で酷いことになっている私に驚かないでいてくれればいいのだけれど--。
そう思って開いたら、ドアのすぐそこに立っていたエメリンがあからさまに息をのんだ。うん、まぁ、そうね。仕方のない反応だと思うわ......。とはいえ傷付かないわけじゃないけどね?
「あらエメリンじゃない。こんな時間にどうしたの? そろそろ通学時間でしょう?」
言葉を失っているエメリンに先にそう声をかけると、ようやくゴルゴンに睨まれたように固まっていた彼女があわあわと不思議な踊りを披露してくれる。うんうん、落ち着け? 辛抱強く彼女がその奇っ怪な踊りを止めて喋り出すのを待つ--はずがないでしょう。忙しいのよ、こっちは。
「エメリン、お願いだからその踊りを止めて。何か私に言いたいことがあって来たんでしょう? 制服のことだったらごめんなさい、あと二日は時間が欲しいのだけれど」
こういう時に先回りして自分の意思を伝えるのは大人の特権よね。狡くない。社会人のルールというか嗜みかしら? エメリンはそんな言外に“早くしろ”という私の意思を正しく汲んでくれた。少し見ない間に成長したわね。
「あ、えぇと、わたしが用があるかと訊かれたらそうじゃなくって! マリアさんが大変っていうのか......あの、とりあえず一緒に玄関先までついてきてもらえませんか?」
だが断る!! と声を大にして言いたい。しかし彼女があまりに必死な顔をしているのでその気持ちをグッと堪えて頷いた。
「良いわ。でもさすがにこの格好じゃあ--」
「あぁ、そうなんです! いつも装備してるあの定規を持ってきて下さい!」
「あのねエメリン? 別にあの定規は私の装備品ってわけじゃあないのよ?」
「いーえ!! マクスウェルさんのあの定規はこの女子寮にとって聖剣みたいなものなんです!!」
おいおいエメリン、それでいくとここのご令嬢方はモンスターになってしまうわよ?しかしながら彼女のその発言で何となく呼ばれたことの想像が付いた。ここはその昔から由緒正しいご家庭のご息女様を預かる女子寮だ。
したがって慎ましくて清らかなシスターでは手に負えないこともーーある。彼女達は華のように愛らしい見た目のモンスター。そんな彼女達を抑えつけるのに回復系はお呼びでない。
「すぐに用意するから、その間マリアさんと貴女で誰も門から出ないように玄関先を封鎖しておいて頂戴ね?」
せっかく普段愛想のない私が“にっこり”してあげたのに、エメリンは「ひいっ」と小さく声を出して頷くとそのまま廊下を走っていってしまった。何とも失礼なことである。私はすぐに部屋に戻って姿見の前の生地をかき分けて、その前で実に五日ぶりに黒髪に藍色のリボンを巻きつけてかっちりと結い上げた。
銀縁の丸眼鏡をかけ直して 、糸くずまみれになった立ち襟の真っ黒なお仕着せに埃取りをかける。元から女性にしては厳しすぎる顔立ちに険の強い榛色のつり目の下に、今はクマまで出来て迫力満点だ。
布の上で本来の仕事についていた定規を手にして、そのしっくりくる感触に微笑む。エメリンの慌てようからもこれはどうやら、今日は丈を計るだけではすまないかもしれない--。エメリンはこの定規を“聖剣”と評したがこれはどちらかと言えば“伝家の宝刀”である。
特に力を入れずに振るった定規が“ビシュンッ”と頼もしい唸りを上げる。幸いすぐ発掘出来たソーイングセットをお仕着せのポケットに忍ばせていざ戦場へと赴く。
階段を下りきった私が目にしたのは予想通りというべきか、案の定というべきか......玄関先ではあと一押しで泣きそうなマリアさんと援護しきれず揉みくちゃにされているエメリンの姿であった。いくら長年女の園にいたとはいえ、そこはやはり修道院。
キャットファイトをしたことがあるはずもないマリアさんは、有り得ないスカート丈で出かけようとする彼女達を何とか引き留めようと行く手を阻むも突き飛ばされて尻餅をついてしまった。
彼女達の行き過ぎた行為を見かねた私は、定規を握る手に力を込める。階段から私が歩いてくるのを目視した数人のご令嬢方がその場で竦んだ。しかし完徹二日目の妙なテンションも相まって何だか愉快な気分だ。手にした定規で掌をビシリと音が出るように叩くと、それまで騒がしかった玄関先は一瞬にして静かになった。
「皆さん、おはようございます。さぁいつものように一列に並んで、淑女たるものお静かに、ね?」
ギギギ、と音がしそうなぎこちない動きで数人のご令嬢が振り返る。彼女達の家は躾に厳しい騎士の家系。それを見て動きを止めたのは次に私から学園へ手紙を出されると家に送り返される夜遊び常習犯。不届きにもこの女子寮に婚約者とは違う男子生徒を忍び込ませようとしたご令嬢。他にももろもろやましい秘密を抱えた彼女達が一斉に私を振り返って青ざめた。
別に彼女達が影で何をしていようがただの管理人である私に関係はないし、常であれば私と彼女達の間にある程度の絆もある。けれどこういうことがある場合を考えて、私は彼女達が学園から帰ったあと常に寮内の秘密の通路を歩いているのだ。そしてそんな彼女達の中にはもしも機嫌を損ねて暴露されたら困る娘も多数いる。
本来ならこうした脅しまがいのことはしたくないのだけれど......今日は特別ということで、一つ。
「あら、どうしたの? 早くしないと遅刻してしまうわ」
久し振りの私の登場に皆がとても喜んでくれたのは言うまでもない。ただやっぱり彼女達の反応を見て思ったのは、やはり一刻も早くエメリンの制服を仕上げなければならないということと......私が無愛想でいた方がこの女子寮は平和なようだということだ。