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 こうして有為は毎日お館さまとごはんを頂き、いっしょに遊んだり、お話しをしたり、庭を歩いたり、絵物語を読んでもらったり、文字を教えてもらったりした。お館さまはいつもきれいでよい匂いがして、優しくてちょっとばかり泣き虫だった。何でもよく知っていて何でもじょうずにできた。こんなきれいな女の人がこんな山奥のりっぱなお屋敷の主で、いったいどういう人なのだろう。有為には不思議だったが、これは尋ねてはいけないことだとうすうす思っていた。ここは尋常の人の住む世界ではないようだから。

 午後はいつものように湯殿に行って下臈方にお世話を受けた。これももうすっかり慣れた。椅子にかけて髪を梳いてもらうと、いつのまにかずいぶん長くなっていた。ときどき切りそろえてもらっているのに、腰のあたりまでとどくほどのびた。おや、と思って、いつもはろくに見ていない鏡を見ると、そこに映っている有為の顔が前と違って見える。やせこけた子どもの頬はまるくなり、日焼けしていた顔色も餅のように白い。疲れと眠気からはんぶん閉じていたまぶたもぱっちりして、くぼんだ口元もふっくりしている。有為に似ているが前の有為よりずっとかわいらしい。

 なんだか髪の色と目の色がうすくなっているような気がする。ごちそうばかりいただいて太ったのに、髪の色がうすくなるなんて変だ。光があたっている方が白っぽく見えるのだ。白髪なんて老婆になってしまったのか。そういえば、昔話で玉手箱をあけて白髪の爺になった男の話があった。このお屋敷全体が大きな玉手箱なのだろうか。それでも、有為はずっとここにいたい、と思ってしまった。行くあてがないから、ではなくて、ここにこそいたいと。


 そんな夢を見られるほど、有為の運はいいはずがないのに。生まれてすぐに母親を亡くし、育ての祖母を見送り、父親も失って、義母と義妹からは使用人の扱いをうけ、あげくに家を追い出された子ども。それが有為だ。見目も悪く、要領も悪く、人付き合いもうまくはない。優しくされ、りっぱな家と着物と食べ物をもらって、安楽な暮らしが続くはずもなかったのに。

 手を見れば、あかぎれとマメでぼろぼろだったのがすっかり治っている。何年か前薪を割りそこなって鉈で付けた傷も見当たらない。水桶の担い棒の当たる肩のタコも手でさわってもわからなくなった。こんなお嬢さまのような暮らしをしていたら、もう金輪際働く暮らしにもどれやしない。いったいどうしたものだろう。このお屋敷で働く、という話はどこへ行ってしまったことか。


「あの、朝顔さん」


 湯殿から白妙にもどる途中で、有為は先導する朝顔に声をかけた。


「なんでございましょう」


 朝顔は足を止めずに有為の方に顔をむけた。器用な人だ。


「ワタシはほんとは何をしなくちゃいけないんでしょうか」


「有為さまはちゃんとお勤めくださっているではありませんか」


 朝顔はにこにこした。


「だけど、毎日お湯に入ってきれいな着物を着て、ごちそうをたべて、お館さまと遊んでもらうだけで」


「りっぱなお勤めではございませんか。最初に申し上げましたように、有為さまのお仕事はお館さまのお相手でございます。たいそうお館さまのお気に召して、毎日お遊びくださるので、奥の宮の者ばかりか、屋敷内のものみな、有為さまに感謝もうしあげておりますよ」


「でも、でも、こんな安楽な」


「お湯をつかってきれいな着物を着るのは、お館さまのお側に行くのに必要なことです。ちがいますか」


「ちがいません」


「有為さまがおいでになる前は、お館さまの食が細くて、皆はたいそう心配しておりました。お部屋を出ることもなく、お仕事を終えるとあとはただじっと御帳台みちょうだいの中にたれこめて、夜も灯もおかず、奥庭をご覧になるばかりだったそうですよ」


「でも」


「有為さまがいらしてから、あれこれ有為さまのお気にいるようなおいしいものを案じたり、ずっと塗籠ぬりごめに入れはなしだった手遊びの物も取り出し、有為さまにお着せするものもご注文になって、それはそれは生き生きと楽しそうにお過ごしでございます」


「それは、迷鳥に餌付けするようなものでしょう」


 まあ、と朝顔は立ち止まった。


「めっそうもございません。有為さまにはなぜそのような」


 有為はうつむいてぽつりとこぼした。


「人間がものめずらしいから」


「ここの人はみんな、人間ではないですよね。鈴蘭は狐の子だし」


 朝顔はほっと溜息をついた。


「そのお答えができるのはお館さまだけでございます。でもお館さまにお問いかけになるのは、もうすこしお待ちいただけませんか。せめてお館さまがもうすこしお元気になるまで」


 お館さまは確かに初めて会った時よりずっと顔色も明るくなったし、立ち居も力強くなった。前には貴人が患う「気鬱きうつの病」というのだろうか、ものうげで力弱い様子だったし、すぐ涙ぐんだ。有為に遊びを教えてくれるときでも、急に痛いくらいぎゅっと掴んだと思うと、壊れ物にでもさわるようにする。いつも有為の顔色をちらちら伺うのに、まっすぐ見るとぼうっと惚けたような目をする。そういう時はいつも、声に出さないまま「真澄」と呼ぶのだ。「真澄」という人に有為がどこか似ているのだろう、と思う。たぶん、昔お館さまの身近にいたのだろう。

 このごろは有為と同じくらいごはんも食べるし、庭に出て遊ぶことも増えた。たしかに元気になってきたのだ。それに、ごはんの後で遊ぶ時も、奥の宮の上臈が


「御寝の刻でございます」


と告げても


「もうすこし」


と延ばしてしまうことも増えた。有為があくびをするとあわてて


「今日はもう寝ましょう」


というのだけれど。それでも有為の袖を取ったり髪をさわったりしてもじもじする。朝顔が有為を連れて出ていく時も、振り返ってお辞儀をするといつも有為のことをじっと見ている。


 ここに来てもう何年もたったような気がする。朝顔に尋ねると


「それは有為さまがここの暮らしに馴染んでくださったからでしょう」


と微笑む。それほど時はたっていない、というのだ。たしかに鈴蘭も陽炎も大きくなったようには見えない。でも有為の背が伸びた気がする。髪の毛はたしかに伸びている。今はもう腰丈をすぎてしまった。何日かに一度、湯殿係の常盤が剃刀でそいでくれるので、腰丈のままなのだが。義母が髪を洗うときには、この乾かすという作業に半日はかかっていたと思う。

 月に一度、地主の所から専用の髪結いが来ていた。義母は座敷に横になって、敷布の上に髪を扇状にひろげ、それを髪結いが丁寧に梳ってまっすぐにしていた。そのままじっと乾くのを待つのだ。乾きかけると髪油をぬってまた丁寧にとかす。この時一番髪が傷みやすいのだという。ちらほらみえる白髪を抜き取るのもこの時だ。義妹が


「おとなになるとめんどうくさいなあ」


と言っていた。でも、ここでは違っている。

 湯殿係が座ったままの有為の髪を乾かすのは、湯帷子の上から肩布をかけ、その上に濡れた髪を広げてきれいにとかしつける。その上に頭布をかぶせてしばらくするとあたたかい風が吹き抜ける。頭布がふわっと浮くと、常盤が


「乾きました」


と言って頭布をはずすのだ。髪はもうしっとり乾いてつやつやさらさらになっている。その腕前は人間の髪結いなどの比ではない。

 その髪の色はたしかに白い。気のせいではない。胡粉のような白さではなく、雪のような白さなのだ。少しずつ色が抜けて行ったのだろう。今はそれほど気にならなくなった。手足の色も抜けていき、邑にいた時のような日焼けは残っていない。いつもカサカサと荒れていた傷だらけの皮膚はすべすべと練り絹のようだ。もしかしたらいっそう「真澄」という人に近づいているのかもしれない。それでお館さまの気持ちが安らぐなら、それでもいいのだ。


 早く眠るので、朝は早く目が覚める。前とちがい、ぐっすりと眠るので疲れはなく、すっきりと朝を迎える。鈴蘭の世話で洗顔して口を清める。朝顔の用意してくれた着物に着替える。朝のお粥をいただく。その後は暇だ。

 白妙には専用の庭がついており、たいていはそこに出る。小鳥やちいさい獣がやってくる。奥には池もある。池にはカエルや魚が住んでいる。食べ残したごはんを干した糒を餌に撒く。鯉や鮒や目高、鯰、泥鰌、沢蟹や蝦もいる。イモリもいる。たいして大きくない池なのに、水脈でもあるのか、かなり深い上にいつも水はキレイだ。庭に来る生き物はこの池で水を飲むようだ。庭は手入れする者があるのか、あまり乱れた様子がない。

 縁の脇のところを少し草を抜いて土を掘り、畑のまねごとをしてみることにした。以前は食べるために必要にせまられて作っていた畑もどきも、今はただ楽しみのためにしている。朝顔に頼んで小さな鋤や鍬、鎌をもらった。水遣りの桶や如雨露ももらった。ままごとのような畑だ。

 池の水を汲むのにも、桶に目ざるを置いて水を濾す。落ち葉などは構わないが生き物が入るとかわいそうだから。目ざるにはたまに稚魚や小蝦がかかるのだ。それを池にもどして濾した水を畑もどきに撒く。土を掘り、石や枝を取り除き、刈り取った草を堆肥にして砕いた土に埋めていく。水を撒き、飛んでくる雑草の芽を抜き取る。草もかわいそうだけれど、庭の別のところに捨てる。運がよければ根がつくかもしれない。畑もどきには何を植えよう。瓜とか茄子とか青菜や豆も早く育つ。はて今は何の季節なのだろう。ここに来てからはいつも穏やかで気持ちのいい季節だ。

 一刻も畑遊びをするうちに、朝顔が声をかけてくる。手足を洗い、縁でおやつを食べる。水菓子のことが多いが、唐菓子も出る。団子や餅がでることもある。お茶を頂いてしばらく休む。

 昼過ぎになると庭には出してもらえないので、部屋で手習いをしたり、縫い物を習ったりする。これも無理に勧められたりはしない。気が向かなければ日がなぼんやり庭を眺めていることもある。そうしていると邑のことを思い出す。祖母のこと、父のこと、邑の家のこと。庭で飼っていた鶏は地主がもって行っただろうが、崩れかけの母屋に巣食っていた獣たちはどうしただろう。思い出せば墓参りもしていない。一度くらいは帰ったほうがいいのだろうか。義母や義妹とて悪い仲ではなかったのだ。今こうして何不自由なく日を過ごしているからこそ、昔のことが懐かしくなるだけなのだろうけれど。


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