9
朝顔に先導され、今日は袿の裳裾が長いので鈴蘭が介添えに付く。いつものことながら、この渡り廊下は複雑で、とうてい覚えられそうにない。有為はこっそりすぐうしろの鈴蘭に話しかけた。
「鈴蘭はよく道順を覚えられるね」
「ああ、それは、匂いで」
なるほど、この子は狐の子だった、と有為は思い出した。このお屋敷にいるものはみな妖なのかもしれない。もしかしたら人間は有為だけなのかも。でも、有為だって、ますます髪が白く透き通り、目の色も猫の銀目のように青く光るのでは、とうてい人間には見えなくなってしまった。これではもう人里には出られない、と思う。
それ自体には何の不満もない。もともと生まれた邑以外知らない有為だ。そしてその邑にはもうもどれない。あの家も地主のものになった以上、とっくにとりこわされて畑地になっているかもしれない。墓だけはもう一度きちんとおまいりしておきたい気持ちはあるが。祖母と父親、顔も覚えていないが産みの母、祖母に聞かされた祖父くらいはちゃんと別れを言っておけばよかった。
そんなことを考えているうちに、奥の宮についてしまった。今日はなぜか入口に上臈方がずらりと並んでそろって手をつく。まるで今朝と同じだ。いつも以上に磨きこまれ、掃除のゆきとどいて清々しい座敷に上がり、顔がうつるほどぴかぴかの食卓につく。めずらしくお館さまは遅れているようだ。
座って待っているとお茶が出た。陽炎が申し訳なさそうな顔で持ってきたのだ。やっぱり忙しいんじゃないか。有為はそう思った。白妙でごはんを食べてもよかったのに。いやいや、有為は我が身を省みた。忘れてはだめ。有為はお館さまのお相手をするために、ここに置いてもらっている。きれいな着物をもらい、おいしいごはんを食べ、のんびりと遊んで暮らしていられるのも、みんな、お館さまのお相手をするからこそだ。お館さまが忙しいなら自分の部屋でごはんを食べようなどと、対等な身の上で言えること。
そこまで考えて、有為は肩を落とした。昨日だって勝手に帰ってしまってはいけなかったのだ。だからお館さまを怒らせて、奥の宮の上臈方を困らせたのだ。こんなによくしてもらっているのに。恩知らずだ。
「お先にお召し上がりください」
有明が料理の器を並べはじめた。有為はかぶりをふった。村雨もぜひにと勧めてくる。
「天河さまはまだ少しご用事がおすみにならないようで」
「ううん、まってます」
有為はうつむいてつぶやいた。村雨と有明が顔をみあわせて困惑したのを、うつむいたままの有為は気づかなかった。料理がさげられ、改めてお茶とお茶うけが出された。まるくて香ばしい胡麻餅だ。中にはいっている胡桃餡は有為の大好物だ。有為は申し訳なくなった。みんなこんなに有為によくしてくれる。
廊下をばたばたと走る足音がして、戸障子が乱暴にひきあけられた。肩で息をつくお館さまが立っていた。五つ衣の衣紋も乱れていつもきれいな髪もふりみだしている。
「ごめんなさい、待たせて」
お館さまはへたりと座りこむと、陽炎がすかさず裾や袖の襲を直す。さました白湯が出され、お館さまはそれを飲んで息を整えている。
「先にはじめてくれればよかったのに」
お館さまがつぶやくと有為はだまって首をふった。手際よく配膳される料理はちゃんとあたたかかった。有為は最前からぐるぐる考えこんでいた。やはりこんなぜいたくな暮らしはまちがいだ。初めに考えたように、ちゃんと働かせてもらおう。白妙を出て使用人の住まいに移るんだ。
「有為さま?」
朝顔がうしろから袖を引いた。有為が箸もとらずじっとしているからだ。有為ははっと顔をあげた。その場にいる全員が自分の顔をのぞきこんでいるのを知って真っ赤になった。
「どうしたの?好きじゃないものばかりだった?」
お館さまがきいてくれるのに応えて首をふった。上臈方が朝顔に小声でなにか尋ねている。
「…昨夜の……?」「いえ、そのような」「では……のせいで」「いえ、けっして……」「まさか……!」上臈方がざわめいた。
「ごはん食べよう。食べられるだけでいいから、ね」
有為はこっくりすると、改めて箸をとった。あたたかいお米のごはん、具いっぱいの香ばしい味噌汁、粕漬の魚の焼き物、卵焼き、青菜のひたしもの、豆と野菜の煮物、酢の物、浅漬と、手近にあるだけでもとても食べきれないほどのごちそう。こんなごちそうは邑では見たこともなかった。
稗や粟の雑穀のごはん、畑もどきで作った貧弱な野菜や野草、堅くてうまみがなくて、量も足りないごはんを、一日に二度食べられればいいほうだった。有為は自分の頬をころがる滴に驚いた。
「どうしたの?おなかいたいの?きもちわるいの?」
お館さまがとびつくように有為を囲い込む。きれいな手で頭や額をなで、喉をさわり、背をさする。
「どうしよう、横になる?」
有為は黙って首をふるばかりだ。なにか言おうとすればするほど、のどの奥からかたまりがぐーっとあがってくるみたいで、声にならない。何を言いたいのかもわからない。
ごはんが気に入らないなんてとんでもない。ここがイヤなわけない。みんな親切だし、お館さまは優しい。毎日遊んで暮らして、大切にしてもらって、まぎれこんだ寄る辺ない人間の子の身には余るばかり。ごめんなさい、ごめんなさい。
気がつくと有為は奥の宮の御帳台に寝かされていた。朝顔が心配そうにのぞき込み、有為の額にのせた濡れ手巾をとりかえてくれた。
「今お匙師が参りますので」
その声に重なって、戸障子の開く音がして、小さい白衣の狩衣をまとった老人が座った。
「十六夜と申しますじゃ。お脈を拝見いたしましょうぞ」
しわしわの中に目が埋もれ、優しい気づかわしい声で静かに有為に話しかけた。有為の手を取って脈をみ、口を開けて舌をみた。
「お気のわずらいでございましょうなあ。こなれのよいあたたかいものを召し上がって、静かにお休みになるのが一番の薬でございますよ。芋粥か甘酒などがよろしいでしょう」
すぐに誰か立って行く衣擦れの音がする。
有為は申し訳なくて情けなくて、泣きそうになるのをがまんして目をぎゅっとつむった。
「ほれそのように、お心に無理をさせるのがよろしゅうございません。もっとお楽になされてくだされ。こんなに稚い方に重責を負わすなど、周りの者の気配りが足りぬのじゃ」
後半は上臈方への叱責だった。
「このお方がおいでくださることが、天河さまのお薬なのじゃと、もっと胆に銘じておかねばならぬ」
ちがうのちがう、みんなとてもよくしてくれる。有為は十六夜の狩衣の袖をぎゅっと握った。
「やれそのようにお気を遣われる。この爺にはわかっておりまするぞ。こなたさまがほんによいお子なのも。天河さまや館の者に感謝しておいでなのも。してもらってあたりまえ、とはお思いになれない。今の身の上がありがたく、申し訳なく思うお気持ちが、お胸を圧してお気のわずらいとなるのでございますよ。なんでも申されるとよいのじゃ。我慢などなさることはございません」
有為はここでは余計者だ。妖の力は人間を越える。お館さまはその妖をつかうもの、たぶん人間が畏れかしこむ神なのだ。その神さまに特別扱いされている。有為自身はただのみなし子なのに。もともとただの迷子で、狐の子に誘われて、お屋敷で働かせてもらうはずだった。それなのに、まるでお客さまのあつかいだ。
お屋敷のみなは、誰だって有為より格上なのに、お館さまの命で有為に仕えている。それはまちがっているのではないか。申し訳なくていたたまれない。有為はたどたどしくそのことを口にした。有為は学問がない。思っていることをふさわしい言葉で伝えることも難しいのだ。十六夜はうんうんとうなずいて、つたない言葉を拾い上げてくれる。
「その小さなお胸を痛めておいでになったのですのう。だ、そうでございますよ、天河さま」
十六夜は背後を振り返った。御帳台に横になった有為には見えなかったが、十六夜のうしろにはずらりと上臈方がいならんでいた。その先頭、十六夜のすぐうしろに座っていたのがお館さまだ。
「このお方さまが稚い身で、まだ人の気が抜けきらない身で、思いわずらうそのお気持ちさえ、口にさえ出せずにおいでになる。そこをご配慮なさるなら、なぜ婚姻をせかされたのか。ご反省あるべきでござりましょう。せめて少しでもご説明があれば、このお方さまもかように不安になられることもなかったとは思さぬかのう」
十六夜の意見に、お館さまがしゅんとうなだれている。
「祖父さま、甘酒をお持ちしました」
有明の声がして、塗り盆の上に青磁の蓋つき茶碗がのせられて、脇から差し出された。十六夜は「うむ」とうなずいて、蓋をとり、有為に勧めた。朝顔が有為の背を支えて座らせると、十六夜は膝の上に盆をのせた。
「お身がぬくもりますので、おあがりくだされ」
有為はそっと甘酒を飲んだ。あたたかくて甘い。
「さて、爺はご前を下がらせていただきますじゃ。みなも遠慮せよ。あとは天河さま、あなたさまがお慰めせねばなりますまい」
十六夜がしわしわの目で優しくほほえむと、有為はなぜか大丈夫な気持ちになった。甘酒はいつか空になっていた。おなかがぽかぽかする。胸のところにあった痛い塊もいつかなくなっている。さやさやと衣擦れがしきりにして、御帳台には有為とお館さまだけになった。